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未来を想像し直すための「虚構」を ーユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』を最後まで読む

『サピエンス全史』の著者である歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏による『ホモ・デウス』を引き続き読んでいる

ハラリ氏の『ホモ・デウス』は『サピエンス全史』の続編ということになる。ハラリ氏は数万年前から近現代にいたるまで、そして近未来にあり得る可能性まで人類の歴史全体を論じる。

ハラリ氏は様々な時代の様々な人々を比較するための基軸として「虚構」そして「意味」を置く。『ホモ・デウス』でも近代現代の人類の歴史と近未来にありえる可能性とを思考する鍵は「虚構の力」である。

虚構の力からは逃れられない

虚構というのは、まさに虚構。手で触れたり目で見たりできないことである。例えば「来年の私たち」などまさに虚構である。ある時代のある社会を生きる人々は小異はあれ大体同じような虚構で自分たちにとって「リアル」な正解を意味のWeb(網)として作り上げ、それを通して認識を行っている。

『ホモデウス』の最後でハラリ氏は次のように書く。

私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約をうけている…。本書では、その制約を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた(『ホモ・デウス』下巻p.244)。

私たち人類は、虚構から逃れることはできない

ハラリ氏のいう虚構は「虚構 対 現実」「嘘 対 本当」のような対立関係の一方にあるような虚構ではなくて、そもそも世界をそうした「対立関係として見ること」そのものとしての虚構である。

ハラリ氏のいう「虚構」は善と悪の区別を超えている。善も悪も、どちらも虚構なのであり、「私たちが受けている条件付けの源泉」なのである。

だからこそ我々人類は、自分たちがどういう虚構のなかで生きているのかを自分自身で知ることが重要なのだ。

特に日常の素朴な意味での「虚構と現実」の対立の中で、「現実」の方に振り分けられているハラリ的虚構がどういうものなのか、私たちはただ生きているだけでは空気のようにそうした虚構を世界の前提として受け入れており、それがどうなっているのかを認識し、自覚し、意識したり、ましてや他の可能性を考えるためには相当な知的努力を要する。

虚構の力。それは私たちの祖先が獲得した目に見たり手に触れたりすることができない「虚構」を頭の中でこしらえ、言葉に託して他の人と共有する力の獲得である。

虚構を生み出し、共有することができる力、特に言語でコミュニケーションする力こそが、人間に、大きな集団をつくり、生活環境を大規模に作り変える協働の力をもたらしたのである。太古の祖先たちが海の向こうのまだ誰も見たことがない場所について皆で語り合えたのも株式市場も、企業ブランドも、様々な「法人」も「国家」さえもがそうした虚構であるとハラリは書く。

現在は虚構の交代期 ー 人間至上主義の虚構からデータ教の虚構へ

人類の歴史において、私たちや祖先たちが協力関係を築くことに寄与してきた虚構には様々なものがある。そのなかで特に近代、現代のひとつに結びついた世界、グローバル化した世界を強固につないできた虚構は「人間至上主義」であるとハラリ氏は書く。

人間至上主義は、人間こそがあらゆる価値や意味の源泉であり、目的であり、人間が自由自在に信頼関係、協力関係を築けるようにすることが、人類の社会をよりよいものにする。そう信じる。人間至上主義は「人間の自由意志こそが最高の権威である」と考える(下巻p.36)。今日の人間至上主義は特に人間の「感情」を意味と権威の究極の源泉として扱う。自分があるものごとの意味を「どう感じているか」が何より肝心ということだ。

ところが21世紀の今日、人間という生物の感情や行動のメカニズムが科学的解明され、感情や行動をコントロールするテクノロジーが高度化するにつれて、人間の内面は、世界に価値や意味を与える源泉としての輝きを失いつつある、とハラリ氏は指摘する

人間の意思も感情も、いまやテクノロジーで作ったり制御したりできるものになりつつある。人間の内面はそこから輝かしい価値や意味が生まれてくる聖なる領域ではなく、遺伝情報やホルモンや様々な神経伝達物質や電気信号の流れであり、それは電気的な刺激や薬物や視覚情報や音声を使って、技術的に制御できるものになりつつある(※この話はこちら↓のnoteに書いているのでよろしければどうぞ。)

