マインドフルネスしているそれ…自分?のもの?
マインドフルネスする対象=客体
マインドフルネスをしている主体=自分
たとえば
“衝動”みたい対象は、わかりやすい。
怒りや絶望感であったり
強く、激しい、激情みたいなエネルギーは
大きなサイレンのようなもの
気づこうと努力しなくても
気づきやすい みつけやすいから
ある意味、マインドフルネスもしやすい。
それと対照的なものとして、、、
空気みたいな対象
無感覚、無味無臭、派手じゃないジミー
なのは、気づかない/気づきずらいから
マインドフルネスする対象にもならない/なりずらい。
あるのか?ないのか...ぼんやりとした
千と千尋の神隠しの
“カオナシ(荒ぶってないほう)”みたいなエネルギー
そういうのが
最後までのこる“自分”だろう
、、、、、、、
あれ、でも、まてよ?
それ...”自分”とおもってるけど
“自分”なのだろうか?
消せるだろうか?
それ、消える?
、、、、、、、
というところに気づいてみると、
その “衝動” と呼ばれる
わかりやすいエネルギーもおなじく、
“自分” だったのだろうか
、、、、、、、
世にも奇妙な物語の
テーマ曲が流れ始めます ( ꒪⌓︎꒪)
これまで ずーっと
マインドフルネスしていた
対象または主体だろうとおもっていた
それ
ただ在る 起きてる ひとつ
対象も主体も”それそのもの”であって
それこれと分離しているわけではないし
“自分/自分のもの”ではない、単なるこれ
“自分”とはアイディアでしかなくて
そのアイディア概念が浮かんでいないとき
“自分”や“自分”以外のなにかもなく
ただ在る =無境界
”気のせい”
オバケ幽霊とおなじ
「いる」とおもっているから、
「いる」ことになっている
「いる」ような気がしているけど
それ どこにいる? ある?
ちゃんと
探してみよう
確かめてみようとすると
どこにも“ない”
ということがハッキリしてしまう
最初から
よくよく確かめればよかったあーー
でも、もう、当然 疑うまでもないと
探されることもなかった/確かめられることがなかった
オデコの上の眼鏡みたいに、、、
そうやって確かめられるまでは、
なんとなく「いる/ある」だろう気配イメージとして、
あり続けているモノコト“自分”
サスペンスドラマのトリックみたい
ソイツがいるいると信じこませておいて、
本物の犯人からの目くらましとしてのオトリ
= 実際は存在していない
でも、実際にいなくても
「いるだろう」というイメージだけで
十分な機能を果たしている
イメージ記憶アイディアは
左脳上/コトバ上にしか存在しておらず
左脳が優勢なときには気づかれないけど、
左脳がひっこんだときには消えてしまう
左脳的テロップ(字幕、解釈)がないと
そのままだけが在る
それだけ??
「 それだけだよ 」
なにも変わらないじゃん?
いやいや、もっと“なにか”あるんでしょ?
あまりにも「フツー、変わり映えしない」から
それ以上の“なにか”があるんじゃないか?と想像/期待してしまう
さっきの幽霊や実在しないオトリみたいに、、、
「いまは、まだ、わかっていなかったり、
気づいていない”なにか”があるんじゃないか?」
というイメージがイメージとして生じて、
それを探す、わかろうとする、気づこうとしてしまう、、、
で、ないないない、わから“ない” となる
でも、それが ”わからない/みつからない” のは当然
だって、最初から
それはイメージでしかなくて
もともと「ない」のだもの。。。
と、、、いまさらながら、マインドフルネスって
そういうことかーと、おもいましたマル。
ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp
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