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中村地平の日向への旅と国策旅行ブーム

※『みやざき民俗』58号(2006)に掲載した草稿です。引用の際には原本をご確認下さい。

はじめに

 宮崎県の観光を語る際には必ず新婚旅行ブームから始められる。その理由は、新婚旅行ブームのきっかけを作った三つの出来事による。第一は、島津貴子ご夫妻の新婚旅行。第二は、昭和三十七年五月の皇太子明仁殿下と美智子妃殿下の旅行、第三が、昭和四十年四月からはじまった、川端康成原作のNHK朝の連続テレビドラマ「たまゆら」の放映であった。これら三つの出来事が重なり、「新婚旅行は宮崎」というイメージが定着し、昭和四十九年には、新婚一〇五万組のうち三七万組が宮崎を訪れたという。 しかし、そのような新婚旅行ブームが起こる前段階として、県内の観光地開発と全国的な知名度アップがはかられたからこそ、後の新婚旅行ブームが生まれたのではないか。

国策旅行ブーム

 県内では、昭和初年からの岩切章太郎による積極的な観光開発があげられよう。後の宮崎交通となるバス会社をつくり、「子供の国」「サボテン公園」などの南国宮崎のイメージ作りに様々なアイディアを実現した(岩切章太郎の観光開発については先行研究があるので、ここでは触れない)。しかし、これらの動きは、宮崎県内及び九州圏内での宣伝であって、全国規模での観光開発には踏み出していなかった。
 一方、昭和十二年の国民精神総動員運動の影響もあって、時代風潮としては、今までの享楽的な旅行ではなく、祖国を敬う「国策旅行」として、史跡や遺跡巡りが奨励されるようになった。奇しくも昭和十五年は、「皇紀二千六百年」にあたり、全国で祝賀式典が開催され、東京では五万人の参列者があった。これに合わせて各地の神社・神宮へ全国から多くの参拝客が詰めかけるようになった。
 この時期の観光については、白幡洋三郎が次のようにまとめている。
「第二次大戦前、観光客の熱い目が宮崎に向けられた時期がある。戦争の匂いが、遠い大陸だけではなく身近にもただよう雰囲気が生まれた昭和十年代、旅行はそれまでのように自由奔放に行なうことが難しくなりつつあった。「不要不急の旅行はやめよう」というスローガンもあらわれ、「国策旅行」などという言葉も生まれる。戦時、非常時には享楽の旅行は自粛し、お国のために役立つ仕事のうえでの旅行に限ろうという発言が力を得てくる。
 そうしたとき、観光旅行客、旅行業者たちがあみだした旅行を救う言葉が、「皇祖ゆかり」や「敬神崇拝」だった。その中で宮崎がクローズアップされる。宮崎には、鹿児島県と地域を分けあう、霧島や高千穂がある。天孫降臨の物語や「神国」日本の原点となる日本神話のふるさとである。観光に出かけるといえば冷たい視線をあびせかけられるかもしれない旅行も、皇祖ゆかりの地を訪れる、敬神崇拝のために霧島神宮、宮崎神宮にお参りに行くといえば、あまり後ろ指をさされることもないだろう。というわけで、昭和十四年あたりから宮崎には他の地域をはばかる旅行客が増えはじめた。」(白幡洋三郎著『旅行ノススメ』中公新書、平成八年)
 県内においての天孫降臨の地というイメージ作りは早くから行われてきたが、全国的には、娯楽的旅行の制限に対してすすめられた「国策旅行ブーム」と機を一にして行われた紀元二千六百年の様々な記念行事が宮崎県の観光地としての知名度をアップする契機となった。天孫降臨の地として宮崎県の知名度は上がるが、具体的にその地を旅するイメージを全国的に提示したのが、中村地平という宮崎出身の小説家であり、その人脈であった。

