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今までの記事を振り返って

3時から起きている。早く目が覚めてしまった。

頭を使っていないから、寝ている時間と起きている時間の境界があんまりない。

さて、最近、まとめると「頭が働かない、どうしよう」という記事ばかりあげている。いつも読んでくれている方も辟易しているんじゃないでしょうか。暗い記事を読ませてごめんなさい。そろそろ自分で立とうと決意しなくちゃ。

   そう思うものの、自分自身気持ちが整理できず混乱のなか日々を繋いでいるので、今一度文字に起こして整理してみようと思います。


【今の私】

・問題(人生は社会的に評価される能力を高めていくものだと思っていないので、物事を「失敗と成功」に二分するかのようなこの言葉はしっくりこないんだけど…、他に浮かばないので一旦これにしておきます)や何が不安なのかはわかっている                                       

   ⇒「自分」の感覚、すなわち自覚が持てないこと。無思考に外からの刺激に反応しているだけなこと。自分の意思で自分の時間を握っていない感じ。

→具体的に言うと、これまでの人生で考えてきたこと、経験したことが思い出せず、自分がどんな人間なのか、その流れの中で今どんな状況にいるのか、認識できない感じがします。いや、「図書館の非常勤職員」「大卒フリーター」とか肩書き、分類でいえば分かるんです。そうではなくて、「人生計画の中のどこ」というような自分の中での位置づけが見えない。何にも興味がわかなくて、意志的に生きられていない。

⇒どこに行っても人間関係が築けない/上手くいかない

これは大きいですね。社会に出て何かしようとする度、周りに味方がいなくなる。そして無難に人の言うことに頷くしかなくなってしまう。でも根の自我が抑えきれずに意見しては叩かれる。どこに行っても同じことを繰り返しています。「今度こそ上手くやろう」と思うけど、人の顔色を伺って合わせてばかりいる自分が嫌になって、自由に発言して受け入れられている人たちを見ると「私も自分を抑えることでぶつからないようにするんじゃなくて、好きなように話して尊重されたい」と思ってしまうんです。その結果、特に歳の近い年上の方に嫌われることが多く、また自分を抑える→抑えが効かなくなって意見する→また関係が悪くなるという悪循環が辛いです。そんな悩みから、アドラー心理学を勧められたこともありますが、私の場合「嫌われたくない」という気持ちで抑えているのではなくて「人間関係も上手くこなせるようにならないと自分が認められない」という気持ちが強いように思うんです。条件付きでしか自分を認められない。他の人が自然にできている会話や人間関係の調整が難しくて、どう考えていいのか分からない。そんな当たり前のことが出来なくて、“なんて頭が悪いんだ”と自分にナイフを向けている。

⇒生きる力に欠けている

ここでいう「力」は能力・エネルギー・欲・自己愛です。これらが満たされて、生きる力になる。つくづく、「欲」が生きる原動力なんだなぁと思います。       健全な自己愛つまり「自分の欲求を叶えていい」という気持ちが持てて初めて、自分の意思や欲が形になっていく。それを形にしようと努力するエネルギーが生まれ、自分の欲にあった能力が身に付いて、自分で選択した行動を繰り返すことで人格が形成されていく。20も過ぎて、発達段階のその最初の階段が登れていない。もう手遅れかな、努力してまた否定されるのが怖い、断片的に感じることはあるけれど、はっきりした気持ちの自覚がないまま無気力・無思考・脱力・諦観状態になってしまった。