人間至上主義は虚構の王の地位を追われようとしている。

代わりに虚構の王座に着こうとしている新たな虚構とは、ハラリによれば「新しいテクノ宗教」であり、それには「テクノ人間至上主義」と「データ教」の二つのタイプがあるという(『ホモ・デウス』下巻p.189)

近代の人間至上主義に替わる「テクノ人間至上主義」とは

ハラリ氏がいうテクノ人間至上主義とは「人間の心をアップグレードし、未知の経験や馴染みのない意識の状態へのアクセスを私たちに与えようとする」考えである。

未知の経験や馴染みのない意識の状態というのは、ハラリによれば「瞑想や薬物や儀式を通して到達できる」意識の状態であるという。かつて近代以前の社会では過酷な修行を通じて幻覚の世界を通り抜け、高次の意識状態を経験した「シャーマン」や修行者たちが、特別な力をもつものとして歓迎されたり恐れられたりした。

ここ数百年間の近代社会は、そうしたシャーマン的な「卓越した精神状態」を非科学的な迷信として退ける傾向にあったものの、20世紀後半以来、薬物などなど神経系に作用する刺激をコントロールする技術の発展とともに、再び平凡な日常性を超えた意識への関心が復活してきた。ただしそれは精霊を呼び出したり、死者と会話したり、呪いをかけたりするためというよりも、驚異的に研ぎ澄まされた集中力で、一般人を遥かに凌駕する超スピードで大量の情報を結びつけ、状況を認識し、判断をする。そうした能力への憧れとともに進行してきた(p.195)。

意味や価値の源泉である人間には、まだまだ隠れた能力が眠っているはずだ。「人間は脳の性能のうちわずか数%しか使っていない」などという人もいる。もっと高度な意味や価値を生み出す力が人間の中には隠れているはずだからテクノロジーを使って、その潜在した力を目覚めさせてやらなければいけない。こうした考えは人間をアップグレードし「ホモ・デウス(神のような人間)」にしようとする発想だとハラリは書く。

アップグレードするつもりで、ダウングレードしてしまう

いい話のように思えるが、ここで大問題になるのが「どういう能力をアップグレードするのか」ということである。

例えば受験勉強を超スピードでできるようになりたいとか、徹夜で仕事をしても眠くならないとか、顧客に何を言われても何も感じない強靭なメンタルとか、毎朝決まった時間に覚醒する意識とか、銃を持った敵の前へ恐れることなく爆弾を抱えて飛び出すとかいろいろとあるかもしれないが、そうした私たちが手軽にアップグレードしたいと望みそうな能力は教師が、雇用主が、野戦の指揮官が、要するに「現在の」社会で「こいつは使える」と評価されるような能力ばかりになりそうだ

今日、すでに様々な向精神薬が私たちの神経ネットワークの働きを調整している。心の「健康」を維持するためにそうした薬を医師に処方してもらうことは珍しいはなしではない。一方で私たちの社会は薬物乱用といった問題にも直面している。神経に作用する薬物は「良い」薬物と「悪い」薬物に区別される。「良い」とされるのは「社会秩序や経済成長を増進する」効果を生むものである。それは疲れた人を奮い立たせ興奮した人を落ち着かせ生産や教育、戦闘の現場に組み込む。一方、社会秩序を不安定にしたり、経済成長を阻害する効果を生む薬物は「悪い」ものとされる。

仮に受験勉強力や突撃メンタル力薬と電気で強化したとして、はたしてそれは「サピエンスをアップグレードした」ことになるのだろうか?

人間にどういう意識状態が求められるかは、歴史において時と場合において大きく変化してきた。森で狩りをする狩猟民と、古代都市で交易に携わる人と、テロリストを制圧しようとする特殊部隊隊員とでは、必要とされる意識の状態は全く異なるとハラリ氏は書いている。狩猟民と商人とVR・ARゴーグルを装着した特殊部隊隊員、どの意識状態が人間にとって最強かという問題は成り立たない。人間が置かれる状況はきわめて多彩であり、それに応じて意識に求められる「性能」も幅広く変化する。

いつだれにどういう感情を作り出すのが「善」であるのかその判断は、私たちの社会の支配的な価値観に基づいて下されてしまう。例えば、朝から元気に覚醒し集中してはつらつと労働できる、そういうのが良い感情の状態である、と。薬物も自動車や飛行機と同じ高度な道具であり、その目的地は人間が決めるのである

