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あまb-いにおu-いやr-まいy-(埋sweet-smell-disease葬)

ときめく、揺蕩う、立ち止まる、離れる。素直に書こう。

ときならずとも

対象にたいして、ずっとときめき続けるというのは、想像以上にエネルギーを費やす行為だと思う。ときめく、という言葉を使わないとしても、例えば「向き合う」とか「興味を持つ」とか「愛する」とか。

その意味では、会話という行為は「あなたに対していつもときめき直すこと」なのだと思う。あなたが次の瞬間に何を語るのか、唇の動きの奥底にあるささやかな憐憫や逡巡や邂逅や後悔や、あまたある感情の破片を知り、ふと現れるその一片に対して自らを開き、あなたと私の間の接続詞をいつも確認し直すのだ。

だから、話すという行為はとても軽やかに「ときめく」「ときめき続ける」ことなのだと思う。いつも私は誰かと話したいと思っているし。

ただ、同時にこんな感情も込み上げてくる、「ほんとうにあなたに対して私はこの言葉を傾けるべきなのだろうか」と。あるいは「私はほんとうにあなたに対して語る資格を持っているのか」と。

コミュニケーションは根源的に、平等ではあり得ない。どちらかが話すときはどちらかは聞いていなければいけないし、聞いている時はどちらかが話さなければならない。均衡が破れれば、沈黙が訪れることとなる。コミュニケーションは50:50ではなく、100:0と0:100の繰り返しなのだと思う。その極端な往復を何度も何度も繰り返していくうちに、ややあってあなたと私の間で、50:50に近しい瞬間が訪れたりする。けれど…

あっ、そういえば……その瞬間に……49:51になり、言葉がこぼれた瞬間にシーソーゲームは始まり、意味が開かれ、解釈が渦巻き、時間が二人を隔てる。ところで……。

研究対象とのコミュニケーションで、私はいつも聞いてばかりいる。あるいは向こうからひたすらによく分からない槍を何度も刺されたりする。攻撃を受けたり、冒涜しあったり、気付きあったり。

やがて疲れ果てて、こんなところにはいられない、と思う。歩き始めて、止まっていた水道をあけて、皿を洗ったりしながら、生活を繰り返し、ため息をついたり、ハッと思い出したり、夢を見たり、そうしていつの間にか、またテクストに向き合う。

テクストからはみ出た着火線が錯綜して、小さな爆発を作ったり、くぼみを作ったり、段差を作ったりする。それに従ったり反抗したりしながら、テクストの外で…研究室の外で…、運動を始めるようになる。時間とお金と、あるいは名誉や社会的地位や、雑多な幾つもの断片が起動され、私は次第に切れ味の良いナイフのようになる。

やがて肩書きが出来上がったり、名前が強固になったり、名付けられたり、名指されたりするようになる。いつの間にか風がびゅうびゅうと吹き荒んでいて、立っていられないほど向かい風が吹いたり追い風が私の背中を押したりする。あるときは誰かの褒め言葉がそれになり、あるときは自分自身の奥底から叫ばれる唾棄の声だったりする。そうして積み上げられた装置は映写機になり、作品になり、展示になり、仕事になり、お金になり、夢になり、また再び映写機になる。

そうしてテクストの本来の声は消尽して、私はテクストの亡霊を追いながら、その先に見つけた不確かな粘土をずっと弄んでいる。と思えば、その粘土が私の背後にまわり、執拗に苛むようにもなった。「今ここでやめてどうするんだ?」その声はいつもこう言っていて、私はこう答える、「もう少し走ったら休憩するよ」。

休憩しているそのときにテクストに戻ってみれば、目はもう忙しさに慣れて、行間を平気で読み飛ばす。読み飛ばされたテクストはとても従順で、私の教えによく従う。かつてあった激しい戦争は鳴りを潜めて、テクストと私とはぴったりするすると……風に乗って……再び粘土を成形するようになる。こんなはずじゃなかった、と思いながら、尊大な「自己実現」というフレーズとともに私は戦闘機に乗り、荒れ狂う海と大地の往還運動をまた始めることになるのだ、いつも。

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気がついてみれば、私は戦闘機のなかで寝食を繰り返していた。サン=テグジュペリよろしく、鉛のような雲から一瞬抜け出しては、眼下に広がる営みの光をよすがとして、微かな希望で食い繋いでいた。

それが理論と実践のいびつな贈与論なのだと思いながら、この夜をおのれの領土と思い、そこで何を切り分けるのかを考えていた。ミクロ政治の問題。そこで記号化作用のエンジンたる顔を作り直し、新たな領土を形成しようとしていた。きっとこの試みも、どこかで薄い膜を作ることはできるだろうと思う。ただやはり、その議論はいつまで経っても空中戦で、地上に居城をなしている議論の壮大なシンフォニーがひとたび胴をつけば、戦闘機もろとも雲は霧散し、清々しい朝が到来するのだ。

