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現世界グルメ「そうめん」


 困った。実に困った。「現世界グルメ」という思い付きで書いたネタだったのだが、実に困った。何が困ったかと言うと、ネタがないとか、そう言う話ではない。
 これはあくまで筆者ではなく、1人のグルモンド(食い道楽)を登場人物とした独白形式の短編小説であり、エッセイでもコラムでもないのだ。ましてやレシピでもない。
 しかも、前回は書くことが思いつかず、先日、偶然にも配信動画で「異世界グルメ」的な作品を少し見たので、妙なフラストレーションが溜まっていたのである。
 グルメって異世界に行かなきゃ出来ないのか? と。いや、親近感を湧かせるのに馴染みのある異世界を舞台にするのはいい。いや、行った事もない異世界に親近感も糞もないが、まあ、興味を持たせるとか、売上が、と言う点で、それはわかる。
 しかし、作品を観ていても、特に異世界である意味は感じられず、いや、無論のこと文化ギャップを活かしたりしてはいるのだが、それは食事に限らないし、それが食事である意味をさほど窺い知ることが出来なかったのである。
 だから単に、自分が調理して提供する側だった立場、食べて研究し、再現し、試してみる側や、食べる楽しみを文字に起こしたいという意図から、形にしたのだ。
 これは言い訳だが、前回は書くべき内容が思いつかず、先日ふと思い浮かんだ「現世界グルメ」というぼんやりしたアイデアを急遽、形にしたのである。
 2時間足らずの急製造だったのと、毎日更新のノルマを守るため、かなり荒削りな文章だったことは認めるところであり、いずれ加筆修正しようと考えてはいた。
 そこに感想が来た。平たく言えば「つまらなかった」というものである。それはいい。読んでくれた上での感想である。真摯に受け止めよう。
 かいつまんで言うと、後半が冗長でつまらなかった、という感想である。時間が足りず、また、荒削りだった事も認めるので、筋違いな感想だとは思わない。
 しかも、冗長だったと言われたが、私としてはまだまだ加筆するつもりだったのである。小麦粉とバターと玉ねぎぐらいの文章ボリュームで人参もジャガイモもブロッコリーも描きたかったぐらいだ。本当なら、もっとくどく、それこそバターよりくどく描きたかったのである。
 冗長でつまらないのがひとえに「文章量」の問題か、冗長に思わせた文章力の不足によるものかはわからない。
 だが、私としては、まだまだ描き足りないのだ。美味い料理ってものを、文字で再現したいのである。
 美味しいものを作るには手間が掛かるし、時間も金も掛かるのだ。そして、料理人が何にこだわっているのか、逃せないポイントは何かを、もっともっとしつこく書き上げたいのである。したがって、冗長だったからと言って文章を短くするつもりはない。どれだけ長くなっても面白い美味そうな文章にはしていくつもりである。
 そして、何がつまらなかったかを聞き出すついでに、次の料理は何がいいかを尋ねた。
 そうすると「そうめん」という答えが返ってきた。困ったのはここである。そうめん。
 そう。私は基本的に苦手な食材や料理がない。特に、食べられない物はないと言える。昆虫などのいわゆるゲテモノ食いも平気な方だ。世界一臭い缶詰やそれよりキツいエイの発酵食品でも食う。むしろ興味や探究心が勝って、食いたいと思うのである。
 その中でそうめんだけは困った。
 私はそうめんが苦手なのである。
 理由を話すのは簡単だ。そうめんの国で育ったのである。夏になると、嫌という程にそうめんを食わされたのだ。いや違う。嫌なのである。
 大袈裟に思えるかも知れないが、平均的日本人が一生のうちに食べるそうめんの量をおそらく小学生のうちに食い終える。
 夏の主食はそうめんになる。それがそうめん国国民の宿命なのだ。
 しかし、それを言い出すのは違う。何故なら、作品と作者は別人格なのだから。
 ビーフシチューについてもそうだ。私なら、それでもやはりライスを合わせたいのである。いや、酒があるならパンを選ぶが、そうではない食事オンリー、食事メインの場合、私なら米を選ぶ。白米だ。バターライスやガーリックライスではなく、輝く白いライスだ。
 食事なんてものは、究極を言えばただの好みである。どんな言葉を並べたって、美味いと感じるかどうかでしかない。それでも、そんなこだわりがあったのかと、そんな食べ方、そんな楽しみ方があったのか。試してみようと思わせたいのである。
 しかし、そこだけではない。極限にこだわるならレシピを書くべきだろう。しかし、私が書きたいのはレシピではない。自分の好みだけで話をするコラムやエッセイでもないのだ。
 だから、そうめんについて語るからと言って、自分の好みだけを反映した文章は書きたくないのである。
 料理に限らないが、料理の辛さや異性の好みや映画の面白さなどにも言える。自分の好みだけを追求しても、それは歪なものにしかならない。無論、万人向けではなく、他人にはお薦め出来かねるが、それでも個人的には好き、と言うものはあるだろう。
 だが、あくまで短編小説として、書き手と登場人物の好みは別なのである。別であるべきなのだ。少なくとも私はそう考えている。
 そこに「そうめん」という数少ない苦手な料理が来た。これを困った、という以外に、どんな感情を持てばいいのだろう。
 二品目にして、コンセプトが狂う。だが、これは現世界グルメという異世界なのだ。世界線が違う。そう。これは筆者と登場人物の設定が、限りなく近いというだけの、異世界なのだ。
 気にする事はない。

