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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』要約YouTube動画原稿②

どーも、うぇいです。前回の動画では、現代が豊かであるために暇な時間が生まれ、人は退屈してしまうのだということを示しました。僕たち現代人は暇と退屈に必然的に直面するのです。したがって、暇や退屈と上手く付き合っていく生き方について考える必要があるでしょう。今回も國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を通して考えていこうと思います。

内容ですが、最初に人類学や経済学、社会学といった諸学問から暇と退屈について新たな捉え方を提示します。次に、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの退屈論を踏まえ、暇と退屈の関係性について検討します。そして最後に著者の國分さんが提示する3つの結論を紹介したいと思います。

それでは、本編に入りましょう。

まず、ちょっとスケールを大きくして人類史の視点から、つまりホモ・サピエンス数百万年の歴史から、退屈の起源を探ろうと思います。

人類は数百万年間、ず~っと狩猟採集の民として生活していました。100人程度の集団で、移動しながらの生活です。移動するのは、食料の調達のため、ゴミや排泄物で汚れた環境から離れるためです。このような生活を遊動生活と言います。

ところが、人類史としては比較的最近である約1万年前に、人類は一つの場所にとどまって住むようになりました。この衝撃を、人類学者の西田正規は定住革命と呼んでいます。

なぜ、人類は定住生活を営むようになったのでしょうか? それは、気候変動であると西田は言います。気候変動によって中緯度帯に来た人類は、今まで狩っていたマンモスのような大きい動物を狩れなくなってしまいました。また、中緯度帯では植物から得られる食物の量は季節によって変動してしまいます。

そこで仕方なく、同じ場所に住み続けて備蓄できる食物を育てるようになったのです。いままでの遊動生活をやめて、定住生活になったのです。すると、貯められた食料の有無で格差が生まれます。食料をめぐっての争いも生じます。

また、ゴミの廃棄やお手洗いの整備が急務になりました。なぜなら、今までのように汚くなったらその場から立ち去るというスタイルは通用しないからです。同じ場所に住み続けるために、狩猟社会よりも多くのルールを制定しなければならなかったとも推察されます。

まとめると、僕たち人類は数百万年間も移動する生活であったのに、つい1万年前から定住するようになったことは革命的だと言えるということです。

この話を聞いて、僕はめっちゃ驚きましたね。だって、生まれた場所に住み続けることが、人間にとって根本的なことだと思っていたからです。でも、同じ場所に住み続けることは人類史的には実は比較的最近の習慣なんですね

ここで考えなくてはならないのは、人間のほとんどの遺伝子は狩猟採集の時代に形成されたということです。だから例えば、甘いものを食べるのを好むとか、他人との優劣を気にするとかは、遺伝的な基盤があります。

僕たち人間が退屈してしまうのは、狩猟採集マインドが刺激されていないからかもしれません。狩猟採集の時代では命をかけて食料を調達しないといけないというギリギリ感があったのに対し、現代は緩やかな日常が続くことが多いからです。


次に、経済史の観点から、暇と退屈について考えてみましょう。

ついこないだまで、多くの人々は農民でした。例えば、江戸時代では9割農民でした。土にまみれて鼻水・よだれたらしながら、ほぼ人力で仕事していたわけですよね。

一方、一部の特権階級である有閑階級(レジャー・クラス)と呼ばれる人がいました。レジャー・クラスは、十分な資産を持っているがゆえに働かなくてよく、暇な時間は娯楽や社交に費やした人々のことを指します。経済学者ソースティン・ヴェブレン(1857-1929)はその著書『有閑階級の理論』で、レジャー・クラスを分析しています。

改めて考えてみると、労働せずに遊んでいるレジャー・クラスは「ひまじんの階級」と言えそうです。「ひまじん」と言われると、どこか悪い意味のように聞こえますが、経済的・時間的な余裕があってセレブ的な生活を送るレジャークラスはいい意味でのひまじんって感じがしませんか?