そしてその決定を左右する基準となる信念の体系や価値観は、人類が認知革命を経て獲得した、虚構を生み出し、共有し、協力する能力に支えられている。私たちは、自分たちをどうするのかを考えるためにも虚構に依存しており、だからこそ、自分たちがどういう虚構の中にいるのか、どういう虚構を生み出すことができるのかを知る必要があるのだ。

家畜化

雨の夜、まどろみもせず、アスファルトを打つ雨粒たちの音を聞く。

詩を編んだり、楽曲を紡いだりする力などないわたしでも、そこに特別なものを感じる。そういうのもまた、意識という現象がもつ多彩な相のひとつなのである。

しかし、そうした夜の雨音になにかを感じる繊細な意識など「何の役に立たない」と一蹴し、薬を飲んで雨の音など気にせず速やかに就寝し、朝になればまた別の薬を飲んで天候や気圧などお構いなしに「やる気」を溢れさせながら満員電車へ突撃する。

このようなことをすることが、本当に「アップグレード」なのだろうか?

アップグレードしたつもりが、ダウングレードになるリスクがある。

ハラリ氏らしい皮肉の効いた一文なので、丁寧に引用してみよう。

「農民なら誰もが知っているとおり、人をいちばん手こずらせるのは、たいてい群れの最も賢いヤギで、だから農業革命には動物の心的能力をダウングレードするという側面があったのだ。テクノ人間至上主義者が思いつくような第二の認知革命は、私たちに対して同じことをし、これまでよりもはるかに効果的にデータをやり取りして処理できるものの、注意を払ったり夢を見たり疑ったりすることがほとんどできない人間を生み出す恐れがある。私たちは何百万年にもわたって、能力を強化されたチンパンジーだった。だが将来は、特大のアリになるかもしれない。」(p.204)

農耕牧畜の開始により野生動物を捕まえて「家畜」にする。飼育しやすい個体ばかりを選別して飼育し、交配させた結果「動物の心的能力」が「ダウングレード」された。

「テクノ人間至上主義」は人間を強化すると言いながら、そもそも「人間」が何者なのかその広さと深さをよく理解していない。

テクノ人間至上主義者の人々が「善意で」人間を良くしよう、アップグレードしようと望めば望むほど、人間に多様なあり方を、ある時代、ある社会の価値観「だけ」で切り詰めてしまう可能性もある。テクノ人間至上主義は、人間の意思を何より尊重するがゆえに、その意思をより快適な幸福な状態に保持しておくための手段をいとわない。しかしそのせいで神聖なはずの人間が「ただのデザイナー製品」にされてしまう(下巻p.208)。

ここで、そもそも人間にこだわらない(人間をどうにかしようとは思わない)、もうひとつのテクノ宗教が登場する。それが「データ教」である。

「データ教」ー森羅万象はデータの流れである。人間もデータの流れである。

人間至上主義にとってかわる可能性がある第二のテクノ宗教が「データ教」である。データ教の「教義」とは、ハラリ氏によれば次のようなものである。

「データ教では、森羅万象はデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。」(『ホモ・デウス』下巻p.209)

従来、データは「知的活動のほんの第一段階」とみなされていたという。

データを集めたとして、それを分析し、その意味を解釈するのは「人間」にだけできるハイレベルの仕事であった。データだけ集まっていてもそれだけでは不十分で、それを分析すること、意味を明らかにすること、有用な知見を探し出すこと、そうしたこを人間が行って初めてデータは生き、価値あるものとなった。

データが、人間が書いたものにほとんど限られているうちはそれでもよかった。

ところが今日、インターネットというデジタルデータに依拠するコミュニケーションが、経済活動や政治活動から日常生活の何気ない様々な行動まで、あらゆる人間の事細かな行動の履歴をデジタルデータとして記録する用になりつつある。行動履歴、検索履歴、バイタルデータの履歴などなど、世界は「ビッグデータ」の時代である。

こうなると、増殖し続ける多様なビッグデータを分析し、そこから有用な知見を得る処理を、人間が行っていたのでは追いつかなくなる。ここに膨大で雑多、多様なデータから、データの組み合わせのパターンを自動的に学習するAI(人工知能)が登場するのである。自動車の運転から、病気の診断、翻訳、文章の作成などなど、データの組み合わせパターンを高速に大量に発見し分類するAIは、はやくも実用段階に達しつつある。

