何を読もうと、何を聞かされようと、自分の理性が同意したこと以外信じるな  ーー ゴウタマ・シッダールタ

タイトルは仏陀の言葉です。


私はずっと、理性で自分の存在の正当性を証明しようとしてきた。

雑談や密な人間関係を楽しめなくても、その事で「勿体ない」とか一方的な価値観で言われても、その価値観に馴染むことはなかった。だけど、行動は変えなくても、馴染めない、否定される不安はあったから。

いつからか、「正しく物事を判断できる」ことに自分の居場所を見出すようになった。

姉のように人好きで周りを明るくさせられなくても、父のように柔らかな空気を持たなくても、母のように人に心を砕いて生きられなくても、難しい問題に当たったときに「正解」を示す存在であれば居場所があると感じていた。今もそうありたいとは思う。正しく、明らかに物事が見えていると感じるときの安心感と確かさが支えになっているから。


でも今は、それは「出来ない自分」を許さない窮屈な生き方でもあったと気づいている。

大学生の頃のバイトでは他の同世代より「出来ない」人で、「仕事」に不安を持つようになった。バイトを変えても接客の不自然さや聞き取りの遅さを嘲笑された。自分の能力への信頼は揺らぎ、雑談ができないことも必要な社会的能力の一つでマスターしなければならないと悩むようになったし、「本業」である大学の勉強も自分には能力がないからできないと自信を失った。この辺から方向がズレていっていたのだと思う。バイトと研究は別物と普通は当たり前に判断できることが、ごっちゃになっていたのだ。とにかく自分の出来なさを思い、頑張ることが怖くなっていってしまった。それでも「能力のない自分は自分ではない」というような危機感があって、必死に勉強していた。でも頭に入ってこない、“どうかなってしまった”と原因と解決策を検索する日々。自分を信じる最後の挑戦と思って受けたNDLに落ちて、プツンと切れてしまったんだなぁ。

結局、パワハラで鬱病になった人と近いのかな。視野が狭くなって、狭い社会での評価を絶対視するようになっていた。

「人の評価は必ずしも合理的ではなく、感情やプライベートの事情が隠れていて、それを受け入れるか受け入れないかは自分の価値観で判断するだけのこと」こんな簡単なことがその時は難題で、真剣に考えてもわからなかった。人からの評価は客観的という前提で、自分が否定される要因ばかり考えていた。「人の言葉は耳を傾けなければならない」と道徳の教科書の一部分を切り取ったような考えに拘泥し、雁字搦めになって、不満を持ったり納得しないことも、自分の能力を信じていることも、傲慢な人間だと後ろ指を指されているように感じた。反対されても自分の考えで動くことに罪悪感を感じることもあった。どうしたって自分が納得したことしか受け入れられないけど、それがひどく悪いことのように思えていた。「相手が間違っている場合もある」「自分の考えで生きていい」との心理的な実感が持てなかった。なんの衒いもなく強く自己主張できる同世代の若者が羨ましくも怖くもあった。


でも、土地も違う、職場の人数も多い今の図書館で働くようになって、人を俯瞰で見られるようになった。何十歳年上であっても、理性だけで話しているわけではない、注意を受けたときそれは個人的な感情によるものではないか?筋が通っているか?自分の目で相手を判断していいのだと思えるようになった。みんなそうしていて、人を判断することに傲慢だと引け目を感じることはない。

お互いが判断しあって、近づいたり離れたりするのが人間関係なんだろう。

間違った人たちの中にいたら白も黒になる。そこで自分を見失うか、正しい場所を求めるか。耳を傾けるべきは自分の価値観なんだ。そぐわないひとの言葉は信じないし、離れる。それは傲慢でも勝手でもないこと。私を「上から目線」と言った人は、今思うと感情へのすり替えもあった。そういう時にそのまま自分の性格への客観的評価と捉えるのではなく、その人自身は尊敬できる人であるか、どう言われたかではなくて自分が自分の言葉を正しいと肯けるかを大事に考えていきたい。

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