ヴェブレンによれば、暇なのは尊敬されるべきステータスだったのです。つまり、あくせく働く労働者と違って余裕を持つ人々は、社会的地位が高いと言えるのです。

それでは、レジャー・クラスと、よだれたらしてぽけーっとしてるヒマ人は何が異なるのでしょうか。それは、レジャー・クラスが品位溢れる仕方で暇な時間を生きる技術を持っているということです。例えば貴族だったら、貴族社会のマナーを身に着けることによって、暇はこのように過ごすのだということが了解されます。

一方、もと農民、現サラリーマンの一般人は、暇の適切な過ごし方を知りません。なぜなら、今まで暇を過ごす術を身に着ける場所がなかったからです。つまり、暇の使い方にセンスがないから退屈してしまうのです。

ここまでの内容を簡単にまとめると、暇になっても、楽しめるひとと、退屈する人がいるよということです。楽しめる人の例がレジャー・クラスで、彼らは暇を楽しむ技術を有しているのでした。


さて、これまでの話に絡めて、僕たちの休日の過ごし方を反省してみましょう。視聴者の皆さんは、休日の過ごし方に満足していますか? もし満足していないのであれば、それは消費に駆り立てられているからかもしれません。

フランスの社会学及び哲学者のジャン・ボードリヤール(1929-2007)は、消費と浪費の区別を強調しました。

浪費とは、何でしょうか。浪費は、必要を超えてモノを受け取ることを言います。必要のないこと、使いきれないことが浪費の前提です。浪費は、豊かな生活に欠かせない「贅沢」の前提条件です。贅沢は、必要分以上を有しているといるということです。「必要最低限で満足」という人もいるかもしれませんが、それはギリギリの状態で生き続けるということでしょうか? 豊かに生きるため、幸せに生きるためには贅沢がなければならないのです。

浪費や贅沢は、どこかで限界に達します。例えば、食べ物は永遠に食べることができないし、服を着るにも限度があります。つまり、浪費には終わりがあります

一方、消費には終わりがないとボードリヤールは述べます。なぜなら、消費はその対象がモノではないからです。モノに付与された観念や意味を人は消費するのです。例えば、流行したモノ——タピオカを考えてみましょう。若者がタピオカをこぞって飲んだのは、タピオカがおいしいというのがメインの理由なのではなくて、「流行りのウェーブに乗っている」という意味の消費がメインだったのではないでしょうか。

どうやら僕たちは何かを使うとき、それは浪費なのか消費なのかを区別したほうがよさそうです。


さて、ここでこの本のメインとも言えるドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)の退屈論を紹介しましょう。

ハイデガーは退屈には3つの形式があるといいます。まずは退屈の第一形式と第二形式を比べましょう。

退屈の第一形式は、「何かによって退屈させられること」です第二形式は、「何かに際して退屈すること」です

ちょっと何言っているかわからないので、具体例を通して理解しましょう。

まず、退屈の第一形式「何かによって退屈させられること」ですが、駅で電車を待つという例で考えてみましょう。

早めに駅についてしまって電車を待つ時間というのは、暇ですよね。このとき、人は電車が来ないことによって退屈させられてしまいます。ハイデガーは、この場合の退屈のとき、人はのろい時間によって「引きとめ」られているのだといいます。

そして、暇で退屈しているということは暇な状態に放って置かれるということですよね。この放って置かれることを「空虚放置」とハイデガーは呼びます。待たずに電車に乗れたらサイコーなのに、駅は電車を提供せずに人を放っておく訳です。

何かによって退屈させられるという退屈の第一形式においては、人はゆったりとした時間に「ひきとめ」られて、「空虚放置」されるのです。

それでは、「何かに際して退屈する」という退屈の第二形式とはどういう意味でしょうか。第二形式は、第一形式よりさらに深い退屈です。

退屈の第二形式は、例えば飲み会の次の日に昨日の飲み会を振り返るタイミングで訪れます。

「いや~、飲み会楽しかったな。ほんとに楽しかった...、でもなんか退屈していたんじゃないか?」

他にも、お出かけから家に帰ってきて一息ついたときとか、何か映画を見た後に感じるかもしれません。ハイデガーは、パーティーの後を例に挙げていました。

つまり、それをやっていたときは本当に楽しかったのだが、ちょっと冷めて考えるとあれは退屈していたのではないかと思ってしまう事態です。

実は、「何かに際して退屈する」という退屈の第二形式は、その場全体が気晴らしであったために起こる退屈なのです。「~際して」というのは、「~のときに」という意味ですよね。飲み会、買い物、映画、「のとき」、その時間全部が気晴らしなのです。