ここで「データ至上主義者」は次のように考えると、ハラリは指摘する。

「もはや人間は膨大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識を知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的なアルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから」(『ホモ・デウス』下巻p.210)

「データ教」では、人間もまた「データ処理システム」の一つに見える。人間の集団もまた、データ処理システムに見える。人間も人間の集団や組織も、データ処理能力という観点から「AI」のような機械・アルゴリズムと並べられ、そのデータ処理能力を比較される。

データ処理システムとしての人類

データ教の観点からは人類の歴史もまたデータ処理システムの変遷として記述することができるという。「人類という種全体を単一のデータ処理システムとして解釈」するのである(『ホモ・デウス』下巻p.221)。

データ処理システムの処理能力は、下記の4つ過程によって高められる。

1)プロセッサーのやす
2)プロセッサーの種類やす
3)プロセッサーの接続数やす
4)既存の接続に沿って動く自由を増やす(『ホモ・デウス』下巻p.222)

この4つの方法のうち、どれを重視し、どれを重視しなかったかによって、人類の歴史を大きく4つに分けることができるとハラリ氏は書く。

まず人類史の第一段階は「認知革命」から「農業革命」までの時代である。この時代、人類は言葉によって虚構を共有し、規模の大きな群れを持続的に維持できるようになった。一方で、アフリカを出て各地へと散っていくなかで、それぞれのグループごとに異なった多様な虚構の体系が生まれることになった。この第一段階は「人間というプロセッサーの数と種類を増加」させる一方で「互いの結びつきを犠牲にした」時代である。

日本で言えば、旧石器時代から縄文時代の前半をこうした時代と見ることができるかもしれない。

人類史の第二段階は「農業革命」から「書字と貨幣の発明」までの時代である。農業革命により持続的な定住集落を営むようになった人類は「高密で局地的なネットワーク」を多数生み出すことになった。さらに同じ場所に継続して生活する局地的な周密ネットワーク間で「交易」が盛んに行われるようになる。この第二段階は、人間というプロセッサーの数を増やし、その局地的な接続を強化したが、その局地的なネットワーク間の接続は弱いままであった。

日本でいうとちょうど弥生時代がこれである。

人類史の第三段階は「書字と貨幣の発明」から「科学革命」までの時代である。書字と貨幣によって「人類による協力の重力場はついに遠心的な力に打ち勝った」とハラリは書く。書かれた文字と、書き文字に基づく普遍的な宗教、そして貨幣によって広域のネットワークが持続的に結びつきを維持することができるようになった。

日本でいうと、古墳時代の半ばから飛鳥時代あたり「漢字」と「仏教」を導入した時代がこれだろう。

人類史の第四段階は「科学革命」から今日に至る時代である。この時代、科学技術の力によって「もの」と「情報」が、高速で運ばれ、地球上の至るところへ障害なく移動できるようになった。地表全体を覆う人類のネットワークが、かつてない水準でその接続数を増やし、そして「接続にそって」ものや人や情報や貨幣が「動く」自由度を飛躍的に高めた。

現在もまた、この第四段階の続きにある。デジタル化された情報通信技術はこの傾向を更に強め、いまやIoT(Internet of Things)」のような環境に埋め込まれた無数のセンサーが、地球上の至るところで膨大なデータをリアルタイムに生成し、瞬時に地球上の任意の場所まで伝送し、AIによる解析処理のプロセスにかけるようになりつつある。

歴史上、様々なデータを組み合わせ、その「意味」を解釈できる存在は人間くらいしか存在しなかった。もちろん人間以外の様々な動物たちも、人間とは違った知性でそれぞれの「意味」を生きているのだろうけれども、少なくとも地球の環境を大きく作り変えてしまうほどの集団の力(数十億人が皆で同じようなことをする力)を発揮したのは人類だけだった。

ところがその人類もまた、ビッグデータを昼夜なく高速処理するAIの前では、見劣りのする旧世代のデータ処理プロセッサーに見える。

「人間至上主義によれば[…]私たちは起こることすべての意味を自分の中に見つけなければならず、それによって森羅万象に意味を持たせなければならないことになる。[…]一方、データ至上主義者は、経験は共有されなければ無意味で、私たちは自分の中に意味を見出す必要はない、いや、じつや見いだせないと信じている。私たちはただ、自らの経験を記録し、大量のデータフローにつなげさえすればいい。そうすればアルゴリズムがその意味を見出して、私たちにどうするべきかを教えてくれる。」(『ホモ・デウス』下巻p.232)

