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最初のモチベーションを忘れずに常に学ぶ人、考える人でいてほしい 筑波大学 佐本 英規 先生

深野先生にご紹介いただき、高校生の時の同級生である佐本先生にインタビューさせていただきました。

ソロモン諸島でアレアレの人々と一緒に暮らしながら研究をしていた佐本先生。
子どもの頃から人に興味があり、本や物語、遺跡や考古学が好きだったそうです。
生身の人と出会い、教わりながら、関係を築きながら観察する。単にデータとして扱えない感情もあったり、より人との向き合い方、教わる姿勢を大事にしようと思ったとのことでした。
想いや目的に立ち返って、物事と誠実に向き合い続けたいと感じました。

ソロモン諸島に暮らす「アレアレ」の人々との文化人類学研究

ー今、どんな研究をされていますか?

佐本先生:大学院で研究を始めてから十数年間、南太平洋にある島国、ソロモン諸島のアレアレと呼ばれる人口約2万人弱の言語集団を研究対象として、人類学的研究をしています。

文化人類学という広い分野の中には、いろんな研究テーマがあります。ひとりひとりの人類学者が自分のトピックやテーマを持ってフォーカスしていきます。

私は、音楽や芸術、芸能に興味があります。学部生の頃に、パプアニューギニアのサウンドスケープ、歌、踊り等の表現についての研究で有名なスティーブン・フェルドというアメリカの人類学者の本を読んですごくインスパイアされことが、今の研究につながっています。

ー現地では、どのような研究をされてきたのでしょうか。

佐本先生:大学院で研究を始めた当初から修士論文を書くまでは、テーマを絞り過ぎずに、現地ソロモン諸島での生活全般、特に、村で暮らす人々の家族や親族との付き合い方や結婚等、生活の社会的な側面について広く調べていました。

熱帯雨林の中の村に暮らすアレアレの人達の生活では、土地や森林、資源との結び付きがすごく重要です。また、家族や親族との生活が社会生活の基盤にあります。それらについて、現地にはどのような仕組みや制度、慣習があるのか等の研究をしていました。

その後、博士論文のための調査をはじめるなかで、満を持して音楽等のテーマで研究するようになりました。現地の人たちの楽器作りを観察したり、パフォーマンスの練習に加わったり、お祭りやイベントに参加したり、畑仕事を手伝ったり、料理をして一緒にご飯を食べたり、ひどく暑い日や大雨の日にはみんなで単にゴロゴロと過ごしたり...。

通算すると、2年半くらい現地に住み込み、一緒に生活しながら見聞きしたことをノートに細かく書き付け、記録して、帰ってきました。帰国後は、その間の自分の経験やノート、写真や映像等、フィールドワークの成果をもとに研究を続けてきました。

ー2年半も。すごいですね。

佐本先生:人類学者はいろんなところへ行きますが、現地に1年から2年ほど住み込んでフィールドワークをすることが、この百数十年の伝統になっています。それでも短いくらいです。ただ、最近その点は少し変わってきてもいます。

それと、一見僻地に思える島国が、グローバル化した世界と向き合ってる一面もあるんですよ。

オンラインで佐本先生にインタビューさせていただきました。

ソロモン諸島の村々のIT事情。スマホはあるが、電気が通ってないところもある

ースマホやネット、ITの影響を受けて、文化は変化してきてるんですか?

佐本先生:私が2009年に初めて3ヶ月間現地に行って下調べをしていた頃、ソロモン諸島の首都に行けば携帯電話やインターネットもあったんですが、私が滞在したマライタ島の「ど田舎」のアレアレは、当時まだ無線しかありませんでした。

どうしても首都に連絡しなければならない時は、一部の村にある診療所に設置されている無線で連絡していました。ちなみに、大きな病院は島に2つ3つしかありません。

2011年ごろにアレアレでも携帯が使えるようになって、人と気軽に連絡を取り合ったり、お金を持ってる人はスマホを買って音楽を聴いたりしています。電気は通っていないんですけどね。

ー電気通ってないんですね!