この第二形式が、普段もっとも経験する退屈ではないかと國分さんは言います。けれどもこの気晴らし的な退屈は、駅で電車を待っていたような退屈へのいらだちはありませんよね。ここには、「安定」と「正気」があるでしょう。てか捉えようによっては人生ほとんど気晴らしではないでしょうか。受験勉強とか、会社に行って働くことも、高尚だと言われる芸術活動も、「何もやることがない、どうしよう」と悩まないための気晴らしではないでしょうか。

最後に、最も深い退屈である退屈の第三形式を紹介します。

退屈の第三形式は、「なんとなく退屈だ」という退屈です。

だれがとか、どこでとか、どんなときとか関係ない、ただ、なんとなく、すべてが退屈なのです。それはまるで何もない部屋にただ一人ぽつんと残されているようなものです。みなさんは、この第三形式の退屈に陥ったことはあるでしょうか。

何が原因か分からないから対処のしようがない「なんとなくの退屈」――これこそが退屈の第三形式なのです。ハイデガーは、この退屈を解消するためには自分がなすべきことを自覚して遂行せよと言います。けれども、前回の動画で指摘したとおり、なすべきことをテロのような危ない目標にしてしまったら、大変なことになってしまいます。だから、「とにかく退屈から逃れる」ということは危険なのです。


ここで生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界(Umwelt)という議論によって、ハイデガーの退屈論をさらに深く考えてみましょう。

環世界論とは簡単に言えば、生物はそれぞれ、自らの知覚によって世界を構成しているという考え方です。ハイデガーはユクスキュルの環世界論をもとに石/動物/人間を区別して、次の3つの命題を述べます。

すなわち、⑴石は無世界的である、⑵動物は世界貧乏(ひんぼう)的である、⑶人間は世界形成的であるという3つの命題です。

石は何か知覚をしないから世界を持ちません。動物は――例えばイヌは、ドッグフードを自分たちの種のために作られた餌だと認識することはなく、ただ餌として認識するでしょう。ハイデガーは、人間だけが「ものをものとして捉えられる」と考えたのです。「~として」(als)という形で事物を把握できるのが人間の能力だというわけです。

行動のパターンが複雑でない生物は、ある特定の仕方でしか行動できません。例えばミツバチは、お腹を密で満たすまでは、蜜を吸い続けるという行動しかできません。ですから、残酷ですがお腹を割かれたミツバチは、永遠と蜜を吸い続けるのです。そのようにある振る舞いが始まって停止するまで他の行動ができない状態を、ハイデガーは「とらわれ」(Benommenheit)と呼びます。

対して、何かに衝動的に突き動かされること「とりさらわれ」(Hingenommmenheit)と呼ばれます。これは、他の生物だけでなく人間も当てはまります。ハイデガーは、人間は「とりさらわれる」ことはあっても、「とらわれる」ことはないと考えました。例えば、アイスを食べたい人はアイスを食べたいと「とりさらわれ」ますが、アイス食べるまではそれ以外のことを考えられない、行動できないというわけではないので「とらわれ」てはいません。

つまり、動物は環世界にほとんどはまり込んでいるのに対し、人間は環世界の縛りが比較的緩いと言うことですね。そのような意味で、人間は他の動物よりも「自由」だと言えそうですね。

で、だからこそ退屈が問題になってくるのです。人間は、自分をとりまく環世界に埋没し切らないからこそ、退屈するのです。他の生物たちは、やるべきこととか行動することがあらかじめほとんど決まっているから退屈に対して深刻に悩まないでしょう。

もしかしたら、多くのエライ学者先生たちが考えるのとは違って、「人はものを考えないで済む生活」を目指して生きているのかもしれません。だって、いちいち考えるの、疲れるじゃないすか。つまり人間は、安定した環世界を構築するために、がんばって習慣を形成するのです。しかも、頑張って獲得した習慣も社会が移り変わってしまうから、いつまでも「安定した」状態ではないですよね。習慣や安定した生活を獲得するのは、けっこう大変なのです。


