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「問うこと」の意味とは?──『存在と時間』における「問い」──

「なんだろう?」と問うこと、これは人間にとっていかなる意味があるのでしょうか

もしかすると、行動せずに立ち止まって疑問に思うことには「すぐに行動すれば結果が得られる」という意味では「ムダ」な側面があるかもしれません。けれど、有用かどうかは別にして、「本当に向き合わなければならない問い」が差し迫ったものとして現れてきたなら、それは「重大な問題」として「この自分」が応答しなければならず立ち止まって問いと向き合わざるを得ないのでしょうか?

本稿では、「問い一般」の意味を考えます。結論を先取りすれば、役に立つか立たないかといった有用性から立てられる「問い」と、「この自分」が避けることのできない切実な「問い」を分けることが決定的に重要だということです。


はじめに

人間にとって「問うこと」はいかなる意味を持つのだろうか――この問いは、私たち人間の本質に関わる根本的な問いである。というのも、言葉を用いて問いを立てられるのは動物の中でも人間だけだからだ。それゆえ、「問うこと」には人間固有の特徴が存すると考えられる。

また人間一般にとってだけではなく「この私」という個人においても、「問うこと」は重要である。なぜなら、ある種の問い――本稿では「哲学的問い」と呼ばれる――に直面した際には、他でもない「この私」が応答せざるを得ないからである。

人間一般及び各個人にとっての「問い」の意味を明らかにすることが、本稿の目的である。そのために、マルティン・ハイデガー『存在と時間』の現存在分析をもとに人間と問いの関係を探究する。『存在と時間』に依拠するのは、そこで提示される概念によって問いを「日常的な問い」と「哲学的な問い」に分類することができるからである。

本稿の構成は、以下のようになる。まず、ハイデガーが提示する問いの形式的な構造を明示する。次に、問いには大きく2つの種類があることを示す。すなわち、有意義性に由来する問いと、人間の根本的な不安定性に由来する問いである。最後に、問うことが「自己」を他でもない「私」として際立たせるはずだと主張する。

問いの形式的構造と現存在

本章では、ハイデガーの提示する問いの形式的構造の説明することによって、他ならぬ自分自身が問いを設定できる特権的存在だということを明らかにしたい。

問いの形式的構造

ハイデガーによれば、問い(Frage)には一般に次のような形式的構造がある(1)。すなわち、問いの手がかりとなる「問いかけられるもの(das Befragte)」があって、これに問い合わせながら、問いの対象である「問われるもの(das Gefragete)」をまさに問い尋ね、そして最終的には問いの目標である「問い質されるもの(das Erfragte)」を目指す、という構造である(2) 。

例えば、ブランデンブルク門へ行く道を通行人に尋ねるという場合を考えてみよう。その場合、まず人に問いかけて、ブランデンブルク門に行く道のことを問うだろう。そしてそのように道を問い尋ねるのは、最終的にブランデンブルク門が何たるかを自ら問い質すためだろう。

ベルリンにあるブランデンブルク門(筆者撮影)

この具体例によれば、ブランデンブルク門とは何かを知るためには、おぼろげでもその存在を了解している必要があったと言うこともできるだろう。問いを立てる時点で、問う者は「ブランデンブルク門」には何らかの意味があると、漠然とでも理解しているからである。

問いにおける現存在の優位

そもそもハイデガーは、この問いの形式的構造を存在の意味を「問い質す(問いただす)」ために示した。ハイデガーの提示した形式に沿えば、問いの目標(問い質されるもの)が存在の意味であり、問いの対象(問われているもの)が存在ということになる。では、存在の意味を探るためには何を手がかりにすればよいのだろうか(何に問いかければよいのだろうか)。

それは、他ならぬ「自分自身」にである。私たち人間は自己自身の存在を理解し、それを絶えず問題とする存在――そのような人間存在のことハイデガーは現存在(Dasein)と呼ぶ ——であり、(そのため人間は同一の実体であるような「存在者」というよりも)生成流転してやまないそのつどの「存在」それ自体であるからだ(3)。つまり、「存在への問いは、そう問うている私たち現存在の存在の仕方を、あらかじめ明確に把握することを、おのずと必然的に要求してくる」(4) のである。