そうなんです。だから、人によってはソーラーシステムを買ってきて、発電や蓄電をして、スマホや携帯電話の充電をしています。

この十数年で、村の生活も一気にグローバルな世界に取り込まれてきた印象があります。ただ、世界標準を受け止めているという見方もできますが、伝統文化を守るような姿勢もあります。

ソロモン諸島は、20世紀の長い間、イギリスの植民地でした。日本の侵攻で太平洋戦争の戦禍に巻き込まれたり、ずっと世界情勢の中に組み込まれてきてはいたのですが、最近では、日常的な社会生活や、聞いている音楽のような文化的な部分にまで、グローバル化した世界の影響が急速に浸透してきています。

そういった現地の変化をどう考えるかというと、単に世界から押し寄せてくる世界標準のことを受動的に受け止めてる、という見方も一般的にはあると思います。逆に、両極端な考え方として、「いや、伝統文化を守ろうとしているんだ、アゲインストしてるんだ」みたいな見方を、外からする人もいます。

ただ、実際はどうなんだろうかというと、それほど単純な話ではないんです。自分たちの風習や慣習や文化を、自らアレンジしているところも多くあります。私が調査していたところでは、その為のある種の媒体として、音楽がありました。

ー文化に添いながら変化させていくのが音楽ということですか?それを調べていく手段が音楽でしょうか。

佐本先生:私が出会ったアレアレの人たちにとっては、世界と向き合うための仲立ちのひとつに音楽がある、私にとっては、音楽や楽器に焦点を当てることで、現地の人達がどんな立ち位置で世界と向き合っているのかをとらえる手段にしています。

ところで、実は新型コロナウイルス感染症の影響もあって、ここ3年くらいは現地に行けず、フィールドワークという点では研究が進められていません。

ー現地に行けないとなると、過去のデータをみて、別の角度や別の視点で発見できるものはないか研究を進めるのですか?

人類学や音楽についての古典的な研究とか、近年の重要な理論的研究を読み直して仲間とディスカッションをしたり、新しい研究の枠組みを考えつつ、これまでのデータを再解釈する作業に集中してきました。

オンラインインタビューができたらよかったんですが、アレアレの通信事情だとなかなか難しくて。そちらは、アレアレ出身でオーストラリアに移住したミュージシャンの友人と連絡をとっていたくらいです。

調査先の人たちが来日した時の写真

遺跡や考古学が好きな小学生だった。高校生で研究者の道を志す

ー人間について、人間の営みや生活について、子どもの頃から興味があったんですか?

佐本先生:きっかけは思い出せませんが、人に興味があったのは確かです。子どもの頃から本や物語が好きでした。

ー佐本先生をご紹介頂いた深野先生はSFがめちゃめちゃお好きなんですよね。インタビューさせていただいた際に、SFのことが話足りない、と後日お話していただき最高でした(笑)。

佐本先生:SF話で思い出すのが、有名なアメリカのSF作家、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンです。僕は子どもの頃、SFとはちょっと違うのですが、ル=グウィンの『ゲド戦記』がすごく好きで、繰り返し繰り返し読んでいました。J・R・Rトールキンの『指輪物語』もそうです。トールキンは言語学者だし、ルグウィンの両親は文化人類学者なんです。今思うと、結果的に文化人類学を専攻するようになったことには、どこかでその影響もあったのかなと思ったりもします。

小学生の頃から遺跡や考古学も好きでした。博物館に行って展示を見たり、中学生の頃は仏教美術が好きでよく仏像を見に行ったりしていました。変なやつだったんです(笑)。

ー博物館好き、古美術好き、ってどこからくるんですか?

佐本先生:どこからくるんでしょうね(笑)。
福岡生まれなのですが、小学校低学年のときの夏休みの自由研究で、福岡の地下鉄の駅をぐるっと廻るということをした時に、貝塚という駅があって。思い出せる一番古い記憶はそれかもしれません。

それと、やはり小学生のころ、福岡にある有名な板付遺跡に行ったり、弥生時代の共同墓地跡で甕棺と人骨がいっぱいある金隈遺跡を見に行ったことを覚えています。

ーめっちゃ失礼ですが、遺跡好きの高校生ならお聞きすることありますが、小学生ってなかなかいないですよね。

佐本先生:高校生の時は郷土研究部っていうマニアックな部活に入っていました。
古い高校だったので、部室に戦前から生徒が集めてきた貴重な石器や土器がたくさんありました。これは一体何だろうと考えながら専門書にあたって勉強したり、部の古い活動記録を整理してそうした石器や土器の由来を確かめたり、興味の赴くままに活動していました。

日本史の先生で、部の顧問をされていた恩師の紹介で、市立博物館の学芸員の方に相談にのっていただいたり、市が実施していた発掘調査の手伝いをさせてもらったこともありました。

ー高校生の時から研究者の道に向かって一直線だったんですね!

