月は、紐を使わずにどうやって海を引っ張るのか? -カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている』とレンマの論理
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「月は、紐が無いのにどうやって海を引っ張っているんだ??」
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忙しい朝の保育園への登園の途上、不意に長男がこんなことを訊ねてきた。潮汐の話を、おそらく園で聞いたのだろう。
紐がないのに引っ張る。
月と海
月と地球
二つの物体が存在する。
二つの物体が引っ張り合う、綱引きする。
綱はどこに行った?
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子どもの質問だからと言って、子供扱いしてはならない。
いや、子供とか大人とか、そういうことを区別している場合ではない。
言葉による質問と応答は、全て深層意味論の実践編である。
などと口走りそうになるのを抑え、何事もなかったようにチャイルドシート付きの電動自転車を漕ぎながら、応じてみる。
・・・と喋り出したところで交差点は赤信号。
二人乗りチャイルドシート付き電動自転車の前席に座る下の子が「あーっ!亀がいるよー」というので、「そうだね、亀がいるね」と応じる。
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ちなみに、交差点に亀はいない。
季節は11月も末。真っ当な野生の亀なら冬眠している頃だろう。
歩道と車道の区別を示すために市役所か警察が設置したポールのようなもののてっぺんに、亀のような、メロンパンのような、模様がデザインされているのだ。下の子はこれをいつも「カメ」とよんで親しんでいる。
名前をつける。
分ける。
言葉にする。
言語的意味分節。
まるで亀のような。
まるで二つのボールのような。
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子供の世界は、深層意味論の世界である。深層意味論、あるいは「喩」の力。喩える、例える。ある何かを他の何かに喩える。
その時、互いに異なるものとして区別される二つの事柄が、二つでありながら、同時に「一つ」にくっ付く、くっ憑く。
異なるが、同じ。同じでありながら異。
二でありながら一。一でありながら二。
区別しながらも区別しない。区別しないけれども区別する。
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もちろん、大人の世界だって、深層意味論の世界なのだけれども。
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亀だけれども、亀ではない。
いるけれども、いない。
球体であるけれども、球体でない。
粒子であるけれども、粒子でない。
紐だけれども、紐でない。
結ばれているけれども、結ばれていない。
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二つのものが、紐で結ばれてもいないのに、引っ張り合う!
この二つのボールが紐で結ばれてもいないのに引っ張り合っているという「お話」。この話はニュートンの古典物理学のエレガントな体系を発生させる根源的なアルゴリズムである、万有引力の法則に紛れ込んだ謎めいた「遠隔作用」として物議を醸してきたという。野家啓一氏が次のように書かれている。
遠隔作用。
それは、手を触れずに物を動かす魔術師の念動、念力、超能力と同じではないのか?と。
しかし、地球と月は”引っ張りあって”いるからこそ、月は遠い宇宙に飛んでいってしまわない、と言える。巨大な海が月に引っ張られて、大きく天空へと持ち上がろうとしているし、衛星放送の人工衛星だって打ち上げた瞬間に無限の彼方へすっ飛んでいってしまったりしない。そうなるとやはり目に見えない「ひも」のようなもので、引っ張りあっていると言わざるを得ないような…
ある/ない
物体/非物体
目に見える/目に見えない
ひも/空隙
どう言えるか、どう言わざるを得ないか。
問題は、私たちがどういう言葉で言えるか、考えているか、である。
そういえば、言葉は分節することと喩えること、分けつつ繋ぐ運動であった。どういう言葉で、ということはつまり、どういう分節で、どういう比喩で、どういう分け方とつなぎ方で、ということである。