 そうめん。漢字では素麺と書く。日本の夏の風物詩である。
 見てよし、食べてよしの日本の涼である事は言うまでもない。
 素麺には色々な食べ方がある。熱い汁で食わせる煮麺(にゅうめん)、沖縄料理のソーミンチャンプルー、揚げて巣篭もり風、流し素麺も食べ方の一つだ。氷と共に冷水に浮かべるのもいい。しっかり冷やしてざるに開けるのもいい。
 個人的には、中華風に汁なしの坦々麺のように、辛い肉そぼろ味噌と和える食べ方が、夏に合うとも思う。面倒ならレトルトの麻婆豆腐をぶっかけて和えるだけでいい。刺激が欲しければ、花山椒や唐辛子を足すのもいいだろう。
 だが、違う。素麺の最高の食べ方じゃない。
 煮麺。これも違う。これは出汁を食う料理で、素麺は添え物。あくまでスープの浮き実に近い。本格中華で拉麺を注文するとこれに似たニュアンスの料理が出てくる。これは、本場中華では食事の最後を締める味噌汁的な役割だと思われるが、おそらくは煮麺もその役割が相応しい。
 麺の量も少ないくていいし、麺を食わせるための料理でもないのだろう。
 ソーミンチャンプルーも悪くない。素麺と油の相性はいいし、たっぷりの具材を食わせる、味もボリュームも品数や栄養素も申し分ないだろう。だが、これはあくまで変わり種としての良さではないか。涼を楽しむ、という素麺最大の特徴が失われている。
 その点は揚げ素麺も同じだ。それに素麺を湯搔き、水分を切り、慎重に揚げるという工程を考えると、じゃが麺で事足りる。素麺の変わり種でしかない。
 その点、涼を存分に楽しむなら「流し素麺」だ。これはいい。何と言っても楽しめる。
 しかし、美食の追求という意味で、味の点では一歩も二歩も遅れを取ると言わざるを得ない。
 まずは、冷たさが足りない。どんどん湯掻いて、どんどん流す。だから、粗熱を取って流さざるを得ない。冷たさが足りないのだ。しっかり冷水で冷やす工程を入れたとしても、今度は水を吸い過ぎたり、その点に気を配っても、流すための水が冷水でなければ、やはり涼を楽しむ温度よりは若干高めになってしまう。
 それに、流す水まで冷水に出来たところで、大きな問題が残る。
 水気である。素麺はその細さという特徴から、大量の水分を絡め取ってしまう。
 あっという間に、そうめんつゆが理想の濃さを失うのである。これは良くない。
 この点は氷水に浮かべる食べ方も同様である。冷たさのために、安定性を確保出来ないのだ。
 では、氷水でしっかり締めて、ざるに開けるのが良いのか。
 確かに、素麺という穀物由来の麺を「主食」として食べるには、これが最高の食べ方だろう。
 錦糸卵、細切りの胡瓜、トマトやハムも合う。大葉も良い相性だ。わさびもいい。からしも冷やし中華風で面白い。きくらげや刻み海苔なんかも合う。
 だがそれでも、麺はのびる。ざるの上と下では含有する水分も変わってしまう。
 そこで、素麺を主食として食べる事を諦めよう。
 たった一鉢。小鉢に一巻きの素麺を、前菜として楽しむのだ。
 そうすれば、素麺の価値は夏の花火のように高く上がり、舌の上で花開き、つるりと食べてしまう事により、儚く消えてしまうのだ。
 これが最も美味い素麺の食い方ではなかろうか。
 絶品の素麺は、めんつゆに頼ってはならない。
 限りなく上品に取った出汁で食う。念のために言っておくと、冷やした出汁は、美味しくない。冷やす事によって、旨味がくどくなるからだ。だが、しっかりと水切りした素麺をひたす事によって、そのくどさは消える。
 具も、出汁に合わせるから、胡瓜やハムと言った定番は使わない。
 山芋である。山芋も、こだわって自然薯を使いたくなるが、自然薯では合わない。山芋が適任である。
 手早く丁寧に摩り下ろし、しっかり冷やしたとろろ。これが出汁に合う。自然薯を使うと自然薯が勝ってしまうのである。
 そして、山芋にはもう一度働いてもらう。
 細切りにした山芋を、素麺と和えるのだ。細過ぎても、太過ぎてもいけない。太過ぎるとただの山芋短冊になって素麺と合わせる意味がなくなる。細過ぎてもいけない。それではただの山芋素麺だ。
 とろろ素麺と、山芋素麺と、山芋短冊の良さを全て取り込む。
 アクセントはとんぶり。
 畑のキャビアなどと呼ぶ必要はない。比肩すべき相手が違う。ぷちぷちとした歯応えが、つるりとシャキシャキに変化を与えてくれる。味にも歯ごたえにも素晴らしい黒い宝石なのだ。
 出汁と山芋と素麺を、菜箸にしっかりと巻きつけて一盛り。
 箸を抜いたくぼみに、うずら卵を落とす。彩も完璧だ。
 最後に針海苔を軽く散らして、白と黒と黄身の美しい三色が完成する。
 たった一鉢で終わってしまうのが勿体ない。
 だが、それで終わるからこそ、素麺は最も美しく輝くのである。

 え? なに? ウチは徳島の半田そうめんだって?
 いや、それは異世界の素麺の話であって、ここは現世界の話をだね?



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 なお、この先には、封印されし禁断の素麺料理について書かれています。

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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。