それでは、まとめに入りましょう。本動画では、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』をもとに、ひまと退屈とどのように向き合うべきか、ひまと退屈のなかでどのように生きるべきかを考えてきました。

本動画での議論を通して、暇と退屈の関係を整理してマトリクスを埋めてみると、このようになります。

左下、暇も退屈もないのは、単純に忙しいときです。なすべきことで埋められています。右上、暇で退屈しているというのが、退屈の第一形式です。男子高生が暇だわ~みたいな感じで言う暇、一般的に思われている暇がこれですね。左上、暇であり退屈していないというのは気晴らしで、退屈の第二形式に対応します。ハイデガーは退屈として考えていますが、シケたテンションで捉え直すと退屈なだけで、遊びや楽しみはこのゾーンから見いだされます。右下は退屈の第三形式で、暇でないが退屈しているという困った状態です。

それでは、結論を見ていきましょう。國分さんは、3つの結論を提示しています。

まず1つ目は、もうあなたは立派に暇と退屈との向き合い方を考え始めちゃってるから自信持っていいよというものです。ここまで多様な視点でもって退屈について考えただけでも、今までより進歩していると言えるでしょう。

つぎに2つ目は、贅沢を取り戻そうということです。つまり、永遠に消費に駆り立てられるのではなく、満足して贅沢や浪費ができるようになろうぜというメッセージです。もっともっとと終わりのない欠乏感に苛まれないように、これで十分!と肉体的にも精神的に満腹できる技術を身につけましょう。僕としては、消費は提供する側が主導権を握っていて、浪費は提供される側が主導権を握っているという違いを感じます! だから、どうしたらうまく情報と関われるのか、うまく情報を受け取れるのかということが重要になってくるように思われます。

最後に3つ目は、動物になる瞬間を待ち構えよう!ということです。つまり、ハイデガーが人間にはできないと考えた、なにかに「とらわれ」る体験をしようということです。これは僕は、何かに夢中になれることを見つけようということだと解釈しました。みんながやっているからやってみようかなというものではなく、自分が好きだから好きなんだ!と言い張れるようなものを見つけようということです。それが、暇にあっても退屈しないという生き方を可能にするのです。

國分さんは最後に、自分が暇を楽しめるようになったら、他人にも暇の楽しさを感じさせてあげられるように配慮するようになってね、と言います。戦争や貧困、災害等によって、未だに暇を確保できずにいる人々が「暇を飾れるようになるように」行動するようになってくれると嬉しい、そのように述べています。


最後に、私うぇいの感想を簡単に述べさせていただきます。

「日本に生まれただけで勝ち組」、こんな言葉があります。現代日本に生まれただけで最低限の衣食住の保障と、犯罪発生率の低い環境を享受できます。つまり、日本に生まれただけで、「すぐ死ぬ心配」「殺される心配」はしなくてすみます。

一方で「日本は生きづらい」とも言われます。精神的に不満足で、どこか我慢しながら生きている人が多いからでしょう。

僕は現代人日本人の「生きられるが生きづらい」という状況を改善するために、「暇と退屈の倫理学」が構想されるべきだと考えたのです。つまり、日常生活をいかに楽しむのかという問題を考えようということです。

確かにパスカルやハイデガーの言うように、楽しいことは気晴らしなのかもしれません。けれども、気晴らしでもいいじゃないですか。暇をなくして忙しく働くことも、社会的に意義のあることも、所詮その個人にとっては気晴らしなのですから。ただ生存することでは飽き足らないのが人間です。他の人にめちゃくちゃ迷惑かけなきゃ、好きなことやったらいいんじゃないのと僕は思います。

「人生、所詮気晴らしだよね~」というアイロニー、皮肉を抱えつつ、だからこそ楽しく生きよ~と考えたらいいのではないか。そんな風に僕は思います。

(おしまい)                                                                                                                                                                                                               




思考の材料

参考文献


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