佐本先生:研究者っていいな、みたいなイメージはあったし、どこか遠くに行きたい、旅をしたい、よくわからないところに行ってみたいなと思っていました。
写真家の星野道夫さんが好きで、写真家になれば遠くのおもしろいところに行けていいかな、それなら研究者でもありだよな、というようなことを思っていました。
考古学者や人類学者、そういう研究者になれば、お前は何てとこに何しに行くんだ、と咎められずに、行きたいところに大手を振っていけるな、という気持ちがあった気がします。

高校生の時、はじめのころは、大学で考古学をやろうかなと思っていたんですが、物を通してもう死んでしまった過去の人のことを考えるより、生きている人に会いたい、今のことを考えたいという気持ちが出てきました。

大学に進学する時には、民俗学を勉強しようと思い、その道で有名な筑波大学に入りました。ただ、いろいろな授業を受けているうちに、もっと遠くへ行きたいなと言う気持ちが出てきて、太平洋の島々の研究に興味を持って、文化人類学を専攻するようになりました。

単にデータとして扱えない。文化人類学は人と向き合い、人から教わる学問

ー印象的なエピソードはありますか?

佐本先生:エピソードを絞ることがすごく難しいですね...
人類学者って、「人」のことを研究するじゃないですか。生身の人と出会って、直に人から教わる仕事です。人類学者がフィールドワークの最中に、このことを知りたいなって考えて調べようとすることの多くって、一番よく知っているのは研究対象である現地の地元の人たちなんですよね。出会った人の数だけ印象深いことがあります。

文化人類学的にすごく大事な言葉に、参与観察という言葉があります。観察という言葉には、自分と対象と切り離して客観的に見る、というニュアンスがありますよね。だけど、それだと分かるのは遠くから見える部分だけで、実際のところ、人類学者が知りたいなと思っている相手の経験の質のような部分はよくわからない。

だから、観察してるけど、それだけでなくて参加しろ、と。ただ、参加して相手に完全に埋没してしまうと、やっぱり何もわからなくなっちゃうので、参加しながら、観察もしろ、と。すごく矛盾した言葉ですよね。

ーめちゃめちゃ難しいですね。

これも、百数十年の文化人類学の歴史のなかで、ずっと大事にされてきたことです。

人類学者は、そこで起きていることを観察して、研究対象の人にいろいろなことを教わるんだけど、同時に自分も実際に活動に加わって、たくさんのことを経験します。
すると、その相手の人は、単に研究対象であるだけではなくて、ある種、友人になったり、家族のようだったり、すごく身近な人になっていきます。そうしていくうちに、研究が感情的に難しくなるような瞬間もあったりするのですが。

私がソロモン諸島のアレアレで行った長いフィールドワークで、調査の最初の頃にアレアレの伝統的な音楽や楽器の演奏の仕方を教えてくれたおじいさんが、私の居候先の隣村にいたのですが、その方は今思うと肺に疾患があって、ある時に村で急に体調が悪化して、そのまま亡くなってしまったということがありました。

当時、まだ何とか持ちこたえているけど、もうだめかもしれないと思いながらも、村の人たちで相談してエンジン付きのボートを仕立てて、皆でガソリンを持ち寄って、少し遠くにある、島内の大きな病院まで連れて行って。

結局そのおじいさんは助からなかったんですけど、その時、すごく悲しかったと同時に、研究者としてはこれはある種のチャンスだという考えも、頭のどこかにありました。

なぜかと言うと、お葬式って、現地のいろんな習慣がわかりますよね。よそ者だけど関わりがあって親しくなった、ある種、故人の「身内」の一員として、その人のお葬式のプロセスに参与しながら観察できるというのは、研究の上ではラッキーなことなんです。

