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鼓のリズムから生じる波紋としての意味分節構造 -中沢新一著『精霊の王』を精読する(5)

中沢新一氏の著書『精霊の王』を精読する連続note。その第六章「後戸に立つ食人王」を読む。

(前回はこちらですが、前回を読んでいなくても大丈夫です)

後戸というのは聞き慣れない言葉かもしれない。また食人王、人を食べる王、などというのもどうにも不気味な感じのする言葉である。

こういう謎めいた、時に不気味な言葉で新たな意味分節を試みることが、既成の思考のプロセスを織り成している言葉たちの分節体系を開いたり閉じたりしながら組み直す契機になる。

まず後戸である。仏教寺院のお堂で仏像が安置されている様子を思い出していただくとちょうどいい。そのメインの仏様の「背後」にある空間のことを後戸という。その後戸の空間に、メインの仏様とは別の神仏が祀られていることがある。

『精霊の王』第六章「後戸に立つ食人王」は、天台宗の阿弥陀仏のお堂が、その後戸の空間に「摩多羅神」を祀る話から始まる。

なぜここで摩多羅神の話になるかといえば、この摩多羅神は他でもない本書の主役である「宿神」と同体であると考えられていたからである。

『精霊の王』のこれまでの話で宿神蹴鞠の精として出現したり、能楽における「」として現れたりした。そして諏訪の信仰の中核となっている「ミシャグチ」の神も宿神であり、さらには日本列島を飛び出してヨーロッパの古い伝承にある「胞衣をかぶって生まれた子供」というモチーフも、宿神とよく似た性格の精霊であると論じられてきた。

そしてこの第六章では、仏教のお寺の後戸の空間に祀られた神もまた宿神と同体であるという話になる。

ほんとうに実にさまざまな精霊や神たちが宿神と同体だというのは不思議な話である(これについてはこちらのnoteにも詳しく書いているのでご参考にどうぞ)。

精霊の王は、変換を引き起こす超-空間

名前や姿は異なる。しかし、同じである。これはつまり、単純に名前が似ているとか姿形が同じようだとかいうことではない。同じなのは時と場合に応じて様々な名で呼ばれ、様々な姿形でイメージされる「それ」らが配置された空間構造(中沢氏が用いている言葉ではトポロジー)である。

宿神、ミシャグチ、翁、赤ずきんちゃんなどなどと呼ばれる「精霊の王」は、何かの名札を貼り付けられてどこかに据えられた事物ではない。精霊の王はそれ自体が動的な変換プロセスにある空間構造なのである。

では、どういう空間構造なのか?

詳細は次章「『明宿集』の深淵」で、折口信夫が沖縄探訪を通じて捉えた「ニライ」の空間の話として解説されているが、そちらの詳しい話はまた別の機会に書くとして、ポイントを先取りしておく。

精霊の王の超-空間構造 は、即ち、二つの領域からなる一つの空間である。それはまさに、仏様が安置されたお堂の一つの空間が、メインの仏様の像が顕現している前面の領域と、その背後の「後戸」の領域に分かれている構造である。

一つの空間の二つの領域。

一方は私たち人間がその感覚器官や知覚のメカニズムでもって経験できる色と形の世界、互いに他とは違ったものとして区別される事物が並んだ世界である。これを表層の世界と言っても良い。

それに対して他方は、そうした色と形の差異として経験できる事物の世界をそのようなものとして現れさせている(顕現させている)根本の領域である。そこは井筒俊彦氏風に言えば分節以前、無分節の一者でありながらそこに無数の分節化・差異化への傾向を充満させた領域、ということになろう。これを世界の深層と言っても良い。

私たちが日常慣れ親しんでいる色と形を持ったさまざまな事物が安定的に配列されたものとしての世界は、それそのものとして単立しているわけではなく、それはいつも常にその背後の、深層の、後戸の領域の分節化作用の産物として生まれ続け、生産され続けているのである。

私たちがこの生命の身体でもって感覚したり知覚したりできるさまざまな事物が互いに区別されて並んでいる世界というのは、そういう風に世界を分節「化」する作用、動き、プロセス、流れ、あるいは動詞の働きによって、そのように作られ、生み出されている。

そしてこの深層の無分節の領域に充満する分節化の傾向が、人類という生命体に特有なパターンの反復運動に切り詰められて走り始める(暴走し始める)ところを、アーラヤ織(言語アーラヤ織)と呼ぶのである。

後戸の領域では、対立関係にある二項が一つに接合されたり、切り分け直されたりする

ここで阿弥陀様の「後戸」の空間にあって、阿弥陀仏と阿弥陀仏を拝する人間との対面状況そのものを生み出し=分節化している摩多羅神は、食人、人間を食べる神(精霊)であるという話に戻ってくる。

なぜ阿弥陀様の背後に恐ろしいカニバリズムの神が必要なのか?

