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純粋に雑種的であること−デイヴィッド・ライク著『交雑する人類』読書メモ

 デイヴィッド・ライク著『交雑する人類-古代DNAが解き明かす新サピエンス史』

 私たち一人ひとりの一つひとつの細胞に入っている遺伝子。その情報から、われわれのご先祖は、いつ、どこからやってきたのか、現在に生きる人類のルーツを解明しようという研究が盛んである。

 数ある研究の中で『交雑する人類』が特におもしろいのは「古代DNA」を資料とする点にある。

 古代DNAというのは古代人のDNAである。

 生きている人のDANならば綿棒で口の中の粘膜をこするだけで簡単に集めることができるが、数千年前、数万年前に亡くなった「古代人」のDNAを、一体どうやって集めるのか?

 簡単に言えば、遺跡で発掘される古代人の骨に残されたDNAを抽出するのであるが、その技術は言うほどカンタンなものではない。数千年、数万年、土中に埋まっていた資料には、土の中の様々な微生物のDNAも混入している。そこから、人間のDNAだけを選り分けるのである。
 デイヴィッド・ライク氏がその技術をドイツのマックス・プランク進化人類学研究所で習得し、古代人のDANを解析する研究室を開設したのが2013年である。そして2015年末にはライク氏の研究室が「世界中で発表されたヒト古代DNAの半数以上」を発表するまでになった。

 こうして著者の研究室は、古代人のDNAの配列を復元する「大量生産工場」と呼んでもおかしくないほどのものになった。2017年に3000件以上の資料から古代人のDNA配列を取り出し、データ化したという。

 いまや古代人のDNAの研究の第一人者とも言えるライク氏が、その知見をまとめ、人類の未来に向けた問題提起を行うのがこの一冊『交雑する人類』である

古代人のDNAが可視化したもの

 古代人のDANのデータが大量に揃うことで、現在の私達に至るまでの祖先たちの移動、移住のパターンが、とても細かく復元されるようになりつつある。

 古代人のDNAが教えてくれる最初のこと。それは、ある土地で発掘された古代人のDNAが、それが発見された地域の現在の住民のDNA配列とは、大きく、しばしばまったく異なるという事実である。今現在、ある土地に生きる人々は、古代にその土地に生きた人々の直接の子孫ではない

「人類集団の現代の遺伝子情報から、古代の出来事の詳細な実態を知ることはできない。問題は、人々が隣り合う集団と混じり合い、過去の出来事を示す遺伝的な痕跡が次第に不鮮明になっていくことだけではない。古代DNAの分析からあきらかになった遥かに厄介な問題は、今ある場所に住んでいる人々が、ずっと昔にその場所に住んでいた人々の子孫だということはほぼありえないという事実だ。」(『交雑する人類』p.16)

 ここ数万年での人類の移住と地球全域への拡散の歴史とは、先祖たちがどこか一箇所から片道切符で単線的に「一度だけ」移動したわけでもないし、移動途中のキャンプに「一度だけ」残していった人々の、直系の子孫が現在の住民を構成するわけでもない。人類の移住と拡散はもっと複雑なプロセスである。

 例えばこちら、p143-p144の図であるが、これは現在の中東からヨーロッパの各地で発掘された、およそ5万年前から1万年前、およそ4万年間の古代人グループの入れ替わりを復元したものである。「基底部ユーラシア人」「古代北ユーラシア人」「最初のヨーロッパ狩猟採集民」などとあるのが、古代人のグループであり、それぞれ違ったDNAの特徴をもつ。

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 まず左上が3万9000年以上前の人々の動きである。

 ①の人びとは、5万年以上前にアフリカからユーラシアへと移動した人びとの子孫であるが、この①の人のDNAと同じパターンを持つ子孫は、現在のアジアにもヨーロッパにも見られないという。

 ②はその後のヨーロッパの狩猟採集民の共通の祖先であり、オーリニャック文化の担い手であると考えられる。

 次に左下が3万3000年前〜2万2000年前の人びとの動きである。

 ③は、②の人びとすなわちヨーロッパの狩猟採集民の共通の祖先から分かれヨーロッパ東部に向かったグループであり、グラヴェット文化を発展させた。この人びとは3万年前に東からヨーロッパ西部へ移動し、先住のオーリニャック文化の担い手を南西へと追いやった。このグラヴェット文化のグループ自身も北方から迫る氷河によって、北ヨーロッパの地を追われた。

 次に右上の図である。1万9000年前から1万4000年前、氷河が北部ヨーロッパ全域を覆い尽くした頃である。このころ④に示すマドレーヌ文化の担い手となる人びとが、現在のスペインからフランス方面へ向かった。この人びとは②の人びとの子孫であった。グラヴェット文化のグループがヨーロッパを覆い尽くした間にも、オーリニャック文化の系統がはどこかで存続し、そしてマドレーヌ文化の担い手として復活を遂げたという。

