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深層意味論として読む空海『声字実相義』


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井筒俊彦氏に「意味分節理論と空海ー真言密教の言語哲学的可能性を探る」という論考がある。『意味の深みへ』に収められており岩波文庫で読むことができる。

意味分節理論と空海」についてはこちらのnoteにも書いたことがある。

今回はその続きである。

もちろん今回の記事だけでもお楽しみいただけます。

意味分節理論と空海」の最後の方で、井筒氏は次のように書いている。

「宇宙的「阿字真言」のレベルでは、ア音の発出を機として自己分節の動きを起こした根源語が、「ア」から「ハ」に至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール的エネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ね、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至る所に「響」を起こし、「名」を呼び、「もの」を生み、天地万物を生み出していく。(井筒俊彦全集『意味の深みへ』p.420)

この部分は、井筒氏による空海の『声字実相義』の読みである。

『声字実相義』には何やら途方もないこと書かれているようである。そういうわけでさっそく詳しく読んでみる。

ところで『声字実相義』は現代語訳でも読むこともできる。訳者は真言宗の僧侶で仏教学者の加藤精一氏である。これほどの文献を手軽に読めるというのは大変なことである。

現代語訳されると文庫本で30ページほどになる『声字実相義』は、次のように展開していく。

○ まず、大日如来の説法文字によって行われる。
○ 文字は六塵(色声香味触法)からなる。
○ 六塵(色声香味触法)は法身大日如来の身口意の活動(即ち「三密」)である。
○ 法身の活動(三密)は、「この世のあらゆる場所に行きわたって」いて「しかも常に変わらぬもの」である。

ひとが「ある」と感じ「ある」と言葉で言うことができるあらゆる事柄は、このただひとつの法身の活動が人間の意識において顕れた姿である、ということになる。

さらに他でもないこの顕れの場のようなものである「ひと」も、ひとの意識も、この事物の一連のなかに含まれるものであり、こちらもまた法身の活動が顕れ出た姿の一つなのである。

法身の活動はあらゆる事物出来事として顕れる。意識も存在も、主観的な事柄も客観的対象も、その一連の顕れのあれこれなのである。

しかし、私たち「ひと」の日常の意識が自覚するところでは、通常この法身の運動にはに気づいていない。

「あらゆる人間は大日如来と同等の仏性を本来所持しているのですが、残念ながら多くの人々は本来所有している仏性に気づかず、これに気づくには自分の力だけではとても足りないのです」(空海「声字実相義」,『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』p.67)

私たちの意識は、法身の運動が意識の表層に顕れ出たあとの影のような痕跡を、世界のもっとも基本的で根源的な要素だと思い込む。日常において「ある」と思い言うことができる事物出来事を「はじまり」に置いて考え始めてしまう。意識以前存在以前の事物出来事の発生・顕現プロセスを想うことは難しい。

しかし、端的に「ある」ように見える事物の手前には、それよりもはるか奥に、以前に、法身が活動し動いている、と考えるのが空海の仏教である。

この「ある」以前の動きに私たちが気づくようにと、私たちひとの感覚システムや醒めた意識の雑駁な分節システムでも"わかる"ようにと、法身大日如来は「ことば」(音声)「文字」の形で説法をするという。

ここでことばも、文字も、その本体である六塵もすべて法身(大日如来)の活動である、ということになる

言語は「ある」前に発生しなければならない

一でありながらあらゆる多でもある大日如来の活動が、あらゆるものたちを発生させる。私たちひとの意識を発生させ、私たちの意識でも「わかる」声や文字を、言葉を発生させる。

「地水火風空の五大には皆それぞれ響きがあります。また、下は地獄から上は仏界までのあらゆる世界にそれぞれ言語があって意思を伝え合い表現しあっています。そして眼耳鼻舌身意という六根が対象とするいわゆる色声香味触法の六境(六塵)も広く理解すればすべて文字(メッセージ)だといえます。そう考えますとこうした声字の当体としての法身が実在するということになります。」(空海「声字実相義」,『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』p.72

