「ある」と「ない」。「あり」と「なし」。「それを言っちゃあおしまいよ」 -『死者と霊性』を読んで考える
あるはないがないであり、ないはあるがないである。
これに対して「そんな言い方、ありなのかい?」「そんな言い方、なしだろう!」と言い返すこともできる。
言おうと思えばなんでも言えるが、しかしそれを言うことが「あり」なことと、それを言うのは「なし」なことが、区別できるということ。
とりわけ日常を生きるということは、「それを言っちゃあおしまいよ」の束に簀巻きにされるような事件である。
*
岩波新書の新刊『死者と霊性』を読む。この本の最後に収められた安藤礼二氏の「「霊性」の革命」では、井筒俊彦氏の深層意味論、言葉の意味の発生をめぐる思想の根底に、蠢く「死者」の声の「憑依」ということがフォーカスされている。
ちょうどジュリアン・ジェインズ氏の『神々の沈黙』を読んだばかりなので、この二冊を繋いでみよう。
この二冊を結びつけるのは、私たちの言葉が、意識が、私たちが「ある」と言ったり「ない」と言ったりすることの区別が、私たちの日常のこのリアルな現実と非現実の区別が、ことごとく、他者たちの言葉に取り憑かれることから始まると考えるところである。
◇
例えば、次のような例題を置いてみよう。
「言語外の現実はあるのか?」
この問いに対して答えるとする前に、先にこの問いを解剖してみよう。
この問いは、次の二つの区別を行った上に編み出されている。
1) 言語の「外」と言語の「内」を分ける。
2) 「ある」と「ない」を分ける。
そしてその上で、
外 ー 内
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ない ある
と言う具合にして、二つの区別を重ね合わせている。
この区別と区別の重ね合わせによる4項関係が構成された後で、初めて内とか外とか、あるとかないとか、言うことが出来るようになる。
重要なことは、二つの区別を重ね合わせる向きは、どちらでも構わないし、入れ替え可能であるということ。
すなわち、
外 ー 内
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ない ある
とやることができるということは、同時に次のようにもできるということである。
外 ー 内
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ある ない
内があると言ってもよく、ないと言ってもよく、外があると言ってもよく、ないと言ってもいい。
どちら向きにも言えるのである。
そんないい加減な世界は嫌だと思いたくなるところであるが、言おうと思えばどうにでも言える。例えば「内」という言葉には「ない」という言葉を拒絶し弾くような力も意思もない。
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ただし、ここが実はリアルを生きる人にとっては大問題なのだけれど、言っていいことと言ってはいけないこと、言うべきではないことと言って構わないこと、といった区別はある。
目の前の相手や、話題になっている相手や、場所や、場面にまつわる細々とした区別が幾重にも重なり合い、許される区別の重ね方と、許されざる区別の重ね方を、区別するようになる。
私たちの日常の常識の世界の言語は、この何が許される区別の重ね方で、何が許されざる区別の重ね方なのかの区別を、皆でよってたかって同じようなやり方で真似しあい反復しあうことで、ある種の規則のようなものへと固めようとする動きの中にある。そうして「言おうともえば」どうにでも言えるが、しかし「言おうと思わ(え)ない」ことと「声を大にして言いたいこと」とがはっきりくっきり、いつも同じように区別されるようになっていく。
* *
このような区別が発生するのは、ある区別と区別の重ね方をある一方の向きだけで繰り返し、反復するからである。みんながやっている、他の人たちもやっている、ご先祖がやってた、と。
私たちが言葉で何かを言ったり、頭の中で言葉をジャラジャラと繋いで行ったりするときにはいつもいつも、人から人へ世代を超えて、大人から子供へ、死者たちから生者たちへ、他者から自己へと脈々と伝承されてきたあるべき区別のやり方と区別の重ね方のあるべきやり方が、再生され、反復されていく。
○ー●
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□ー■
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□ー■
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□ー■
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□ー■
その中で私たちは、色々言ったり、問うたり、するようになる。
