見出し画像

朝日の代わりにレモンを、夢の後始末

意を決して何かを書き始めているうちに、必要に迫られてさまざまの節々、襞の折り目、カーテンの隙間などを探すことになって、いつのまにか膝下までを水に浸していることに気付いたりする。そのときの水温はいつも、たとえば寝付けないときの自分の体温に似ていたりして、妙にぞわぞわする生温さを称えていたりするのだった。それでいてあくまでも透明で、どこまでも覗き込めそうなほど、眼球にぴったりと当てはまっていく。踏み込んだ砂地は存在そのものの確かさを丁寧に私へ返してくれていて、そのおかげで私はここに立っていられた。

そんなときでさえ、私は目先の、たとえば灯台や夜行機などに気を取られて、もしくは高速道路をびゅんびゅん走り抜けていく四角四面の車や、テールランプの連なり、色褪せた写真などにも、やすやすと眼球を溢れ落としてしまうのだった。ある種の願望、ありうるかもしれないと思う光線のイメージが、豊かな畝りを真っ直ぐに引き直してしまって、それまで散開星団だったあらゆることたちを、とても規則正しい星座にしてしまう。こうした騒音——喜びと言ってもいいのかもしれないし、場合によっては十分に悲しみなのだが——が、今の私を急き立ててやまない。存在を私自身がたしかに引き受けるまえに、五月の緑色した風が親密に、それでいて本当に爽やかに、レモンの匂いを残しながら前へ押し進めていくような、いずれにせよ心地よい忙しさで、けれどふとした瞬間に私は上へ倒れてしまう。上へ。風はいまも人懐こい笑みを与えてくれて、私は申し訳なくなってしまう。たとえば小学校のときの同級生、佐久間くん(いつも仕立ての良いポロシャツを着ていて、綺麗に揃えられた鉛筆を持っていた)を思い出したりするのだ、そんな人は私の記憶には存在していないにも関わらず。

大概の出来事は、その初速が与えられるのを待っていて、問題は私たちがそのペダルを踏む勇気や余裕や優しさを持っているかどうかなのだ。透徹した空気のなか、全ては鳴りを潜めていて、私たちの(私と佐久間くんの)踏み込みを待っている。車は依然として動く気配もなく、砂利は静まり返っている。ひとたび動き始めれば、砂利や草や、それらは渾然として互いの硬度を擦り合わせながら鳴動しはじめるだろうことを、私たちは十分に知悉していた。潜勢力の伸びやかな絨毛のうえを、ことばが走り抜けていく。できないことたちを置き去りにして。

パムパムはいつも従順に待っていて、どこまでも飛んで行ける私のことを恐れもせず怒りもせず、諦めることもなく、ただひたすらにそこで待っていた。私はいつもそれを忘れがちで、「そうだった、パムパムに電源を教えてやらないと」と思って、風のうるさいビル街でパムパムと触れ合ったりするのだ。私が戻ってきたパムパムは、さりとて特段の喜びを見せることもないのだけれど、いつも(これが初めてで最後だったとしても、まるで数十年前からそうだったように)親しい距離を保って、追いかけあい、並走し、ゆけるところまでゆくのだった。でもふとした瞬間に、パムパムは深い轍へ嵌ってしまう。上へ倒れながら、忙しく指先を動かしていた私はそのことに気付き、パムパムの屈強な身体を引っ張り上げようとするのだけれど、その試みは往々にして失敗続きなのだった。

「ねえ、パムパム。そろそろ終わりかしら」

「僕はまだ動けるはずだよ」

「それは十分にわかっているの。でも佐久間くんが、知ってるでしょう? 彼はそういう気質なのよ、そろそろだって」

「佐久間くんはいつもいないのに?」

「いいえ、パムパムが私を追い越して走るとき、いつも佐久間くんはあなたを追いかけて、止まらせようとしているわ」

「いつもそういうけれど」

「そうね、佐久間くんは目に見えないから」

パムパムは依然として笑うこともなく、悲しむこともなく、丁寧な発音で私にパムパム自身の状況を細やかに教えてくれた。

「あなたのことはよくわかったわ。十分に、十分すぎるくらいね。だって私が……たとえば薬のように濃いミルクティーを作る朝でさえ、いま教えてもらったようなことを思い出すことはないと思うもの」