ただやはり、例えばそう、誰かと飲み明かして、薄明のなかを帰路につくあの朝を。清々しい朝ではあるけれど、その清々しさは結局のところ、私が忌み嫌っている「専制君主」によるものなのだと思う。

祭りのあと、例えばそう、まさに。勇敢な儀式の後で、肉体に残った疲弊を確認しながら、踏みしだかれた瓶や缶を認める朝。東の空が白みゆくなかにのぼるタバコの煙。

その清々しさを知りながら、私はそれを認めたいと思わない。人生における大切なことがシンプルだとして、そのシンプルさを大切にしようとは思わないのだ。

きっとその外で、例えば戦からの帰りを待つ子供や、クリスマスの夜にサンタクロースの到来を待ちながら眠りにつくあの恍惚と猜疑とに満ちた甘い夜を。すべてどうにもならないと知っていて、それでも信じ続けることの勇気を。

そう気付いてから、戦闘機のエンジンはその唸りを潜めて、軽やかに曇天のなかを滑るようになった。依然として食糧はつき、時間は足りないのだが。

枝と茎の違い

素朴な、という言葉を思い出す。しばらく休息をとって、カーテンが揺れる清潔な朝の後に。素朴に向き合うということ。思えば私たちの翼はもうかなり強靭で、飛び立とうと思えばどこにでもゆけるのだった。だからこそその翼の微かな鳴動を知りつつ、どこにも飛び立たず、目の前で震えている作品を知り尽くすことが急務なのだと思う。

次々にこぼれようとする言葉を堰き止めて、今ここで知り尽くそうとしているそれが、次に何を私に衝撃として与えうるのか/与えたのか/与えていないのか。そして私は何をどう受け止めうるのか/受け止めたのか/受け止めていないのか。

それは距離の問題だと思う。対象との距離において、付かず離れずの適切な齟齬を噛み締めること。太陽と地球のようなものかもしれない。互いに回り合う螺旋構造において、それでも前に進むためにはやはり、影響し合いつつ/し合わない、優しい裏切りが必要だ。

えっとね

「明日は?」

「そろそろかな」

「ヤドカリの背中って知ってる?」

「ヤドカリの背中?」

「そう、ヤドカリの背中」

「どこを背中として定義するかによるんじゃない? 解剖学的にというか。何も知らないけど。そもそも分類学的になんだろう、ヤドカリって。げっ歯類?」

「そうじゃなくて、ヤドカリの背中」

「ゆっくり話しても一緒だよ」

「本当に一緒だと思ってる?」

「や、ど、か、り、の、せ、な、か。一緒でしょう、どう考えても」

「つまらないね」

「違うの?」

「だってほら、や、どかり、のせな、か、だってありうるじゃない? それは想像力とか語彙論とかではなくてね」

「どかり……」

「どかり。や、どかり、ね。どこの範疇にも属しない場所で君の名前を呼べたらいいのにね、ってずっと思っている。例えば……あの夏の日に君の美しい背骨を見たね。今でもずっと鮮明に覚えていて、あのとき僕は、あまい匂いを覚えた気がしたんだよ。君は知らないかもしれないけど、あの日君が着てた白いシャツの裾にね、付箋がついていたんだ」

「あの日のことだね」

「そう、遮光機型土偶を見たり、マウスの端っこについていた8GBを組み直したり、セックスレスの夫婦を救ったりしたあの日のこと」

「他にもあったよ、真珠のコップで君に水を飲ませた」

「そうだね。とにかくその日だ、どかりが生まれたのは」

「そうか」

「どかりが生まれてから、もうヤドカリの背中は5つぐらいに割れたんだよ、清々しくね」

「そのうちの一つがこの下にあるんだね」

「ようやく気付いた? ふふっ、遅いね、君にしては」

「でも僕はさ、これがどかりの……僕の付箋だとして、まだそこには行けないよ」

「僕とだったらどう?」

「僕が君と?」

「どっちの僕だろうね」

「どかりの僕だよ」

「付箋に何が書いてあるかわかった?」

「ほんの少し」

「結局、そうでしょう? ヤドカリの背中って、君にとっては些細なことかもしれないけど、些細なことだから有している権利もあるんだよ。思い出してみて、線香花火が落ちる瞬間に鼓膜が触れた静寂を。そうじゃなくてもいい、乱反射した光が劈いた石膏の指でもいい。高架線下で触れ合った冷たさでも。その小さな苛みが波を作って夜更けサーファーになるんだ。手のひらを広げてみて。今背中をあげるから」

それはまだ来ないかもしれない。だからこの先は空白で、どかりが覚えている限り。春楡がもうそろそろこちらに来てくれるから、これだけは言い残しておきたい。立ち止まること、ときめいて、後悔して、まざまざと知り尽くして、そのさきで……えっとね……



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