その理由は後戸の神こそが、阿弥陀様(の像あるいは概念)と人間とが互いに異なるものとして区別されつつ対面し向き合うフィールドを作り出して=分節化するからである。

後戸の空間=神は、分節以前でありながら同時に分節化の傾向を漲らせている

食べるということにおいては、捕食者と獲物、食べる者と食べられる物、食べる者としての人間と食べられるものとしての自然という、生命にとって根源的な区別・分節が、区別・分節されながら同時に一つに溶け合う。

食べる者の生命・身体は、食べられた物によって養われているのであり、そういう意味では食べる者=捕食者は、食べられた物=獲物その物であるが、しかし獲物そのものではない。

食べるという関係において、食べる者と食べられる物は厳然と区別分節される別々の事物でありながら、同時に一つの流れでもある。食べるという関係においては二であることが一であるということであり、一であることこそが二であるということになる(だから供養ということが重要になる)。

これがカニバリズムの神になると、いよいよ「人間」が「食べられる」のである。

しかも阿弥陀様の後戸の摩多羅神は「荼枳尼天」と同体であり、人間を食べるだけでなく、人間を産む作用も果たすという。

食べること と 生むこと
一つに融合すること と 二つに分離すること

後戸の神は、この区別、二つの相反する事柄を、一身に担う。

こうした結合作用と分離作用を同時に引き起こす神あるいは精霊は、人類の歴史において、極めて古くから重要視されてきたと中沢氏は書かれている。

「ダキニ天の持つ顕著な特徴といえば、飲血を好むカンニバルである点に求められる。そのために、密教の灌頂の儀式では、ダキニ天が大きな働きをする。その昔(多分新石器時代)、大地母神は人間のお母さんたちが産んだ子供をいったん自分の体内に飲み込み、食べ尽くした上で、大人として第二の誕生を与えていた。そこでこの大地母神の末裔であるダキニ天も、人のたましいが第二、第三の誕生を得るための灌頂の儀式に登場しては、重要な働きを行っていたのである。」(中沢新一『精霊の王』p.130)

人間の「誕生」は、バイオロジカルには一生に一度のことであるけれど、社会的かつ意味的には、何度か、何度も、反復される出来事である。

大地母神に一度食べられて生み直されるといった通過儀礼(イニシエーション)は、社会的、意味的に、子供の人格としては死に、大人の人格として新たに生まれるという大事件である。

私たち一人一人の人間は、特にその「自我」などとなると、それは周囲の環境や物や何より他の人々と全く無関係に単独孤独に単立存在しているものでは全くなくことごとく、周囲の事物、周囲の環境、周囲のたくさんの他の人々との「差異」の束として関係的に存在している

一人の自我が、他の人間との差異の束、集まりであるということ。

それはつまり、一人の自我がさまざまな他の人間と差異化されること、区別されること、分節化されることで、かろうじてようやくそれとしての姿形を現し保っているということに他ならない。

ここで差異化のやり方、区別の仕方、分節化による分節体系の組み方が変容すれば、自我なるものの姿形もまたガラリと変容・変身するのである。

カニバリズムの神としての精霊の王は、まさにこの一人一人の個人的自我の変容・変身を司る

例えば子供とその親といった人間関係の中で他と区別されることで区切り出されてきた一つの自我が、成長し、親の元を離れ、今度は大人同士の関係の中に入っていくということになった時、部族の若者は「通過儀礼」として、一度人喰いの神に「食べられ」、そして新たに大人の人格として再生される。ここで人喰いの神は「古い自我を食べ尽くして、人のたましいを新しい次元に解放する働きを行」うのであるが(中沢新一『精霊の王』p.133)、自我の組み替えということは、言い換えれば分節化のやり方の変更、分節体系の組み替えということでもある

私たち人類の「野生の思考」は、かつて世界中の至る所で、さまざまな部族において、カンニバルに象徴的に食べられるということを、子供から大人への通過儀礼としてきたのである。

その際、人間を食べる神の象徴として、実際にリアルに人間を襲って食べることもあった野生動物たちのイメージがブリコラージュして使われてきた。

「(カンニバルの象徴としての人喰いの動物は)人間を古いしがらみから解き放つために食べ、改めて出産を行ってくれるための、創造的なカンニバルの行為をおこなう」(中沢新一『精霊の王』p.134)

宿神は、こういうカンニバル兼出産の神と「同じ」なのである。

これを言い換えると宿神は「転換」を司る神であり、「変身」を司る神なのだということになる。

転換、変身というのは、表面だけを見ればAがBになる、あるいはAが非Aになる、といった直線的なプロセスに見えるのだけれども、実はその深層では大規模な分節体系の組み替えが巻き起こっている。

現在 と 過去
現在 と 未来
人間 と 植物
人間 と 動物
生 と 死
生者 と 死者
人 と 神
子供 と 大人
有 と 空
煩悩 と 菩提(悟り)

このような私たちの表層の意識が互いに区別され、対立し、相容れないものだと思っている物事の二項対立ペアは、あくまでも人間の「心」において分節化され、その上澄たるアーラヤ織においてその区別を強度に反復されることで、そういう対立関係として生み出されている。

しかし一度、表層から深層へ、顕現の領域から後戸へと転じてみれば、そこには区別以前、分節以前の「一」が、強烈な分節化への傾向を含みつつしかしあくまでもまだ「一」のまま充満している。

そこでは、一が多へと常に転換し続けるとともに、多が一へと常に転換し続けている

この区別と結合、分節と統合の切り替え・転換の混沌とした激流に、ある反復的なパターンとしての「波紋」を浮かび上がらせるのが、摩多羅神がその手に持つという「鼓」のリズミカルな音なのであると中沢氏は書かれている。

そのリズムは人間の心臓のリズムでもあり、呼吸のリズムでもあり、つまり生命の脈動するリズムでもあり、その脈動の上で流れる中枢神経系の信号処理プロセスの"クロック"でもあり、声のリズムでもあり、それこそが「アーラヤ織」ということの一つの姿なのであろう。

続く

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