もちろん悲しいし辛いけど、そういう部分を押し込めて、研究者として、彼の葬儀の一部始終を見届けてやるんだ、あるいは、悲しいとか辛いといった感情的な経験も全部ひっくるめて、参与観察の記録を残すんだ、と頭の中では思ったし、ある意味ではそうすべきだったんですけど、当時20代前半だった私は、あまりにも辛くて、ただ葬儀に参列するだけならともかく、調査なんてとてもできない、けどその場に居合わせたらノートを取らないといけないとか考えてしまうに違いない、それは気持ちの上でとても耐えられない、と思ってしまって。

それで、ちょうど良いタイミングで近くの村の桟橋に来ていた週一便の首都行きの定期船で、いってみればフィールドワークを放棄して、逃げ出してしまったことがありました。

あの時、村に踏みとどまって調査をしていたら、いいデータがあって、それで論文が書けたかな、と今でも思うんですが、どちらが正解だったかというよりも、単に人をデータとして扱うとか研究対象として接するのじゃなくて、すごく身近になって教えてもらったり、良くも悪くもそういった関係の中に在ると言うのが、人類学のあり方なんだなと、身をもって感じた経験でした。

フィールドワークの最中も、調査期間を終えて現地を離れたあとでも、いろんなシチュエーションがあり、悲しくなったり、逆に仲良くなって楽しかったりもするわけです。具体的な、生身の人を相手に、そうした経験を繰り返してきて、良くも悪くも人間的な関係を築きながら研究をしてきました。そのことを通して、人と向き合いながら、付き合いながら、教えてもらうということを大事にしようという姿勢を学んできた気がします。

佐本先生の著書

本を出版し、一区切り。10年一括りで考え、研究していく

ー未来のことをお聞きしたいです。目指すところはありますか?

佐本先生:これまで10年間くらいやってきた研究を、去年一つの成果として本にしました。幸運なことに賞までいただき(東洋音楽学会の田邉尚雄賞)、一区切りではあります。

最近も関連する原稿を書いたりしていますが、そろそろ次の研究を始めないといけないんですよね。10年一括りで考えて、次の10年はどうしようかな、10年後はどんな本を出そうかと考えているところです。

今、36歳なので、10年後、そのまた10年後、さらにその後まで、あと3つか4つは研究しないとな、と考えています。

直近では、ソロモン諸島からオーストラリアに移住したミュージシャンの友人に近々会いに行って、話を聞いてこようと考えています。
また、これから、ソロモン諸島の別の島で新たにフィールドワークを始めようと考えていて、準備、計画しているところです。
それに、今せっかく日本にいるので、日本国内でも、音楽や芸術に関するフィールドワークを少しずつ始めています。

目の前にいる燃え尽きそうな人をすくいあげられるような人でいたい

ー最後に若手研究者に一言お願いします。

佐本先生:大学院生や、学位を取得してこれから就職しようとしている若手研究者と接する機会はよくありますが、やはり大変ですよね。私自身も、しばらく転々としてきましたし。

私はそんなに偉そうなことを言える立場ではないし、アドバイスは状況に応じてしなきゃなと思います。

強いて言えば、例えば、どうやって就職活動するか、どうやって業績をためるか、そういった、小手先でやらなきゃいけないことがあるじゃないですか。もちろんそれも大事なことだと思います。

ただ、それだけでなくて、そういう大変な状況の中でも、一番最初の、研究を始めるうえでのモチベーション、「常に学ぶ人でありたい」とか、「常に考える人でいたい」ということ、そうやって学んだり考えたことを、どうしても「表現しないではいられない」といったモチベーションの部分を、なんとか忘れずにいてほしいです。

良い仕事がなかなか見つからないとか、時間がとれず思うように研究がまとまらないとか、非常勤の連続でクタクタだとか、そういう時にも、本末転倒にならずに、そういった部分が燃え尽きてしまわないように、どうにか大事に大事にしてほしいと思っています。

今は、辛い人、辛いけれどもギリギリで持ちこたえてモチベーションを維持している人、そういった人をきちんとサポートしていくシステムがないな、とも感じます。

幸運にも私は、もう駄目だと思うことがある度に、いろいろな人に助けてもらって、ここまでやってこれました。私自身も、目の前の人の火が消えてしまいそうな時に、その熾火をすくいあげることが出来るような人でありたいと思っています。


先輩研究者の皆様の悩んだこと、どうやって乗り越えたか、成功の裏側などをどんどん発信していきます。
次回もお楽しみにしていてください。

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