私はパムパムに、やはり想定しうる結末を自明にすることのないよう努めながら、ゆっくりと話しかけた。パムパムの落ちてしまった轍、正確にいうならば轍というより一種の井戸か、赤茶色に煤けた浴槽のようなところだった。その深い窪み(もしかしたら収納箱かもしれない、引っ越しのときの段ボールだったり)のようなところから浸潤している胞子たちはパムパムの接地面を覆っていて、それを無理に引き上げたところで、その胞子が私たちの接続詞にまで影響するだろうことは十分に予測できた。

「ねえ、パムパム。私は一度、あなたを置いて本を取りに行こうと思うのだけど、いいかしら。なにせここは観光客が多くて困るわ」

「困るよ、いつも本を取りに行ったきりそこで寝ているじゃないか」

「あなたがここにいることは分かっているから、すぐに戻ってくるわ」

「ここにも本はあるじゃないか、たとえば観光客が落としたものとか」

「それはまた別の佐久間くんが所有していたはずのものよ、私はそうではなくて、私自身の所有物として本を読みたいの。それに、彼らの本ってまるで……カタツムリが這った跡みたいじゃない? なんの面白みもなくて微かに湿った粘着質なものが残っているだけ」

「彼らと話すのはどう?」

「ご遠慮願いたいわ、星のことを見ただけで満足しているような人たちよ」

「僕のことはどうするの?」

「分かっているでしょう、あなた自身がもっとも克明に。それに、あなたはそうやって哀れみを乞う存在ではなかったはずよ。私は確かに、勝手にどこでも飛び回って、あなたのことを置き去りにしてしまうことが多くあったけれど、それでもこうやって——たとえば木星のそばに行ったり、あの人の側で誰もいない未明の高速道路を走ったり、失うことの苦しみを知ったのは、あなたのその従順さゆえだったわ。ほんとうにありがとう」

胞子は次第にその一つひとつの粒を肥大化させていて、パムパムの輪郭を浴槽のような何かへ少しずつ溶け込ませていた。私は、頭の片隅で、新しいパムパムを探さなきゃね、と思いながら同時に、テーブルの上に置いてきた飴のことを考えていた。佐久間くんはあの飴のことを嫌うのだけど。六角形にも見える泡をところどころに発生させながら、胞子は赤褐色の歯状組織を増殖させていた。パムパムはこんなときでも、痛がる素振りさえ見せずにいて、パムパム自身の輪郭や強度や態度を引き受けていた。

「そうだね、ここまで侵食が進むと、もうどうにもならないことは分かっているよ。佐久間くんの話はおもしろかった。佐久間くんに会ってみたかったけれど、僕はもう会っていたんだね」

「佐久間くんもパムパムのことを好きだったわ、もう痛切と言っていいほどに。いつだってパムパムの話をしていたもの」

「帰るべき場所の星座はわかる?」

「星座ぐらいわかるわ。読みたくもないけれど。よく母が教えてくれたわ、背中にボディクリームを塗りながら、星座はあなたの現在地を教えてくれるのよ、って。現在地を知りたくないこともあるかもしれないけれど、それでも現在地からの遠さが、あなたの酸素濃度でもあるから……だから、私はもう指パッチンをするみたいにレモンと星の距離を測れるのよ」