私たち人間という生命による意味分節は、言いようもないほど複雑な相互作用の波と渦の中に完全に一体化しながら、その中で、区別しなかったり区別したりする運動を気まぐれに反復する。この反復運動自体が複数で、多重で、相互に絡まり合っている。そういうところで私たちの感覚印象にはさまざまな”外界の現象なるもの”が立ち現れるし、それらは瞬時にあれやこれやの他の印象や記憶に"喩え-憑け"られて、言語的意味分節システムの"内部"に"写像"される。
もちろん、ここでいう外界とか、立ち現れるとか、内部とか、写像とかいうのは、全て仮名である。
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カルロ・ロヴェッリ氏の『世界は「関係」でできている』の冒頭に次にようにある。
均質均一な空間の中に、天体でも、電子も、何かの粒状のものたちが最小単位としてまずあって、それらが規則的に円やその他の曲線を描いで動き回っている、と考えること。その上で、この動き方の規則性がわかれば任意の時間、遠い未来を含めた任意の時間における粒たちの配置を正確に計算できる(はずだろう)、と考えるのが量子論以前の世界像であった。白い紙の上にコンパスで描かれたいくつもの円たちの世界である。
これに対して量子論は、均質均一な空間に、最小単位となる粒子が予め与えられていることと、その粒子の運動パターンが予め決定済みであること、という二つの前提をひっくり返したのである。
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しかし、前提をひっくり返したところで、「ではこの世界をどう捉えたら良いのか」を教えてはくれない。
量子論が教えてくれることは「不思議なことに、遠く離れた対象物は互いに結びついているらしい」こと、さらには物質は「ぼんやりとした確率の波に置き換えられる」こと、などますます人間を煙に巻くようなことばかりである(カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている』p.10)。
これに対して、ロヴェッリ氏は次にように書く。
現実は「対象物」ではなく「関係」からなっている。
対象物、粒子、もの、わたしたち人間が「ある」と感覚知覚できるものがまずあって、それらが後から結ばれたり分かれたりして関係を結ぶのではなく、まず「関係」があって、その関係の中に、後から「もの」が、「もの」同士の区別がゆらゆらと浮かんでくると考える。
前者の「もの」をまずあると考える立場は実体論と呼ばれ、後者の「関係」を一番に考える立場は関係論と呼ばれる。
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『世界は「関係」でできている』でロヴェッリ氏はボーア、パウリ、ハイゼンベルク、そしてエルンスト・マッハからプランク、アインシュタイン、シュレディンガーと、20世紀の物理学に生じた「対象物」から「関係」への理論の組み替えを辿った上で、次にように書く。
重要なのは実体ではなく、実体なるものがあると仮定した上でそれについて予測する情報である。
情報は「観察」によって作られる。
観察のやり方次第で情報は変化する。
そして何を隠そうここにサラリと書かれている「観察」という何気ない言葉が、実体を予め要求しない関係論的な「関係」そのもののことなのである。
即ち、観察することは、感覚印象に置き換えることであり、記号の体系に置き換えることであり、要するに広義の”言語”に「喩える」ことである。つまり観察は二を一にしつつ、一を二にする営みの一種ということになる。
ここでロヴェッリ氏は面白いことを書かれている。
観察すること、研究することは、置き換えること、変換することの一種である。レヴィ=ストロース氏は『神話論理』において、神話は「変換」のシステムであり、「神話」を研究することはその営み自体がある変換の実践であり、つまり一つの神話なのであると言ったことを書かれている。
観察する、研究する、分析する。
観察者が観察するのではない。観察することが、二次的に観察者と観察対象を分節する。
これらの動詞は、どうしてもそこにそれらのことを「する」「なす」主語、主体、つまり観察者の存在を前提として呼び込んでしまうリスクを抱えている。この観察者ということを実体論的に置いてしまうと、それはすぐに全宇宙を一望の下に収める全てを超越した観察者という概念へと転がり込んでしまう
情報を変化させる「観察」ということは、主語を持たない、主体を持たない、観察者を持たない、何事かであり、今ここではそのコトを仮に「関係」と言い換えるのである。
ロヴェッリ氏は章を切り替えてさらに続ける。ここがこの本のおもしろいところであり、難しいところである。
対象物という実体(光子でも、猫でも、惑星でも、銀河団でも)と、観察者という実体(人間でも、物理学者でも、神様でも)が、それぞれ別々にもともとまずあって、観察者が行う「観察」という何か特別な営みによって、両者の間に何かが起こるのではない!