現存在において、問い求められている存在と、問い求めるという現存在の存在とが極めて深く交叉していると言える。

問うのは「この私」である

本稿の目的は人間にとっての「問いの意味」を明らかにすることであった。したがって、「問うこと(Fragen)一般の意味」が問い求められる目標であり、「問うこと」が問いの対象になる。そして、そのための手がかりは私たち「現存在」となるだろう。というのも、現存在が問いを設定することができる特権的な存在者だからだ。

現存在が問いを立てなければ、問いは存在しない。厳密に言えば、現存在がまず存在し、その現存在のうちに違和感が生じ、問いとして仕上げられて初めて「問い」が成立するということだ。この一連の動的なプロセスが「問うこと」なのであるから、問いは問いの設定者たる「この私」の存在と密接にかかわっていると言えるのである。

問いの分類

一口に「問い」と言っても、私たちが日常生活において提起する問いと、「問わざるをえない」という自分にとって重大かつ差し迫った問いには違いがあるように思われる。この違いを、ハイデガーの『存在と時間』の叙述を頼りに明確化しよう。

有意義性からの問い

私たちが通常立てる問いは、ハイデガーの言う有意義性(Bedeutsamkeit)という観点から立てられる。本節では有意義性とは何かを理解するために、ハイデガーの道具論を見ていこう 。

私たちは日常生活において見慣れぬ道具を使用する場合、その道具をどのように使うかと問うだろう。また道具だけでなく、どのような意味を有しているかを全く把握できない事物や現象に出会った際にも、「これは何か?」と、より正確に言えば「これは何のために存在しているのか?」と問うだろう(6) 。

私たちは、通常自分に馴染みがある事物——ハイデガーは現存在にとって最も身近な存在者のことを道具(Zeug)と呼ぶ——に取り囲まれており、必要であれば特に疑問を持たずに使用する(7)。現存在は、自分に馴染みがある存在者で占められた世界に住んでいるのであり、単なる物体の総体としての世界に住んでいるのではない。さしあたってはスムーズに事物と関わっているわけだから、道具に不具合が起こって初めて、つまり馴染みのない事態に直面して初めて、人は問いを立てると言うことができよう 。

道具は、現存在にとっての有用性から把握される。さらにハイデガーは、この「有用性」とはつまるところ、「自分の存在のため」の有用性だろうと述べる。つまり、身の回りの事物と適切に関わることの「究極目的、~のために(Worumwillen)」は、現存在が本来的に存在しうること(Seinkönnen)のためだろうということだ。自らの存在も含めてあらゆる存在を意義のあるものとする(be-deuten)ためには、それらを位置づけられるべきところに位置づける必要があるだろう。そのように有意義化する作用の連関をハイデガーは「有意義性」と名付けた。その有意義性こそ、現存在を取り巻く世界の性質、「世界性(Weltlichkeit)」である。

私たちが通常立てる問いは、有意義性に基づく問いだろう。つまり、「~のために」や「~という効用がある」ということが理解できない存在者に出会った際に、有意義性に適切に位置づけるために「これは何のためにあるのか?」といった問いを発するのである。問いの対象を有意義性において解釈できれば、問いは解消されるだろう (9)。

存在の動性に由来する問い

「問い」の中には、有意義性連関に解消できないものがある。それは、問う者を巻き込み、問わざるをえないように駆り立てるが、有意義性からは「答え」を導けない「問い」である。このような問いを、本稿では「哲学的問い」と呼ぶ。哲学的問いは、その問いを立てる者の存在を揺るがすような切実な問いである。

哲学的問いは、存在が「動的」であるがゆえにいつでも立てられる余地があると言える。存在が動的であるのは、現存在の存在がそのつどの諸可能性のうちの一つしか採用することができない(態度をとることができない)から、また現存在の存在が「時間性」であるからだ。私たち現存在の存在は、可能性の揺れ動きがあるがゆえに根本的に「不安定」なのである。

