見出し画像

「美的判断は主観的であるが普遍的である」とはどういうことか:イマヌエル・カント『判断力批判』

本記事は、ドイツの哲学者カントの『判断力批判』における美的判断(趣味判断)の議論をまとめたものです。正直、難しいと思います。

1. はじめに

 音楽を聴いて、「この曲はいい曲だ」と思う(判断する:urteilen)ことがある。この「いい曲だ」という判断は、カントの言う美的判断(趣味判断)のように思われる。ここで判断の対象となっている音楽は、初めから「いい曲」だと定まっていたわけではない。またこの判断はただ単に「個人的に好みだと見なすこと」以上の含意がある。実は美的判断は、一般に思われているような「主観的な好き嫌いの判定」なのではなく、「私が万人に妥当するような判定をしていること」なのである。

 本稿では、美的判断が主観的普遍妥当性を有するというカントの主張を検討することで、美的判断の特異な性質を明らかにすることとしたい。

 本稿の構成は、以下のようになる。まず第2章で、カントにおける判断力とは何かを見る。そこで美的判断が反省的判断力であることが示される。第3章で、美的判断が対象への関心を欠いていることを見る。この対象への没関心性こそが、単なる趣味判断との違いである。第4章で、美的判断が主観的であるが普遍的であるという性質を明らかにしたい。最後に結論を述べる。

2. 判断力とは何か

 ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)は、『純粋理性批判』において認識を、『実践理性批判』において道徳を検討した。それら2つの批判書に続く最後の批判書が本稿で取り扱う『判断力批判』である。

 カントは判断力一般「特殊なものを、普遍的なもののもとにふくまれたものとして思考する能力」(注1) と定義する。とりわけ、特殊なものだけが与えられていて、そこから普遍的なものを見出す際の判断力は、反省的(reflektierend)判断力と呼ばれる。これは、規定的(bestimmend)判断力と区別される。規定的判断力は、すでに与えられている普遍的なもの(規則や原理、法則)から特殊なものをその普遍的なものに包摂する能力である。つまり規定的判断力とは、ある定義や前提から「この場合は〇〇、この場合は△△」と判断する能力である。

 反省的判断力は自ら自分自身に対して法則を見出さなくてはならないという点において、規定的判断力よりも本来の判断力と言えるだろう(注2) 。というのも規定的判断力は、既に手にしている法則に特殊なものを従属させればよいだけだからである。特殊から普遍を導く反省的判断が、より根源的な判断力なのである。

 美的判断は、法則なしに自ら美しいと判断することであるから、反省的判断の一つである。

3. 関心を欠いた判断

 カントは、美的判断の際に人は対象への関心を欠いている(ohne Interesse)と言う。すなわち、私たちが何かを美しいと判断する際には有用性、道徳、健康や幸福などといった他の関心事は一切問題にしていないということである。これは、意外に思われる。というのも、一般に美しいものには快の感情が伴うからである。

 確かにカントは、美的判断は快/不快の感情に関わると言う。けれどもここでの「快」は、美的な(ästhetisch)判断が、対象の認識ではなく主観の感情(aisthesis)に関わるために「主観的である」という意味である(注3) 。感覚的に気持ちよくさせてくれるから「快」なのではなく、純粋に美しいから「快」なのである。カントによれば、美しいものそれ自体が、「意に適う」ものである 。

 判断するのは、主観に与えられた表象をもとにその対象が美しいかどうかということなのである。そのような判断を下すことは、中立的に法的判断を下す裁判官を演じるかのようでなければならない 。

4. 主観的かつ普遍的な美的判断

 美的判断は主観的であるが、ア・プリオリな(経験に先立つ)判断である。なぜなら、それは認識能力(多様なものを合成するための構想力と、様々な表象を合一させる概念の統一を与えるための悟性)という人間なら誰が有している能力によってなされる判断だからである。

 「この曲は美しい」と判断した者はだれでも、「その判断に対してすべての他者が(普遍的に)同意することを要求する権利がある」 。というのも、対象への関心を欠いて美的判断を下したならば、その判断はある個人が行ったこととはいえ、万人にも普遍的に妥当しうるからである(注4)。誰しも有する認識能力を、ある個人が行使したということである。美的判断において意見の不一致や誤解が見られるのは、個人的な関心が混入してしまっているからである 。

5. 結論

 本稿の目的は、美的判断が主観的であるが普遍性を有することを明らかにすることであった。

 美的判断は、個人の快/不快の感情に関わるために主観である。注意しなければならないのは、ここでの「快」が、対象が端的に美であることによってもらされるものであるということである。したがって、感覚的に快/不快か、何かに有用か否かという関心があってはならない

 人間であれば誰しも構想力と悟性という認識能力を有している。そのために、一個人の主観的な美的判断であっても普遍的(万人に同意を要求しうるものだという意味)と言うことができる

脚注

(注1) カント、2015、18頁参照。

(注2) 「『反省』とは、直接に対象に向かうのではなく、基本的に、与えられた印象をさまざまな認識能力に関係させつつ、対象に関する概念を得ようとする心的状態を意味する」(石川、1995、192頁参照)。

(注3) 宮﨑、2009、72-73頁参照。

(注4) カント、2015、137頁参照。

参考文献

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この記事が参加している募集

読書感想文

記事をお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、YouTubeの活動費や書籍の購入代として使わせていただきます。