作家と観光誘致

 昭和十四年七月、中村地平は、日向観光協会の招きによって、日向一円を巡遊し、その土地にふかい愛着を覚えるようになった。その時の一行は、中村に加え、井伏鱒二・中川一政・尾崎士郎・上泉秀信・岡田三郎の六名であった。その時の旅行のきっかけについては、中村は次のように回想している。
「戦争が大きくなりかけているころであった。皇紀二千六百年祭が行われる前の年、宮崎県庁からの招待で尾崎君といっしょに日向に行った。他にも中川一政、岡田三郎、鈴木彦次郎、中村地平、上泉秀信などがいた。あとでわかったが先方の方針では、高千穂の峰というものは、鹿児島県内でなくて宮崎県内にあることにするつもりの運動の一つとして呼んだらしい。私たちに県内を歩かせて、高千穂は宮崎県内にあるのだと新聞雑誌に書かせようとしていたようだ。事実、県の議員の一人は私たちの前で演説して、『みなさんのご麗筆で、高千穂の宮は宮崎県内にある、云々』と云った」(「亡友の諧謔」)
 戦前から天孫降臨の地の論争は起こっていたが、この時期、特に観光開発に関連して、再度議論が生まれていたようである(佐藤隆一著『文学に描かれた宮崎 県北を中心に 1幕末明治から戦中まで』(みやざき文庫3)鉱脈社、平成十三年)。
「鹿児島県側も斎藤茂吉、与謝野晶子らを招いて、論争の主導権を握ろうとした。昭和十四年十月、鹿児島県を訪れた斎藤茂吉は争いには触れないまま「鹿児島県から招かれて、神代三山稜の参拝を為し、皇紀二千六百年の聖代を讃歌せんとしたのであったが、同時に霊峰高千穂の頂上を極むることを得た・・・私等は只今その天孫降臨の神聖の連続なるこの山のいただきに立っているのである・・・」と霧島の一週間を「南国紀行・高千穂峰」に書いている。
  宮崎県側から招かれた彼らの旅行については、彼らの宮崎旅行の経験は、戦時下という状況もあり、リアルタイムで、旅の報告がされることは少なかった。むしろ、戦後になってから次々と文章化され、その後の宮崎観光のイメージ作りに一役買うのである。

中村地平と観光、そして郷土の再発見

 中村地平(明治四十一年~昭和三十八年)は、昭和五年に東京帝国大学に入学し、すぐに井伏鱒二の門下生となる。昭和九年に都新聞(現東京新聞)に入社後も作品を書き続け(「熱帯柳の種子」「廃港淡水」「蛍」「南海の紀」など)、昭和十三年に「南方郵信」(『文学界』4月号)で第7回芥川賞候補となる。北の太宰治、南の中村地平と称されるほどの評価を得るが、昭和十六年十二月に陸軍報道班員としてマレーに派遣され、十八年二月に森玲子と結婚、その翌年、昭和十九年三月に宮崎市に疎開することとなる。
 その後、中村は、中央文壇に戻ることなく、宮崎県において、文化人・経済人として、生涯を宮崎で過ごすこととなる。宮崎に住み続けるきっかけとなったのが、昭和十四年の宮崎への旅であり、それをまとめた『日向』の刊行であったと考えられる。

雑誌『旅』に記された昭和十四年の旅

 中村地平についての研究書にも、この旅行について触れられている資料は少なく、この旅行をきっかけに書かれた、昭和十九年に小山書店から「新風土記叢書」として刊行された『日向』をもとに、中村の故郷観が論じられている。
 本稿では、中村にとって『日向』を刊行し、地元宮崎に疎開し、そのまま棲むことになるきっかけとなったこの旅行についての資料を以下に公開し、中村地平の故郷観についての研究資料としていただきたい。
 一つは、財団法人ジャパン・ツーリスト・ビューローの日本旅行倶楽部発行の旅行雑誌『旅』の昭和十四年十月号に寄稿した「日向路の秋」と、同年十一月に、前年に日向旅行に出かけた井伏鱒二・中村地平・中川一政・尾崎士郎・上泉秀信の4人による座談会を収録した「日向を語る」の二本を紹介する。
 今後、これらの資料を基に、戦時中の国策旅行ブームと戦後の新婚旅行ブームをつなぐ存在として、中村地平という人物に着目していきたい。また、宮崎観光の父とも称される岩切章太郎と中村の関係などについても研究していきたいと考えている。



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