○ →→→ ○ から ○-○ が生じる。のではなない。
対象物でも観察者でも、あまねく「実体」と思われがちなものたちは「おのおのが尊大な孤独の中に佇んでいるわけではない」ことにロヴェッリ氏は注意を促す(カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている』p.84)。
話は全く逆で、「観察者」も含めて実体と思われるあれこれは全て「むしろ逆に、ただひたすらに互いに影響を及ぼし合っている」のである(カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている』p.84)。
「尊大」に孤立無縁に独立自尊する実体たちがまずあって、それらが後から、あってもなくても構わないようなオマケ的な感じで関わったり関わらなかったりするのではない。
しばしば「実体」と錯視されがちな諸々の存在するものたちは、最初から最後まで、というか永遠に、互いに不可分に網の中にある。というか網そのものである。この網は止まってはおらず動いており、均質ではなく差異化しつつづけている。網が動くことで、縺れ絡まり合う網の結び目のようなものとして、あれやこれやの存在は「立ち現れ」ては、消えていくが、網そのものはここの結び目がどうであれ、動き続けている。
対象物は関係の網の目の結び目。
対象物よりも先に、関係がある。
まさに、インドラの網、華厳法界である。
こうした実体を関係に置き換える認識のために、ロヴェッリ氏は私たちが「現実を理解するために用いている」「文法」を変化させる必要がある、と書く。
文法は、すなわち意味分節システムが、分けたり繋いだりするときの規則である。
意味分節システムは権利上はあらゆることを自在に分けられるし、あらゆることを自在に繋ぐことができるけれども、あいにく人間が生きていくための日常の現実を共同的に作り出している集合的-表層意識においては、ガチガチのコード、規則、ルール、反抗を厳しく罰する命令のような姿をしている。そこには正しい文法と、正しくない文法(もはや文法とさえ呼ばれないもの)が区別分節される。
そういう「文法」を動かすことができるかどうかが、問われる。
最後のくだりが印象的である。
一つの存在は、一つであり、どれでもなく、一千万。
なんと、一即多、多即一、非同非異の話になっている。
そしてそして、この非同非異のような、素朴実在論的には”矛盾”したことを言ったり書いたり、理解したりできるようになるためにこそ、私たちは自分の言葉、その「文法」を変えなければならないとロヴェッリ氏は書いているのである。
ここでロヴェッリ氏はそのような文法の可能性として、ナーガルジュナ(龍樹)による「四句否定」、つまり「レンマ」の論理に言及するのである!
レンマの論理とは何か?
前に下記の記事で詳しく書いていますので、ご興味ある方は参考にどうぞ。
レンマの論理に基づく記述こそが、所与の二項を前提とせずに、それていてなお二項対立関係の発生と、その重ね合わせと変容を人類が思考することを可能にする。
ロヴェッリ氏はこのレンマの論理のようなものに、科学というか、人類の知性の可能性を見る。
レンマの論理は、異なるが同じ、同じだが異なる、一でありながら二、二でありながら一という、言語、文法、意味分節システムを発生させる根本的なアルゴリズムである。これを巧みに操り「事事無礙、理理無礙」な記述や、観察や、研究や、言語化の可能性を仮設し続けることこそが、人類の言語的知性の真骨頂ということになる。
長くなってきたので、この辺りでおしまいにする。
ロヴェッリ氏の『世界は「関係」でできている』。引き続き読んでみよう。
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ちなみに、何かが何かを引っ張るというのであれば、亀も月を引っ張っていると言える。二人の子供達は異なる話をしているようで、同じ話をしていたのである。しかし、同じだけれども、もちろん異なっている。
参考
素朴実在論を超えた関係論の「分節するということ」を、それそれ自体が分節システムである言語によって「記述」した試みとして、人類史上頂点に達しつつあるものはこちらの本であろうと考えます。
これを日本語で読めるというのはたいへんなことだと思うのであります。
関連note
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