この500年ほど森羅万象に意味を与える力を独占していた人間よりも、ビッグデータ×AIの方が、より高速に優れた「意味」を発見してくれる、というデータ至上主義の考え方。

AIがビッグデータを解析して、私たちに、買うべき商品、食べるべき食品、進むべき学校、求人に応募すべき企業、結婚すべき相手、住むべき住宅、契約すべき保険、買うべき金融商品などなどを「おすすめ」してくれる。情報不足の素人が感情と直感と「勢い」で決定するより、データを分析したAIの言うとおりにしたほうが、遥かにうまい具合に生きられそうな気もする。

「データ至上主義は、人間の経験データのパターンと同等と見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉(注:すなわち「内面の声」であるとか「感情」とか)を切り崩し、十八世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。(『ホモ・デウス』下巻p.236)

いまや他でもない私たち人間自身が、自分たちや自分自身よりも、AI×ビッグデータの方が合理的に物事を考えられるのではないかと思いはじめている。

ただ、ここで少し踏みとどまりたいのは「意味」とはなにか、ということである。意味とはAIがビッグデータから発掘するような、データのパターンに尽きるのだろうか、と問う必要がある。

人間はデータ処理システム+α=意味創発の場を開く

ハラリ氏は改めて次のように問いかける(『ホモ・デウス』下巻p.246)。

「生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?」
「生命は本当にデータ処理にすぎないのか?」

ハラリ氏は「生命が本当にデータフローに還元できるかどうかは疑わしい」と書く(『ホモ・デウス』下巻p.241)。生命をデータ処理のアルゴリズムとして記述したとして、それで生命の「すべて」を捉えたことになるのか、そこに「見落とし」は無いのか。なによりデータフローという観点では未だに説明ができていないことがある。生命の主観的経験や生命に宿る意識の存在である。

仮に近い将来、一人一人の「脳」を構成する膨大な数のすべての神経細胞ひとつひとつについて、その入出力信号を測定し、記録し、脳における信号伝送ネットワークをコンピュータ上に再現しシミュレーションできるようになったとして、その入出力信号=データの流れが、個々人の主観的経験とそのままイコールになるかどうかは、わからないのである。

人間にはデータ処理システムとして捉えられる側面「も」あるけれども、それに尽きないプラスαもある。あるいはデータ処理を超えるプラスαの方こそ、人間の人間的経験にとっては決定的であるかもしれない。

二つの意味 一者へ変換する、多数へと変換を増やす

ここで問題は「意味」ということの捉え方である。

AIがビッグデータからデータ分布のパターンを発見することも、たしかに「意味」を見出すことの一つである。ごちゃごちゃのカオスを「濾過」して、役に立ちそうなデータだけを選び出す。これは要するに、雑多なデータ、それだけではごちゃごちゃでとらえどころのないものを、整理、要約することで、整然としたわかりやすいパターンを記述する操作である。

ここでは次のような「変換」が行われている。

カオス的なごちゃごちゃのデータ ▷変換▷ 整理されたモデル

この「変換」こそが「意味」を生み出すことなのである。

サピエンスは自らの頭の中に生じた虚構を、音声だったり、文字だったり、なんらかの物質のパターンである記号に変換し他の人へ情報を伝達する。シンボルを他のシンボルに変換することで、未知の事柄を既知の事柄に置き換えて思考する。このプロセスを支えているのも意味するという作用(意味作用)である。

ところでこの変換のやり方にはいろいろある。「ごちゃごちゃしたものからすっきりしたパターンを見つける」ことだけが意味を生み出す変換ではない。

逆に、一見すっきりと片付いたものの表面に微細で多様な増殖するカオスの姿を捉えシンプルな静態多様な動態に変換するのもまた「意味する」ことのひとつのあり方である。

また、整然と区別された「役に立つもの」と「役に立たないもの」の対立関係や、「美しいもの」と「醜いもの」の対立関係ひっくり返したり、ひとつに重ねたりして「醜く美しい」といった両義的な存在へと変換するのもまた「意味する」ということのあり方である。