声は「空気の動き」である。

空気の動きは、私たちの意識が何かの「名」だと思っているものへと置き換え可能なものの位置に置かれる

ポイントは「置き換え」である

「空気の動き」は、「名」と、異なりながらも同じものという資格を得る。

空気の動きが、空気の動きそのもの"ではない"他の何かと、別々に異なりながらも、しかし同じことなのだという関係に入る。

この置き換えるということ、異なるが同じ(区別されるが一つ)という関係を切りながらつなぐ=つなぎながら切ることこそが「意味する」ということなのである。

「声」としての空気の動きは、さらに「実相」とも置き換えられる。

声と、字と、実相。声、字、実相。空気の動きと、指示するものと、指示されるもの(シニフィアンとシニフィエと言い換えてもいい)。この三者が別々のものでありながら互いに自分以外の他と置き換え可能・交換可能なものであるという関係に入ることが、意味するということ(義)である。

異なりながらも同じ、区別されるが一つ

異なりながらも同じ、区別されるが一つという関係は、一である法身大日如来から、あらゆる「多」なる事物出来事が顕れ出てくるという話と同じかたちになっている。

それにしても、法身大日如来のごとく「一」であり、しかし同時にあれこれに分かれた「多」でもあるという声-字-実相の置き換え関係は、通常なんとなくいわゆる言語と呼ばれている"決まった意味を持った記号の体系"のような事柄とは随分と異なった気配である。

通常のいわゆる言語と、一なる法身大日如来の多なる顕れのごとき言語。

このちがいを分節するキーワードになりそうなのが、丸山圭三郎氏のソシュール論にあるラングとしての言語ランガージュとしての言語の区別である。

通常のいわゆる言語はラングとしての言語であり、一なる法身大日如来の多なる顕れのごとき言語はランガージュとしての言語である。

ラングとしての言語というのは、記号とその意味内容が固定的に結びつているように見える常識的なコトバの姿である。「りんごというコトバの意味は赤くて丸い果物のことで、それ以外ではないです」「Aの意味はBで、B以外ではないです」といった具合に、コトバとコトバ、文と文の置き換え関係を固定し、根源的には動き・活動であるはずの「置き換えること」をルールの固まった静的な体系を構築するためだけに働かせるのが「ラング」である。これを井筒俊彦氏は言語の「表層領域」と言い換える。

「我々の言語意識の表層領域は、いわば社会的に登録済みの既成のコトバの完全な支配下にある。そして既成のコトバには既成の意味が結びついている。既成の意味によって分節された意識に映る世界が、すなわち我々の「現実」であり[…](井筒俊彦全集『意味の深みへ』p.401)

表層領域の言葉は、社会的に登録済みの既成のコトバであり、それはコトバとコトバの置き換え関係が固定化された領域である。そしてこの置き換え関係の固定化が、我々が昨日と今日と明日を超えて「同じ」だと信じることができる「現実」の安定して確固たるものという印象を作り出している。

他方で、これと対立するのが言語の深層領域である。

「しかし[…]言語意識の深層領域には、既成の意味というようなものは一つもない。時々刻々に新しい世界がそこに開ける。言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きの取れない既成の意味であったものさえ、ここでは概念性の留金を抜かれ浮遊状態となり、まるで一瞬一瞬に形姿を変えるアミーバのように伸び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら、微妙に移り動く意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとして現れてくる。(井筒俊彦全集『意味の深みへ』p.401)

深層領域では言語には既成の意味というものはなく、出来合いの意味というものも「一つもない」。

深層領域ではコトバとコトバの関係は「惰性的に固定」されておらず、「留金を抜かれ」た「浮遊状態」にあるという。

ひとつの言葉が、次から次へとあの言葉、この言葉と、様々なコトバと置き換わっていく

ありとあらゆるコトバを互いに置き換えては別々に異なりながらも一つという関係に結んでしまうこの動きは、比喩表現がそうするように下位のカテゴリーの名が上位のカテゴリーの名と置き換わったりする。

