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崇高とは何か?イマヌエル・カント『判断力批判』における崇高論

1. はじめに

 「崇高なもの」——畏怖の念を抱かせるもの——に出会ったとき、人は自らの存在の危機を感じるだろう。崇高なものは、想定を超えるような「力」、物理的に身体を一瞬で無に帰してしまうような「力」を持つ。

 本稿では、カントの『判断力批判』における崇高の議論をもとに、崇高の分析を試みたい。とりわけ、崇高は人間を打ち負かすような力を有するという点に注目する。

 本稿の構成は、以下のようになる。第2章では、まず崇高とは何かについて見る。崇高には2つの崇高がある。すなわち、数学的崇高と、力学的崇高である。第3章では、数学的崇高が端的に大であることから、構想力が理念に関わることを見る。第4章では、力学的崇高が身体を破壊してしまうような恐るべきもの(fruchtbar)として顕現してくるという事態を検討する。最後に、結論を述べる。

2. 2つの崇高

 カントは、自然における崇高なもののみを考察の対象にする 。人工物や概念が介入するものは崇高ではない。

 美しいものはある未規定的な悟性概念の呈示であったが、崇高なものは未規定的な理性概念を呈示するものである。すなわち、美の場合には構想力と悟性が調和していたのに対して、崇高は構想力と理性が調和することになるのである。 

 崇高の概念は「数学的崇高」と「力学的崇高」の二つに分けられる。

2.1 数学的崇高

 カントによれば数学的崇高とは、「端的に大である」崇高である。「端的に大である」とは、~よりも大きいという比較における「大」ではなく、「比較のすべてを超えて大」ということである 。例えば、ピラミッドや大聖堂である。

ギザ ピラミッド

2.2 力学的崇高

 力学的崇高とは、私たち人間が抵抗を試みようとしても無駄だと判断してしまうような対象が有する崇高である。例えば、雷雲、火山、暴風である。

滝

 力学的崇高に対する構想力は理念に関わっている。なぜなら、その対象が私たちの内面の自然も外界の自然も凌駕していると意識して初めて、その崇高さを判定できるからである 。

3. 数学的崇高における構想力

 数学的崇高においては、大きさの評価が問題になる。評価に際して数概念による評価と直感的な評価がある。前者の事物の数概念における評価は把捉(Auffassung /apprehensio)、後者の事物の直観的評価は総括(Zusammenfassung / comprehensio aesthetica)と呼ばれる 。この評価には構想力が関わる。

 ここにおいて重要なのは、自然が崇高である場合、私たちの構想力が最大限の努力を払って対象の大きさを評価しても、崇高なものに構想力が適合できないという事情である。したがって、数学的に崇高なものに出会い、端的に大だと判断するときには、数学的評価ではなくまず直感的評価が下されていると言わなければならない。数学的評価(把捉)は数概念によって無限に進行できるが、直感的な評価(総括)においては構想力の限界があるからである 。

4. 力学的崇高と恐れ

 力学的崇高は、暴力的な(gewalttätig)ものとして現れる。カントによれば、力学的に崇高なものは、抵抗が及ばない災厄でなればならない。自らの抵抗が及ばないと判断すれば、それは恐れ(Furch)の対象となる。

 ただ、その災厄に対して恐れてしまっては力学的崇高さにはならない。力学的崇高だと判定するためには、災厄を恐るべきもの(furchtbar)だと見なさなくてはならない 。このとき振るわれているのは物理的暴力ではなく、構想力への暴力なのである。身体は安全であるけれども、構想力にはとてつもない負荷がかかる。この暴力は、理性が構想力を通して感性に振るう暴力であると言うこともできる 。

 天災が恐るべきものであればあるほど、構想力は刺激される。恐れではなく恐るべきものとして災厄を判定できるのであれば、構想力は鍛えられ、発展することとなるだろうとカントは言う。

5. 結論

 崇高なものを分析するにあたって注目すべきは「力」であった。カントによれば崇高には、数学的崇高力学的崇高がある。数学的に崇高なものは、端的に大だと直感的に判断させるものだ。端的に大という判定は、構想力の挫折である。一方、力学的に崇高なものは、人が抵抗できないような災厄である。それは身体が安全な状態で判断される。その判断の際、構想力は恐るべきものとしての災厄に抵抗することで、発展する。

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