これについてはこちらのnoteに詳しく書いているのでご参考にどうぞ。

意味するということのもっとも深いところの姿は「区別して、置き換える」動きである。

ここで、区別をどのように区切るのか、そして互いに区別されたものたちをどのように置き換えるのか、その区切り方、置き換え方は、実は予め何も決まっていないコードも規則もないところで、区切ることと、置き換えることが、多様に姿を変えながら、区別と置換関係を増殖させながら動き続ける

そうであるがゆえに、意味するということは、人類にとっては、多義性と両義性とあいまいさともにある未決定で永遠に未完成の創造的な運動である。呪術も、神話も、芸術も、詩の言葉も、そもそも「言葉」そのものが、そうした運動する意味の痕跡として生まれてくる

日常性を支える「あたりまえ」の世界の意味は「一義的」な姿をしている。動物と人間、白と黒、男と女、子どもと老人、暑いと寒い、速いと遅い、明るいと暗い、食べられるものと食べられないもの、そして生と死。日常の世界では、これらは整然と区別されており、「どちらでもないがどちらでもある」というような両義的で曖昧な状態にはならないように徹底して区別を再生産されるよう管理されている

そしてここ500年ほどの近代科学は、こうした日常性の世界、「世俗」の世界を世界の実質的な部分としてピックアップして、この予め整然とした区別の体系を前提として、そうした決まったパターンで区別されたモノたちからなる「現実世界」において、そのモノたちのあいだの因果関係の法則の束として、世界を記述し、シミュレーションしようとした。その試みはたしかに大成功して、リアルな世界を自在に操作する力を私たちは得たのである。現代のAIによるビッグデータの解析も、この延長上で行われている。

データ解析によって発見=変換される意味とは、まさにこうした日常の、現実の、素朴に実在するものたちの関係である。

たしかにこれは、数ある意味の中でももっとも現実に役立つ意味である。ひとはこういう日常性を支える意味から遊離してしまうことはできない。

とはいえ、それでもやはりそれは多様な可能性の中のごく切り詰められたひとつなのである。

意味はデータの隠れたパターンで「も」ある。が、それ以上でもある。

ハラリ氏がデータフローという観点では未だに説明ができていないこととして挙げた生命の主観的経験や生命に宿る意識とは、まさにこの「それ以上」の方の多義的で両義的であいまいなダイナミクス(動態)のことである。

そうしてこれこそが井筒俊彦氏の『意識の形而上学』中沢新一氏の『レンマ学』が論じようとしていることなのである。

日常の素朴に常識的な「意味」は、定量化されたシンボルとしてのデータの組み合わせデータ群が連動して出現するパターンとして記述できる。それはあるシンボルと他のシンボルの置き換え関係を固定する、安定したコードという外観をもった「意味」である。

しかし、それはあくまでも意味するという多様な現象のうち、表層も表層、その最も外側の部分の固まった姿である。

表層の意味体系をめくり、掘り下げていくと、その深層では、「アーラヤ識」のようなシンボルの組み合わせ方を自在に組み替える動きが進行している。あるシンボルを他のシンボルと区別する、その区切る境界線を引く動きがゆらぎつつ行く宛てもなく「散歩して」いたりする

そこに生じる多義的で両義的な「深い」意味の経験は、主観的な経験を鮮やかに彩る。

この深層にこそ、有意味であることと、無意味であることを、区別し続けるもっとも基本的な区別が動いてもいる。

意味のふたつのあり方とAI対サピエンス

表層の意味と深層の意味、静的な意味と動的な意味、信号的意味と象徴的意味と言い換えても良い。あるいは「ロゴス的」意味と「レンマ的」意味と言っても良いかもしれない。

確かに、美しい音楽を作曲するAIや、人間が読むと詩のように読めるテキストデータを吐き出すAIも登場しつつある

ただしそれは、もともと人間が「教師」となって、「こういうのが美しい音楽ですよ」「こういうのが詩ですよ」と、AIに教えてやることがスタート地点にある。膨大な量の詩をデータを解析することで「なるほど、詩というものはだいたい云々の統計的パターンでこういう言葉が並ぶんですね」とAIが「学習」するのである。そうしてその学習したパターンをもとにして、試しに言葉を並べてみるのである。それを人間の先生がみて、「よくできました、まるでホンモノの詩のようですね」とやる。

このAIは優秀な詩の「アナリスト」であるが、果たして「詩人」だろうか?