そうして動いているうちに、語と語、声と声、字と字の置き換え関係が織りなす意味分節体系は、固まった姿から、柔軟に動き回る姿へと、その顕れ方を変容させる。この動き回る分節システムは、固まった構築物ではなく、動きそのものであり、分節する、分節化する、常にそのやり方を変化させながら分節を試みるダイナミックなひとつの運動になる。

この分節化の動きこそが「意味する」ということの正体である。

『声字実相義』で声と字と実相として多にして一の関係にあるものと論じられた法身大日如来とは、この分節化する動きと同じということになる。

「すべての諸尊の根源は大日如来です。すべての言語も大日如来より流出しさまざまに転変していって、世間に流布している言語となるだけです。こうした真実なる関係を知っているのを真言と名づけ、これを理解していない場合の言語を妄語というのです。」(空海「声字実相義」,『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』p.75

言語とは、意味作用(意味するということ)であり、その正体は根源的な分節作用であり、分節する動きの反復を通じた体系性の発生と、分節する動きの動き方をずらすことによる体系性の流動化と、そこから転じての新たな体系性の発生との永遠のサイクルである、ということになる。

深層意味論というのは、意味ということを、「意味する」ということを、こういうところで考えることである。

さて、『声字実相義』は深層意味論的言語哲学として読めるのだけれど、しかし、なんといってもこれは第一に仏教の話である。

空海という方が偉大であるのは、この言語的意味分節体系が発生しつつある深層へと降りていったあとで(あるいは昇っていったあとで)、そこから一挙にUターンしてこの世に、現世に、衆生の間に戻ってくるところである。

「さまざまの文字を、愚かな人がこれを見れば執着を起こして愛着して[…]煩悩をおこして、しまいには十種の悪行や五種の重罪を犯すことになります。[…]逆に智慧のある人は、色塵の文字を見て、明確にその因縁を観じとり、執着することもなく棄て去ることもしないで仏陀の曼荼羅を建立し、ブッダの広大無辺な事業を実現し[…]自分も他の人々もともに幸せに導くことを成就することができます。(空海「声字実相義」,『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』p.85)

このあたりは大乗仏教のエッセンスなのかもしれない。

執着はいうなれば、区別する動きと置き換える動きを決まったパターンに固めて決めてしまい、それ以外の区別の仕方や置き換えのやり方を許さないことから発生する。

いわゆる煩悩というのは、常識の世界で固定化した区別分節に苛まれることである。

例えば自分と他人の区別、生と死の区別。この区別を固めてしまった上で、自分を他人と同じにしようと欲してはではできないことに苦しみ、他人を自分と同じにしようと欲してはそうできないことに苦しみ。

ところが「智慧のある人」はこの区別に「因縁を観じとる」というのである。どう言うことかといえば、区別される一方と他方が、Aと非Aが、どちらもである法身大日如来がとして顕れた姿であると「観じる」のである。

そうすると何かと何かの区別は、区別されながら区別されず、二でありながら一であり、そして同時に一でありながらあくまでも二で、区別されないのだけれども区別されることになる。異なりながらもあくまでもひとつにつながっている。この繋がりが「因縁」ということである。自他をはじめとするあらゆるものごとの区別が、じつはひとつにつながっているのだと「観じる」こと。そこから区別することや置き換えることに「執着することもなく棄て去ることもしない」という境地がひらかれる。

執着しない。区別はないのだ、すべて一なのだ、と言いながら、しかし区別を捨てない。一でもであり多である。一にあらず多にあらず。

これは区別「する」動きを止めることがないということであり、「置き換える」動きをもまた止めることがないということである。

そうして区別すること置き換えることをやめないからこそ、引き続きこの現世に生き続けながらも、その生きた身のままで「即身成仏」できるということになるわけである


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