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中村地平「日向路の秋」 

日向路の秋
                              中村地平

 南方に生まれ、南方に育ってきたせいかもしれないが、僕は南方の秋が好きである。台湾には高等学校時代四年間いたが、亜熱帯というものの、やはり秋涼の気節(ママ)はあるのである。内地のその季節ほどはっきりした時候のニュアンスは見せないけれど、太陽の光りがやはり幾らか弱くなる、常緑の樹木がほんの僅かばかり黄ばんできて哀れを見せる、本島人の夜市のアセチレン瓦斯の陰に豊かなポンカンの実がならぶ。幾らかは意識的に自然の中に探らねばつかめないような「秋」であるだけに、うまく「秋」が触手に掴めたときの喜びはまた格別である。
 僕の故里である日向の国は、同じ南方ではあるが内地であるだけに、それほど異色がある、というわけではない。しかし、空の色が深いし、空気が澄んでいるし、国の片側に聳え連なっている九州山脈の姿が美しいし、やはり他の土地では見られない季節の見事な色合いを示す。前夜の嵐にたふれたホホヅキや、トウモロコシの葉ずれの音や、澄んだ河鹿の声や、尾っぽを静かに動かして草を喰んでいる馬の姿やーそういう気節の景物をともなった日向の秋の牧歌調が、今頃になると強い郷愁で僕の心には湧きたってくるのである・・・・。
 休暇の関係があるし、また、健康な感じにあふれるし、旅は夏の日もわるくはないが、どちらかと言えば僕は秋の旅が好きである。夏の旅ほど疲れがひどくないし、それに季節の肌合いから、心がしっとり濡れるように落ちついて、汽車の窓からふと眺めた柿の樹のたたずまいや、土蔵の白壁を染めている茜色の夕焼けや、そういうありきたりの風物まで胸に焼きつくように印象的である。どこそこの山や海やで眺めたひとひらの雲の形まで、忘じがたい時さへあるのである。
 この秋は僕は尾崎士郎さんと、日向の国の椎葉という山奥の村へ旅する約束である。椎葉というのはなんでも三十方里(ママ)もある大きな村で、入口まで自動車の便があるが、中の奥地へはいると未開の状態にある。平家落武者の子孫が住んでいて、今でも、大家族主義の大きな古式の家が残っている。以前は宮崎の町などから県庁の役人などが出むくと、村の女たちはその子供を産ませて貰いたがったそうである。血族結婚で村びとの血が汚れているので、優生学的に新しい血をほしがっているわけである。
 昔、平家の落武者を追討にきた源氏の、那須の大八と村の娘との情話なども伝説として残っていて、今尚稗搗節という民謠に唄われている。その一節をあげると

 (一)庭のさんしゅの木
    鳴る鈴かけて
    鈴の鳴るときゃ出ておぢゃれ
 (二)鈴の鳴るときゃ
    何と言うて出ましょ
    駒に水くりょと言うて出ましょ

と、言うのであるが、歌詞が文学的であるばかりでなく、節も哀切で旅びとの心をゆすぶることが大きいのである。
 尾崎さんとこの秋その土地に旅する計画を樹てた原因は、先頃七月日向観光協会の招きによって、日向一円を巡遊し、その土地にふかい愛著(ママ)を覚えるようになったからである。その時の一行は、尾崎さん以外、中川一政、岡田三郎、上泉秀信、井伏鱒二の諸氏、それに僕を加えて一行六名であった。
 一行は卓れた土地の風物と、ふかい人情とに凡て感動した、上泉さんもこの秋はその土地の飫肥という小さな城下町に旅する計画を樹てているようである。
 飫肥というのは宮崎の町のもっと南方に在る古い町で、伊東氏の旧城が残って居り、町の中央には酒谷川がながれている。また、伊東子爵の邸宅があるが、庭は辺りの山や川やの眺めをとり入れて、閑雅、珍しく卓れた風致である。九州で古い、静かないい町と言えば誰でも竹田を想起するのが普通であるが、飫肥の町はそれに勝るとも劣らない、というのが一行の定評であった。
 この飫肥の町をふくむ宮崎からの南方コースは、熱帯樹林で有名な青島を除いて、まだ一般には知られていないが、それだけに汲めども尽きない風土の興趣に溢れているようである。
 宮崎から青島まで四里、その南に巨岩屹立する海浜の洞穴中に官幣大社鵜戸神宮の勝があり、更に南下して飫肥町、油津港を経、行程極まったところに都井岬がある。
 岬は天然記念物に指定されている蘇鉄の処女林や、付近の山林中に棲まっているおびただしい野猿の群やで有名であるが、もっと僕たちの興味をひいたのは野馬であった。岬の入口にはほんの僅かばかりの柵が設けてあるが、その中の天然の丘や、谷あいや、暖国植物の林の間やには数百の野馬が自在に駈り、草を喰み、たわむれている。野馬というからには勿論子供を産むのにも人手を借りる、ということはない。ひとりでに子供を産み、ひとりでに育ち、勝手に死んでゆくのである。水を飲みに谷あいに降りた馬が、脚踏み外して、岩上に倒れ、そのまま死んで、骨のみ風雨にさらしているような例も少なくないそうである。
 丁度、僕たち一行がそこを訪れた時は、俄か雨が頻頻として襲い、群馬を眺める興には恵まれることができなかったけれど、林間にまるで玩具のような仔馬をひきつれた母馬の姿や、丘の嶺に数匹の馬が夏雲にいなないている絵のような風景や、などを眺めることができた。この岬を背景にして、僕は小説を書きたい気もちが切りと湧いたけれど、しかし、風景はどちらかと言えば井伏調であろう。井伏鱒二さんが小説に書くなら、僕は引きさがってもいいのである。こういう卓れた土地を紹介するためには、僕は身を殺して仁を為す覚悟を決める、ことができるのである。内輪の話は別として、本誌の誰者などにはこの余り知られていない観光コースを、是非旅のプランの中に加えられることをすすめたい。耳をすますと、明るい南方の秋空のなかに、野馬のいななきが聞こえてくるような気がする。

                     (『旅』昭和十四年十月号)

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