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「言語外の現実はあるのか?」と言う問いも同じである。
この問い対して、問われている言葉を他の言葉に置き換えるというスタイルで、つまり一般的に問答として成立しているとみなされるやり方で答えるとすれば、一番正しい答え(言い換え)は、次のようなものだろう。
みんながあると言っているのであればあるし、
みんながないと言っているならない。
そんなバナナな話があるかい、と思われるかもしれないが、落ち着いて欲しい。
ことが実際そう簡単ではいように見えるのは「みんな」が入っているからである。
誰を「みんな」として認定するのかによって、あるとないのどちらを選ぶかが転換してしまう。しかもここでいうどの「みんな」に従うかということは、自分に取り憑く死者を選ぶ、という難題でもある。
ここで言う「みんな」は、いま自分が行おうとしている区別と区別の重ね方の「やり方」を同じようにやってきた他の人々の多数の系列・連なりある。
誰を「みんな」として認定するのかは、自分を、どういう他者たち、死者たちの系譜に連なるものとして区切りだし、重ね繋いでいくのか、と言うことにかかわる。
そして他者たちは、死者たちは、単一均質ではなく、複数に分かれており、しかも互いに論争して止まないのである。
自分に取り憑く死者を選ぶといっても、スマホを機種交換するようなことでは済まない。何より最初の一人目、自分が自分だと思っている「私」が、すでに誰かかつての死者、その声の残響なのである。死者というとおどろおどろしいと思われるのであれば、「私」を言葉をかけつつ育てた当の人を、かつて育てた人を、かつて育てた人を…と言い換えてもいい。
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私が何かをつい問うてしまい、答えを、特に「正解」を求めてしまう場合、その衝動を司っているのは「私」ではなく、「言語」である。そして言語とはすなわち、「私」に取り憑いて憑依した他者たちの、かつての死者たちの言語である。
この「取り憑き」は「私」が自由に取り外したり付け替えたり出来るものでもない。
「私」と言うこと自体、言語が一個の動物的身体に憑依し「私」と言う語を私以外のものについての語から区別する動きによって区切り出された一つの言語的項だからである。そのような項に言語の分節する動きの動作パターンを自在に操るほどの力は分け与えられていない。
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目覚めれば、すぐにジャラジャラと言葉が勝手に繋がり出してしまう私たちの意識において、私たちは「言おうともえばどうにでも言える」方向性と、「言いたくもない=言ってはいけないことは決して言わない」方向性という、相反する方向に引っ張られ、引き裂かれようとしている。
ここでこのどちらか一方にずるずるずると引き攫われてしまうとどうなるか。
まず後者の方向にひき攫われていくと、私たちの個体は、完全に他の誰かのものに、いずれかの死者のものに、なってしまう。
そして前者の方向にひき攫われていくと、動物的肉体の個的生命の流れに飲まれていく。
もちろん、これはこれでどちらも大いに構わない。大いに「あり」である。
しかし、それでいいとは思えない、それは「なし」ということもまたアリである。
どちらか一方にひっぱられていくことに「なし」という。そして「言おうともえばどうにでも言える」方向性と、「言いたくもない=言ってはいけないことは決して言わない」方向性の間で、一方に引っ張られれば他方に戻る、ということを繰り返しながら、景気良くはねるボールのように「振れ幅」を描きつつどこかへ転がっていくというのもまたよいのである。
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この振れつつ転がるための一つの方法が、言葉の意味ということを、つまりある言葉といつも同じように結びつくべき他の言葉との置き換え関係を一瞬束の間柔らかくする、神話や詩や夢のような、象徴としての正体を不意に垣間見せる言葉たちに耳を傾けることである。
そういう象徴としての言葉たちはなかなか声を発しない。
こちらもじっと黙って、長い長い沈黙の時間を、待ち続けることになる。
これがよいのである。
沈黙の間は、言葉はまだ区別する動きを完了していない。
◇
とはいえ、そういう沈黙を待つ時間を許す隙間というか、待合室というか、空き地というか、密儀を伝承する洞窟というか、そういう中間領域は、日常のコミュニケーションとそれを支え実現しているコミュニケーション・メディアの設計、特にそのインターフェースの設計から失われて久しいように思われる。
耳を待たせるには、それなりの「しつらえ」が必要なのである。
>この辺りの話は下記の記事にも書いたのでご参考にどうぞ。
続く
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