堀田善衛氏の『方丈記私記』に、鴨長明が「本歌取り」による伝統化した文化を突き抜けたという話があるが、おそらく詩人とは長明のようなひとであり、いまの詩文生成AIはいわば簡易本歌取りマニュアルのようなものかもしれない。

いや、そうはいっても人間なら皆が皆鴨長明のような詩人であるはずもないし、簡易マニュアルの縮尺版のような言語組成で日常の経験を全処理している人間もいる。それに比べたら疑似本歌取りのAIの方がまだ優れているよという考えもあるかもしれない。

未来を想像し直せるように

『ホモデウス』は、三つの問いかけで閉じられる。

生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして生命は本当にデータ処理にすぎないのか?

知能意識のどちらのほうに価値があるのか?

3意識はもたないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

こうした問いを問わざるを得ない理由は、要するに人間には依然として重要で厄介な仕事が残っているということである。

それは認知革命以来の虚構を想像し、共有する力の使い方をめぐるものである。それは象徴し、象徴を変容させていくこと。

即ち、深層から表層に至る意識の全体構造の運動が、曼荼羅を析出しながら動き続けていくことに関わるものである。

ハラリ氏が繰り返し指摘するのは「サピエンスが世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブを織りなすことができるからだ」という点である(『ホモ・デウス』上巻p.187)。

大規模な人間の協力はすべて、究極的には想像上の秩序を信じる気持ちに基づいている。[…]ある土地に住んでいるサピエンス全員が同じ物語を信じているかぎり、彼らは同じ規則に従うので、見知らぬ人の行動を予測して、大規模な協力のネットワークを組織するのが簡単になる。サピエンスはターバンや顎髭やビジネススーツといった、視覚的目印をしばしば使って、「あなたは私を信頼できる。私はあなたと同じ物語を信じているからだ」と合図する。『ホモ・デウス』上巻pp.178-179

高度な科学技術を手にした私たちも、それをどう使うか、どう使うべきか、どう使うのは善いことでどう使うのが悪いことなのかを区別しようとするときに、何らかの「想像上の秩序」に適うかどうかで判断を下そうとする。

こういう話になると、人類にとって普遍的な価値というものがあり、それは単なる「想像上の」ものなどではない、という反論が出てくる。しかしそれに対してもハラリ氏は次のように応じる。

人々が「想像上の秩序」という概念を理解するのに手を焼くのは、現実には客観的現実主観的現実二種類しかないと思いこんでいるからだ。[…]ところが、第三のレベルがある。共同主観的レベルだ。共同主観的なるものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。歴史における極めて重要な因子の多くは、共同主観的なものだ。『ホモ・デウス』上巻pp.179-180

この共同主観的なものとしての「虚構」を意識的に思考しようとすると、いくつかの根本的な難問が絡まり合って浮かび上がる。

1.共同主観性がどのようなシンボル伝承システムによって再生産されているのか?

2.特定のシンボルの体系としての信仰がどのようにして新しく生まれたひとりひとりの人間に書き込まれていくのか

3.個人はいかにして与えられた信号を象徴の相、象徴の変容過程へとずらし、共同主観性のレベルの永遠の再創造に束の間参加できるようになるのか?

意味は一義的な信号の体系であると同時に、変容する象徴たちの運動でもある。

意味は、大勢の人が共通の物語のネットワークを織り上げたときに生み出される。[…]特定の行動は、なぜ有意義に思えるのか? それは、親もそれが有意義だと考えているし、兄弟や近所の人、近くの町の人々、さらには遠い異国の住人までそう考えているからだ。[…]人々は絶えずお互いの信念を強化しており、それが無限ループとなって果てしなく続く。互いに確認し合うごとに、意味のウェブや強固になり、他の誰もが信じていることを自分も信じる以外、ほとんど選択肢がなくなる。『ホモ・デウス』上巻p.182

日常的で制度的、常識的な信号的意味の世界に生まれ、そこで意味を織りなす記号の体系の材料を与えられたとして、今度はその意識の表層から、深層意識における象徴のうごめきにまで降りてき、そしてまた上昇し、意識の表層で、論理的な言葉を繰り出しつつ、新たな想像の可能性を試し、共同主観性を新たにし続ける。

これこそがAIがまだ未踏のサピエンスの精髄とも言える境地なのである。

実際、共同主観性のレベルは変容を続けてきた

歴史はこのように展開していく。人々は意味のウェブを織り成し、心の底からそれを信じるが、遅かれ早かれそのウェブはほどけ、後から振り返れば、いったいどうしてそんなことを真に受ける人がいたのか理解できなくなる。『ホモ・デウス』上巻p.186