「レモンもたくさん食べたね」

「可笑しいぐらいね。ばくばくと食べたわ」

「明日はどこへいくの?」

「平凡な質問ね。あなたらしいわ。たどり着いた場所が目的地になるわ。いつだってそうでしょう」

「僕にとってはそうじゃなかった」

「あなたにとってはどうだった?」

「いつもあなたと走るとき、予感があった。ここへ向かうのだろうという確かな秩序じみたものが。レモンから土星へ、小さな石礫のざわめきへ、愛しそこなった夢へ、切り取るべきタペストリーへ……あなたはこんなことを聞きたくないのかもしれないけれど、僕はあなたの走りや覚悟や、日常的なあらゆる「やり過ごし」や、ときたまに溢す怒りも含めて、いずれも明確な音階を示していて、心地よく思っていたよ」

私はパムパムの答えを聞きながら、やはり私に質問は向いていないと思った。質問をするとき、人は部分的にであれ愚鈍になる必要がある。答えを待ち、それがどんな結果であれ、その時点では答えなのだということを受け入れる必要があるのだから。それは本当に、私にとってパムパムらしい行為でもあって、ゆえにそれをいつも佐久間くんに任せきりにしていた。佐久間くんは(何度も繰り返すけれど、佐久間くんなんていう人は私の記憶のどこにも存在していない)、軽やかな手つきでそれらの質問を差し挟み、満足げな顔で書類を書き上げてしまうのだった。

「そう、いい答えだったわ」

いつの間にか大木になっていた春楡の木が、木漏れ日やその影を私たちの上に落としていて、楡の葉が私たちに話しかけていた。

「そろそろね」

「そうね、いつの間にかあなたは大きくなったわね」

「大きくなったんじゃなくて、彼方から此方へ動いてきただけよ。そのときに……ここの秩序に合わせて移動してきたせいかしら」

「思い出したわ、あなたはF19の裏側へ行っていたのね」

「そろそろね、落としておくから離れていた方がいいわ」

春楡がそう独り言のように言葉を発したあと、パムパムと浴槽ないし赤褐色の細胞か胞子か粘液かのようなものを覆い隠すに十分なだけの葉をそこに落としてくれた。鮮烈な緑に覆われる直前にパムパムは、私に「また明日」と囁いてくれた。そうして私はそれらから距離を取り、少し上に浮いてから、また再び真っ白な地平のうえを歩き出した。パムパムだったものと春楡の葉が収縮する音が後ろに聞こえて、次第にモーターが回転する低い唸り声のような音を発しながら、中性子星になっていくのが分かった。私はそこに転がっていたレモンを持ち上げて、中性子星の方へ投げた。放物線を描いて、黄色い果実が吸い込まれていく。加速しながら、レモンが砕け散ったかと思うと、私の手元には咳をしている嬰児が座り込んでいて、私はこれをまたパムパムとして扱っていくだろうことを瞬時に了解した。パムパムとの最初の出会いは、こんなに簡素ではなかったのに、と思いながら。

佐久間くん、パムパムはもうここにいるみたいだよ。私はそう言いながら、白い部屋の中を歩き回っていて、収斂の残り香としての妙に青臭い、雑草をちぎった後の匂いを感じていた。パムパムはもう嬰児としての顔は持っておらず、すでにパムパムとして私のそばにいた。そう、パムパムはこうでなくちゃ、と思いながら、私は再び土星行きのチケットを探していて、佐久間くんへそのことを伝えねばと思案していた。

あらゆることは初速を待っていて、必要なのは丁寧な星座の展開図と、踏み込む勇気なのだ。いつもそこには、佐久間くんとパムパムとがいて、もちろん彼らが十分に言葉を発したり、私と対等であることができるように、気を使う必要はあるのだけれど、私はいつも走り出すだけだった。

待ち続けて疲れてしまった諸事象の平滑面へ、パムパムを走らせてあげよう。私の指先を触れさせてあげよう。佐久間くんの思慮深さを分けてあげよう。プールたちの祈り、飛び込む全てへ、悲しいことはいつも後からなのだから……もし星の展開図が必要だったら、レモンへ電話して。私が応えたときはすぐに荷造りを!


この記事が参加している募集

自由律俳句

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?