問うことと自己

私たち人間は、問いを立てる。他の動物は、たとえ違和感を察知し危機回避する能力を有していたとしても、人間のように問いを「問いとして仕上げる」ことができない。なぜなら、言葉を用いて自分自身の態度をそのつど反省し選択するということができないからだ。人間のみが、問いを立て自らの態度を変更できるという「特権」を有していると言える。

さらに、他でもなく「自分が引き受けなければならない問い」がある。自分しか関わることができない、そして自分が関わらなければならない切実な問い、すなわち「哲学的な問い」である。哲学的問いに直面すれば、否応なく「自己」が際立たせられるだろう。哲学的問いにおいて問題となっているのは、「この私の存在」である。有意義性から「答え」を持ってくることを許さない哲学的問いは、現存在に代替不可能な「自己自身」を自覚させる。したがって、「問うこと」は、人間一般及び各個人にとって「自己を生成させる」という極めて重要な役割を果たしていると言えよう。

(1)本章の記述は、『存在と時間』の第2-4節に基づく(Heidegger、1927、5-15頁)。また、渡邊(2011)及び阿部(2014)も参照した。

(2)本稿では基本的に、ハイデガーの術語の日本語訳を『ハイデガー読本』で採用されているものに合わせることとする。

(3)Heidegger、1927、7頁及び、阿部、2014、55頁参照。

(4)渡邊、2011、34頁参照。

(5)本節の記述は、『存在と時間』15-18節に基づく(Heidegger、1927、66-89頁)。

(6)「何のために」という問いが複雑なのは、それが「何が原因で」という意味なのか、あるいは「何の目的で」という意味なのかが判然としないという点にある。ハイデガーの文脈では目的の「~のために」だろう。

(7)ここでの「存在者」は、身体的実体としての人間ではなく諸々の事物のことを指す。

(8)田端(2011)はメルロ=ポンティを参照し、教師が生徒に投げかけるような問い、つまり「知っているものが知らない者に対してなす質問」を「見せかけの問い」とした。教師からの質問が「見せかけ」と言われるのは、その質問が問いの形式をとっていても教師側が答えを既に有しており規定してしまっているからである。ここで重要なのは、生徒自らが問いを立てていないということである。

(9)田端(2011)の問いの分類にある、「見せかけの問い」、「情報収集のための質問」、「既知の項から未知の項を割り出す問題」(既存の知識から新たな知識を導かせるような問い)は、有意義性連関に基づく問いだろう。

参考文献

Heidegger, Martin, Sein und Zeit (1927), Tübingen: Max Niemeyer 2006.(マルティン・ハイデッガー『存在と時間』全四巻、熊野純彦訳、岩波文庫、2013年)
阿部浩「基礎存在論の成立と理念 「存在と時間』Ⅰ」、秋富克哉・阿部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』、法政大学出版局、2014年
岡本宏正「現存在の予備的な基礎的分析(その1)」、渡邊二郎編『ハイデガー「存在と時間」入門』、講談社学術文庫、2011年
伊藤徹「時間性・日常性・歴史性 『存在と時間』Ⅴ」、秋富克哉・阿部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』、法政大学出版局、2014年
田端健人「質的研究における「問い」について:「問いの現象学」を手かかりに」、『宮城教育大学紀要』、46巻、2011年、185-192頁
仲原孝「「時間と存在」のゆくえ 『存在と時間』Ⅵ」、秋富克哉・阿部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』、法政大学出版局、2014年
松本直樹「世界・他者・自己 『存在と時間』Ⅱ」、秋富克哉・阿部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』、法政大学出版局、2014年
森一郎「死と良心 『存在と時間』Ⅳ」、秋富克哉・阿部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』、法政大学出版局、2014年
渡邊二郎「『存在と時間』の基本構想」、渡邊二郎編『ハイデガー「存在と時間」入門』、講談社学術文庫、2011年

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