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結婚とは

 2度ほど結婚する機会があったわとりです。
 1度目も2度目も、それがどういうことなのかよく分からないままでした。


 1度目の夫は勤め先が合併吸収されることになって、合併前に『自主退職なら退職金を出す』、という条件があった時に辞めず、いざ合併したら合わないと言い出して何も補償がないまま辞めました。

 夫婦の財布は別々だったのですが、彼は貯金もしておらず、彼の半分の収入だったわとりが少しずつ貯めたお金を求職中に使い果たしました。
 そしていよいよ仕事に困ると、疎遠になっていたわとりの父へ仕事を紹介して欲しいから連絡付けてと言い出し、紹介してもらった仕事に「必要だから」とPCを20万ほどで新調した挙句そこを1ヶ月で辞めるというクレイジーっぷりを見せました。
 この彼はわとりが熟睡していると思って真夜中にわとりの下半身を剥いてデジカメに収めるということまでやりやがったので離婚しました。わとりが性犯罪被害者と知っていながらこの始末ですよ。

 今はこんな風に言えるけれど、当時は恐怖しかなかったしいざ離婚を切り出したらキッチンから包丁を持ち出すくらいアカン男でした。


 2度目の夫は自営でしたが、業績が厳しくなった時わとりがパートに出たのをいいことに以後生活費を出さず、しかし自宅には新作映画のDVDが届いたりPCパーツが届いたり。わとりが熱を出して寝込んでいても「ご飯どうするの」と聞いてくるタイプのアレでした。

 わとりの人を見る目がないことは重々承知しております。機能不全家族育ちが、自分の家庭環境に似たタイプを引き寄せやすいことも理解したのでこの2度の手痛い人生経験のあとは誰かとお付き合いすることさえもう無理だなと感じております。



 この経験を踏まえ「セキララ ②」を書いている時

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 というようなことに思い至ったんですけど、彼らにとって妻とは「自分の人生を支える従者」だったわけです。
 わとりはこの2人の夫に支えてもらったという覚えがないし、なぜ一緒に過ごしていたのかもなんだか思い出せません。
 結婚する前は一緒に出掛けたりご飯を食べたりして時間を分け合ってる感があったのに、結婚した途端夫の世話係に降格され、離婚した途端「あなたがいたから笑顔になれた」などというポエムを送り付けられる。
 彼らも結婚がなんなのかきっと知らなかったのかもしれない。


 ウィキペディアを見ていると、結婚自体は「成立すれば優遇される特典がいくつかあるよー」、というシステムでしかないなと思いました。
 これを形のない「愛」と直結させるのは危ういのかもと思います。

 愛が目に見えないから結婚をその証にしたくなる気持ちはとても分かるけど、愛と結婚はイコールではない。
 結婚というシステムを最大限に生かすためには愛があったほうが良くて、単にお付き合いの末に「そういうものだ」と思って役所に提出しちゃうわとりみたいなタイプの人(おそらくこの国ではこっちのタイプのほうが多いと思う)はメリットを生かせず逆に重い鎖となって人生を縛ってしまう。


 ちょっと前に「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマが大ブレイクしていたけど、あれはまさに結婚というシステムの有効活用だったのではないかしら。(ドラマは見てないのですが。コミックスも1巻しか読んでないのですが。)


 わとりの結婚生活の中では、夫の人の「愛してるから結婚したんだろ、愛する夫のために尽くせよ」という圧を感じることが多かったし実際「俺が快適に生活できるようにしろ(意訳)」ということまで言われていたのですが、彼らにとっては結婚は「自分が楽になる手段」であって、生活費などは「そのためのコスト。なるべく少なくしてできれば払いたくない。」だったのかもなーと。ブラック企業みたいですね。


 結婚の前提条件は愛ではなく、人権意識だなと思います。


 

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