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戦後日本の「線引き」と「しばり」 今こそ夢から目覚める時|【特集】歪んだ戦後日本の安保観 改革するなら今しかない[PART09]

防衛費倍増の前にすべきこと

安全保障と言えば、真っ先に「軍事」を思い浮かべる人が多いであろう。
だが本来は「国を守る」という考え方で、想定し得るさまざまな脅威にいかに対峙するかを指す。
日本人が長年抱いてきた「安全保障観」を、今、見つめ直してみよう。

現実から目を逸らした一国平和主義と、自転車操業のような安全保障政策──それが戦後日本の歴史だ。だが国際情勢が緊迫する中、もはやそれでは日本の安全は守れない。

文・千々和泰明(Yasuaki Chijiwa)
防衛省防衛研究所戦史研究センター安全保障政策史研究室 主任研究官
大阪大学大学院国際公共政策研究科博士課程修了。博士(国際公共政策)。内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)付主査などを経て現職。著書に『戦争はいかに終結したか』(中公新書)、『戦後日本の安全保障』(同)など。


 今、北東アジアの国際政治は100年に1度の地殻変動に見舞われつつある。

 この地域の安全保障に関して懸念される事態は、台湾有事だ。5月のバイデン米大統領の訪日中の発言でもっとも注目されたのも、台湾有事における米国の軍事的関与についてであった。

 実は北東アジア(あるいは極東)の地域秩序は、1世紀単位で考えると驚くほど一貫性がある。それは、日本と朝鮮(少なくともその南部)、そして台湾が、同一陣営にグリップ(関係維持)されてきた、という点だ。

 このような極東の地域秩序は、日本が日清戦争の結果として台湾を獲得し、さらに日露戦争の講和条約であるポーツマス条約署名にいたる過程で、朝鮮での優越権保持が列強に承認されたことに起源を持つ。同条約が署名された年になぞらえて、このような地域秩序を「極東1905年体制」と呼ぶことができる。

 たしかに、このような地域秩序のパワーの面での担い手は、戦前の日本帝国から、戦後は米国に変わった。またここでのグリップは、日本帝国による植民地支配という「強制」から、日本、韓国、台湾が、それぞれ米国の防衛コミットメントを「同意」にもとづいて受け入れるものに変化した。

 それでも、これらの国や地域が、パワーの裏づけによって同一陣営にグリップされるという地域秩序の存在は変わらない。これにより、日本は自国の安全を確保することができた。また、極東に「力の空白」を生じさせたり、域内紛争を起こしたりしない意味もあった。

 この「極東1905年体制」の維持を戦後においても可能にしたのが、アジア太平洋地域における米国を中心とする「ハブ・アンド・スポークス」(中心の核と、そこから放射状に広がった線)型の同盟網だった。

日米同盟は米国を中心とする
「ハブ・アンド・スポークス」の一部だ

(出所)各種資料を基にウェッジ作成

 戦後なお引き続いたアジア太平洋諸国の対日不信から、同地域において北大西洋条約機構(NATO)型の多国間安全保障機構は創設されなかった。一方、このハブ・アンド・スポークス型の同盟網の中で、日米同盟はとりわけ米韓同盟と密接な関係にあった。

 日米安全保障条約は、米軍は日本の基地を、日本防衛だけでなく、「極東」有事のためにも使用できるとしている。特に朝鮮有事においては、在日米軍は日本政府と事前に協議することなく直接紛争に軍事介入できるとする、日米両政府間の「密約」も存在した。日米同盟は、それだけで自己完結的に存在しているわけではなく、本来的に米国を中心とした極東における安全保障システムの一機能なのだ。そしてこのようなシステムが、「極東1905年体制」を事実上支えてきたのである。

 一方、戦後の日本では、自国を取り巻くこうした戦略的・地政学的現実にもかかわらず、いわゆる「一国平和主義」が定着した。安全保障をめぐって日本と日本以外のあいだで「線引き」ができる、との前提に立ち、日本の責任と関与は前者のみに限定すべきだ、とする独特の安全保障観である。

 米ソ冷戦、そして冷戦終結後の束の間の米国「一極支配」は、朝鮮戦争休戦以来、極東における戦争勃発を強く抑止してきた。それにより、「極東1905年体制」と日本の「一国平和主義」の矛盾は覆い隠されてきた。

 ところが今日では、大国化した中国が覇権主義的行動をとる一方、米国は「世界の警察官」としての立場から退きつつある。もし中国が台湾の武力統一に乗り出せば、それは単なる一時の局地戦争にとどまらない。20世紀初頭以来の極東地域秩序の崩壊を意味するだろう。

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