 そして右下の図である。1万4000年前の温暖期に至り、スイス・アルプスからイタリア北部まで続いていた氷河が溶けるとともに、⑤の人びと、バルカン半島やイタリアの狩猟採集民が、西へ、北へと拡散し、マドレーヌ文化の担い手に取って代わった。この⑤の人びとは、先行するマドレーヌ文化の担い手とは全く異なるDNAをもっていた。このあたりでようやく、現在のヨーロッパの人びととつながってくる。

 詳しくは『交雑する人類』を読んでいただくともっとわかりやすいと思うが、これだけでも異なるDNAを持つ人びとのグループが、数万年の間に西へ東へ、北へ南へと移動したこと様々なルーツを持つグループがあるひとつの土地を入れ替わり立ち替わり利用したことがわかる。

 全人類の共通の先祖から「最初のヨーロッパ人」が分かれ、その子孫がいまのヨーロッパ人になった…というような単純なストーリーではないのである。

DANの交換はツリー構造ではなくメッシュ構造を描く

 この10年ほどで古代人のDNAが大量に復元されるようになる以前には「現在の」各国各地域の住民のDNA配列の共通性と差異に着目して、人類の移住と集団分岐の歴史を読み解こうとする試みがあった。

 ごくカンタンに煎じ詰めると、「現在の日本人」と「現在の韓国人」の共通性と差異を調べ、さらに「現在の韓国人」と「現在の中国人」の共通性と差異を調べ、さらに「現在の中国人」と「現在のチベット人」の共通性と差異を調べ…。という具合に現在の隣り合う集団の間で共通性と差異を測っていくのをアフリカまで繰り返していく。そして現在生きている全ての人間に共通する祖先から現在の諸国民に分かれるまでの人類の分岐を「ツリー構造」で描き出せる、と考えられてきた。

 共通祖先から数人の子どもが生まれ、その子どもそれぞれからさらに子どもが生まれ、そのうちの何人かが生まれた土地を去り、隣の土地へ移住し、そこで新たな子どもを産み、その子たちのうちの何人かが、また隣の土地に移住するという想像上のイメージ。ツリー構造はこうして子孫繁栄して分岐していく人々の家系図を描く。こうして現在に至る「人種」の差異と、同人種内での、例えば国別の差異などが分岐していく、という考え方。

 よく考えてみれば、このモデルはどうも危ういところがある。「現在の日本人」の遺伝的特徴を取り出すために、それこそ何千人分のデータを集めて平均をとったとしても、それが、人類の共通の先祖の直系の子孫である最初の日本人夫婦なるものの遺伝情報と「同じ」であるかどうかは分からない。たまたま現在の日本人はこういう遺伝的傾向です、という話は、原日本人はこういう遺伝子をもっていました、という話には置き換えられない。

 ライク氏らによる古代人のDNAの復元は、事実がもっと複雑であることを明らかにした。共通祖先から現在の遺跡近隣住民に至るツリーの途中に、その場所で発見された古代人のDNAを位置づけられないということである。ご近所住民どころか現存するどの集団とも遺伝的に異なる人々が、かつてその場所に暮らしていた場合さえある。

 これは移住と、集団の交代が繰り返されてきたことを示している。それと同時に、人類の集団というもの自体が「交雑」の結果としてひとつのパターンをつくりつつ、生じたり消えたりする”変容に開かれたもの”であることを物語る。

 現在観察される集団の特徴というのも、過去の交雑の結果がたまたま現時点で描いているパターンである

縄文人と弥生人

 『交雑する人類』には「日本人」の話も出てくる。

 よく知られているように、現在の「日本人」は、「縄文人」と「弥生人」の混血である。ライク氏によれば、いわゆる弥生人(農耕民)と縄文人(狩猟採集民)の混血が進んだのは1600年前ごろであるという。北九州に最初の農耕民が移住したのは3000年ほど前であるが、移住者と先住民との遺伝的な混じり合いが進むまでに1000年以上がかかっている。1600年前といいえばちょうど古墳時代であり、現在につながる日本の国の枠組み明確な形を持ち始めた頃である。
 ちなみに、縄文から弥生への転換期については、こちら↓のnoteに書いたことがある。参考文献は藤尾慎一郎氏の『弥生時代の歴史』である。


 さて、ここでいう「縄文人」と「弥生人」は、それぞれ人類の共通祖先から分岐した直系の二つの集団なのかと言えば、その答えも否である

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