⇒家族の愛情にいたたまれない

家族は私が立ち直ると信じている。今家の中は平穏で誰に責められることもない。でもそれは期限付きの優しさで、その期限はいつなのか、その期限内に私は働けるようになるのかって不安がずっとあって、どんなに家が快適になっても安らぎを感じられない。面接で落ち続けたことや人の中で働くたび雑談でコミュニケーションが取れなくて孤立していたことを思い出すと、働けるのか不安になる。もっと私を傷つけて、死んでもいいやって思わせてくれたらいいのに。生きる気力もないのに、死ぬ自由もない感じがする。これだけ良くされて何も返さず死ぬことはできない。家に居場所がなくなったから働くんじゃなくて、自主的に自立したいと思わなくちゃいけないんだけど。1年〜半年前は早く仕事に就くようにという母の言葉が「仕事が出来なければ自分は価値がない」と言われているように感じていて、不安、焦燥、苛立ちを綯い交ぜに口論していた。今思うと、自分に甘かった。でも、戻れたとしても同じことになるはず。その頃も今も、いつも責められているような不安が消えない。私は人の中で上手くやれないから、失敗した途端居場所がなくなるように感じている。愛される人なら失敗しても受け入れられるけど、私は失敗したら批判しか待っていない。書いているうちに、昔のことが思い出せてきた。昔から「賑やかで面白い」と言われて友人の多い姉にコンプレックスがあって、母に「我が強い」と言われたことも引きずっていた私は人当たりの良い人間になろうと自分の行動を管理してきた。でも心までは変わっていないからどこか表面的で自分の意思がないように周りからは見えていたんじゃないかと思う。それでも、本来の自分は嫌われる存在と心の奥底で思い続けるのはしんどかった。人と愛情関係を作れないなら批判される隙を無くそうと高校から勉強に励んだ。高校までは成績で周囲から認められ、自分の居場所を感じられた。それでそこそこいい大学に行けたけれど、大学では高校までの勉強と違って思考力・創造性が求められる。私はそれに対応できなかった。「一つの事を突き詰めたい」「考えの深い人になりたい」「美しい文学に触れていたい」研究者に憧れる気持ちから、いい発表・レポートを作るため、図書館によく通って知識を集めた。でもいくら知識を集めても、自分の考えというものが浮かんでこないのだ。焦り、どうにかして頭を働かせなければと思うほど頭が働かなくなっていく。大学2年生の終わりには研究者は諦めた。それから、何ならできるのか、この先どう生きて生きたいのかが見えず、どう行動していいかわからなくなった。2年間バイトで人間関係を築けずにいたのもあって、唯一自信のあった古典文学の研究(学部で研究と言うのはおこがましいですが、そのくらいの気概がありました)で成果を出せないなんて…自分の存在意義がわからなくなりました。コミュニケーション能力は低いけれど、古典文学の世界でなら自分は輝けると信じていたからです。でも、私は鑑賞者にすぎなかった。新たな見地を作る独創性が持てなくて、研究者になるには致命的な素質不足だった。人間関係はもともと「あまり得意じゃない」と割り切っている部分もあったけれど、専門の分野で上手くいかなかったショックは大きかった。この頃には鬱が始まっていたんじゃないだろうか。研究者を諦めるとしても学部の学問をしっかり吸収したい。そのために早く頭を働かせなければと思うのに思考停止している状態がもどかしく、自分はどうなるのか不安でいっぱいだった。就活をせずに1年間卒論だけに集中することで何とか卒論を書きあげて、卒業後に国会図書館の職員を目指した。「自分には能力がない」と言いつつなぜそんなに難しい仕事を目指したかというと、理由は2つ。まず、形を変えても古典文学の研究を支えたかったから。卒論で国会図書館のデジタルコレクションをよく利用していて、やっぱり古い紙資料に墨の文字の連綿を見ると心が踊ったし、貴重な資料を保存する責任ある仕事に魅力を感じた。古典籍には、砂の中から一粒の金を掬いあげるような出会いの感動がある。それを仕事の中で感じられるなんて、どんなに素敵なことだろうと思った。            2つ目は、この挑戦で結果を出すことで自信を取り戻そうと思ったこと。生きる術を考えた時に、対人能力と知的能力を比べたら、まだ知的能力のほうがあるかもしれないと思った。愛されて人が集まって生かされる人間になっている自分は想像できない。でも、考える力で成果を出す人なら目指せる、目指したいと思った。それで自信を取り戻したかった。

 卒業後、一人暮らしのアパートで一日中勉強していた。辛くもあったけど知識をインプットするのは楽しくて、毎日新しいことを学んでいることで前に進んでいる実感があった。結局国会図書館には受からなかったけれど…。落ちてからは大学図書館や古典文学の専門出版社、古美術商などを受けたが、仕事は決まらなかった。不安をコントロールできず、面接でしっかり話せなかったのが要因だったと思う。いつも緊張していて、毎日不安だった。人と話すと涙が止まらないほど感情がコントロールできなくなって、精神科にかかる。その後就職活動をストップ、帰省、入院療養し、現在の図書館勤務に至る。



こうして書くと、神経は弱いし自分に甘かったりもするけど、頑張っていたんだと思った。そして、長い時間が過ぎたと思ったけれどまだ大学を卒業して1年半しか経っていないと実感的に思えて、不安が減った。うん、やっぱり文章に起こすと客観的になれる。“就活に失敗して失意の帰郷”なんてよくあること。今まで無理に頭を働かそうとしてきたけど、ここは不安を追い払って立ち止まって内から湧き出る感情を待つときなのかもしれない。


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