記号交換ネットワークのデザインと、意味の再生産あるいは新創造

ハラリ氏は虚構には、言葉には「現実」を新しく作り出す力があると書いている。

サピエンスは言語を使って完全に新しい現実を生み出す。『ホモ・デウス』上巻p.187

言語を使って、新しい現実を生み出す。

人文科学は共同主観的なものの決定的な重要性を強調する。そうしたものはホルモンやニューロンに還元することはできない。上巻p.188

共同主観性のレベルを再生産したり、新たに創造したりするために、どのような記号の保存、伝送、接続の技術が必要なのか。創造的コミュニケーションを支援するメディア技術のあるべき姿をいかに構想できるか?

イデオロギー上の虚構がDNA鎖を書き換え、政治的関心や経済的関心が気候を再設計し、山や川からなる地理的空間がサイバースペースに取って代わられるだろう。人間の虚構が遺伝子コードや電子コードに翻訳されるについれて、共同主観的現実は客観的現実を呑み込み、生物学は歴史学と一体化する。そのため、二一世紀には虚構は気まぐれな小惑星や自然選択をも凌ぎ、地球上で最も強大な力となり書けない。したがって、もし自分たちの将来を知りたければ、ゲノムを解析したり、計算を行ったりするだけでは、とても十分とは言えない。私たちには、この世界に意味を与えている虚構を読み解くことも、絶対に必要なのだ。上巻p.189

私たちはどの未来を選択するか、考え、決定し、適宜軌道修正をしなければならない。これは意識をもつ私たちがAIにアウトソースすることなく、あくまでも自分たち自身で行わねばならない課題である。

ただし、私たち人間はただ生まれて、育ってきたというだけでは、考え、決定し、行動し、その帰結を冷静に観察し、軌道修正する力を持たない。

感情と向き合い思考し行動する力を養うには特別な訓練、修行が必要であるし、知識すなわち世界への眼差しを構造化する概念の体系を意識的にオペレートできるようにならなければならない。

東洋哲学

ハラリ氏は感情を薬物でデザインしようという傾向、快感を永続させておこうとする傾向と、東洋哲学の考え方を対比する。

大乗仏教など東洋の哲学は、苦楽の感情を含めて人間の意識に浮かび上がるものたちをであると考える。そうして幻が立ち現れる場を凝視し、幻に惑わされない意識、深層と表層を自在に往還できる意識を養なおうとする

ここしばらく読んでいる中沢新一氏の『レンマ学』はそういう意識の柔軟で動的な姿を概念化しようとした試みである。

『ホモ・デウス』でハラリ氏が呼びかけていることは、次の一点に収斂する。

 「未来を想像し直せるようにすること」

未来を想像し直せるようにすること。それは誰かがどこかで想像した出来合いの虚構を受け入れて、リピートすることではない。

想像を「し直す」ことは、誰でもいつでも簡単にできることではない。

私たちはそれぞれの生きる社会の中で、予め流通する記号を材料として、他の人がやっているのと同じようなやり方で記号を組み合わせて「想像」をしている。想像をし直せるようになるためには、想像の材料となる記号の体系をメタレベルから眺め、その組み合わせ方を計画的に組み替えるという、エレガントな仕事を経る必要がある。

想像の可能性を拡張しようとする時、その鍵のひとつは人類の歩みの歴史を学ぶことであると、ハラリ氏は考える。

歴史から学ぶために

歴史を学ぶというのは、単に記録された事実の列挙をたどるということではない。

歴史というのは、現在に伝え残された「過去」のかすかな断片を材料にして、互いに対立する概念同士の関係構造を観測用の枠組みとして、現在を生きる私達ひとりひとりが作り上げる「認識」である。

「作り上げる」というと、好き勝手にやりたい放題するという意味に受け取られるかもしれないが、そういうことではない。

認識は確かな材料と、精密に調整された観測装置を使った生産活動である。歴史の場合、その材料は過去の記録であったり遺物であったりする。そしてその観測装置は体系化された概念群の関係構造である

すぐれた観測装置は、過去の断片たちの間に、失われた関係構造を再発見するそうした観測装置はまだ見ぬ未来をシミュレートし、構想する思考も可能にする

おわり

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