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魂と樹木と「ある」と「ない」 −岩田慶治『アニミズム時代』を読む


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前のnoteで文化人類学 岩田慶治氏による「こころ」と「魂」の話を書いた

魂、タマシイというと、怪談のなにかかと思われるかもしれない。

しかし、文化人類学にとっては、そしておそらく情報学にとっても、私たち人間の共同主観性を扱おうとする限りタマシイというのは極めて重要な思考の核になる概念である。

概念、といっても難しい話ではない。

概念に親しむ上で必要なことは、ひとつの概念別の言葉イコールで置き換えて「わかろう」としないことである。

「概念Aとはなにか?」

という問いに対して「概念AとはBである」と言い換えることで「答えが見つかった」ことになるのだろうか?

AをBに置き換えたとして、ここでもしAが知らない言葉で、Bが知っている言葉であったなら「なんだ、AはBのことだったのか。わざわざ難しく言うなんて意地が悪い」という話になるわけであるが、はたしてこれで概念Aを理解したことになるのだろうか??

私の考えでは、これは残念ながら理解をしたことにはならないと思う。

ある概念が概念として光るのは、それが他の概念との対立関係を際立たせるときである。

ある一つの概念は、他の何らかの概念とペアになる。ある概念と概念のペアが、他の概念と概念のペアと重なり合って交換可能になったり、反発し合ったりする。

これについては井筒俊彦氏が『意味の構造』に書かれているところが非常に参考になる。

「「分節以前」は、割れ目も裂け目もない、のっぺりとした無限大の拡がり、混沌として捉えどころのない「何か」(X)であること、そしてそれの表面に人間の意識が縦横無尽に分割線を引いてゆくということ。Xの表面に引かれた線は、いずれも境界線となって、その左右を独立した領域に分かつ、無数の境界線が引かれ、それに伴って大小様々な領域が出来、それらはそれぞれに己の「名前」を要求する。そして名前の付いた区画は、それぞれ独立した意味単位として定立され、それらの意味の志向性に従って、いわゆる外界にものが生起する。
 それらの意味単位は、意味的志向性の赴くままに互いに牽引しあって反発しあって関係し、そこに意味連関の巨大な網目秩序を形成してゆく」(井筒俊彦「言語と文化」)

この意味単位が「牽引しあう」「反発しあう」というところがポイントである。概念はまさに「意味単位」であり、互いに牽引しあい、反発しあう。

大切なことはあるひとつの概念が、他の概念とどの点で対立するかということである。

魂とそうでないもの

岩田慶治氏の「魂」の概念に戻ろう。

岩田氏の「魂」は、二元的なものと対立し、他とは異なるものとして存在するものと対立し、予め他と区切られたものと対立する。

魂は、一元的で、異なるものを異なったままひとつに結びつけ、区切り区別する境界線をとびこえて接続を引き起こす

などと私が書いているとムツカシイ感じになるので、岩田慶治の文章に帰ろう。

「彼らの臼には手の込んだ仕掛けがしてあって、米をつくたびに心地よい音がひびく。臼は台所道具であると同時に楽器だったのだ」(岩田慶治『アニミズム時代』p.248)

臼は楽器

これを言えるのが言葉というものの「すごいところ」である。

これは岩田慶治氏が調査で訪れたボルネオ島のイバン族の村での話である。

「朝ごとにひびく音は村びとをよろこばせるとともに、屋根裏の大籠のなかに暮らしている稲魂の家族をもよろこばせた[…]トントントンと心地よい音が響き、それがリズミカルに反響すると、モミの大籠の中の稲魂の一家は大喜びでたくさんの子どもを生む。」(岩田慶治『アニミズム時代』p.248)

楽器としての臼が奏でる音は人間を楽しませる。同時に「稲魂の家族」も楽しませる。

ここでおもしろいのは、彼らイバン族にとって「稲の魂は同時に人間の魂だった」というのである。

人間が死ぬと、魂はからだを脱げだして山にのぼり、雲になる雲はやがて稲の上に棚引き、そこで稲の魂になる。[…]モミが精米され、炊かれて人間の口に入る。そこで稲魂が人間の魂に戻る。[...]魂が人と稲のあいだを往来するといってもよい。」(岩田慶治『アニミズム時代』p.248)

楽器としての臼がうたうリズミカルな音は、この魂の往来する動きに共振する

リズミカルな音が、人間、稲、臼、さまざまなものたちを、それがもともとひとつであった「魂」のところへと共振させる

調理という日常的な動作のなかに絶妙に織り込まれた音のリズムを通じて、人間は日々日常を生きる人間でありながら同時に「魂」であることにつながる。

木などという実体はどこにも

もうひとつ、岩田慶治氏の書かれた文章をみてみよう。

岩田氏がある部族の村で経験した、フタバガキ科の巨樹から小さな「羽」が二枚づつついた種がくるくると舞いながら無数に降ってくる場面である。

「私はこの種子の雨のなかに立ちつくして、いいようのない感動におそわれたことを覚えている。木が、自分自身を無数の種子に変じて、空中にちらばっていたのである。そこには生を志向する軽やかな意思だけがあって木などという実体はどこにもなかったのかもしれない。」(岩田慶治『アニミズム時代』p,259)

生を志向する軽やかな意思、そして木という実体。

木という実体はない。あるのは生を志向する傾向である。

「あった」のは”生を志向する傾向”の方で、いわゆる通常わたしたちが”木だと思って眺めているような実体”は「なかった」ことになる。

もちろん、木は目の前に生えているし、木が生えているから種がおちてきたのであるが、それが「ある」ということなのではない。この場合の「ある」ということはそういうことを超えている。

そこに「ある」、生を志向する意思というのは「魂」のことなのである。

日常の意識だと、木や人間の身体のようなものこそが「あって」、魂のような事柄は「ない」と考えがちである。

しかし、このあるとないが逆になる瞬間、逆になったと確かに感じ意識できる瞬間が人間にもある

そして魂の束の間の通過点である人間は、どこかでそういう魂のほうによりリアルな「ある」を感じることができる瞬間を待っているのかもしれない。

あるいはそうした瞬間が、日常のなかに、たとえば臼でモミを搗くような営みの中に、顔をのぞかせるとすれば、それはこの上なく「豊か」な意味に満たされた世界を生きることができるということでもある。

それは多様なもののひとつであることを志向しながら、それでいて同時に一元的ななにかに繋がり続けるということである。生きるというのはそういうことなのであろう

という巨樹とその無数の種の話をアナロジーにして、岩田氏によるカミとカミ、アニミズムとはなにかという話が語られていくのであるが、そこについてはぜひ岩田慶治氏の文章で読まれることをおすすめしたい。


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