アルジャーノン

  「感情や思考が言葉となって頭に浮かばないなんて、自分は馬鹿なんじゃないか」

常々感じている不安。

あぁ変わっていないなぁと思いながら、同じことで自分を嫌い続けている。

うつ病になって心理検査の一環でIQテストを受けたとき、時間制限の中で次々に問題を解くのを楽しく思いつつも、どこか低いIQが出ることを願っていた。自分の“賢くありたい”という欲を満たすより“人から様々な要求をされなくなること”を望んでいた。私は人に愛されたいとか必要とされたいという気持ちは元々あまりなくて、ただただ期待通りじゃないと否定されることが怖かった。自分をおびやかさないでさえくれれば、他人は私に無関心でいてくれても構わない。

結果、動作性IQと言語性IQの知能差が大きく自閉症スペクトラムが疑われることとなったが、全体知能は標準を満たしていた。私はがっかりした。ああ、これじゃあ頑張り続けろと言われてしまう、と。なんて弱い精神だろうか。桃並みだ。諦めがつかず、問題が学校で受けてきたテストに似ていたので「これは学習してきた蓄積がどのくらいあるか見るもので、社会生活で必要な知力を測るものじゃなさそう」と思ったりもした。

狭い世界の中途半端な知性でなまじ認められると、「求められるように生きよう」という執着が生まれる。突き抜けた低知能か突き抜けた高知能(ここでは“自分や周囲との関係、意思や思惑の認識能力”という意味で「知能」という言葉を使っています)だと多数の人の理解な範囲を超えるので、人の影響を受けず自分の心を指針にできるんじゃないだろうか。それは孤独な寂しいものでもあるけれど、ものすごく自由だ。

その両極端なふたつの領域を経験した青年の物語『アルジャーノンに花束を』が無性に読みたくなった。“白痴”の頃のチャーリーに救いを求めていた。そして今日やっと読み返すことができた。改めて読んでも、知性とは何か考えさせられた。

32歳なのに幼い心のチャーリーは自分への悪意も嘲笑も気づかない。難しい会話も別世界のものと割り切っていて、除け者になるのが当たり前だから他の人の話がわからなくても笑っていられる。幼少の頃の痛い記憶も思い出すことがない。チャーリーは人より認識能力が弱いことで、外の刺激の届かない真っ白な繭の中で美しい心を保っていた。                そこにひびを入れたのが“知能”である。チャーリーは、実験によって知能が高まっていくとともに見え始めた現実:人々の悪意、嘲笑、ごまかし、博士たちの成果争い、一人の青年である自分の性欲、愛、知識欲…の刺激に混乱し、葛藤する。今の私は初めのチャーリーのようになっている。テレビから声高々に聞こえる社会の変化、人の感情といった休む間のない刺激に混乱し、適応に苦しんでいる。だけど、発達しきったチャーリーほどじゃないけど日々自覚的に生きていて頭がクリアだった時期が私にも確かにあった。だからこそ、考えることが出来なくなった今が不安でたまらない。自分はどうなってしまったのか。今まで何を思って生きてきたのか。過去を辿ろうとしても頭が機能してくれないもどかしさ。

  しかし、同じように頭が働いていない時期のチャーリーは、周囲の影響を受けていない。それは同程度の話し相手がいなくて周りと感情や思考の共有が難しいということもあるが、自分の世界・意思が確かだったから。何にも気が付かない時期も、見たくないものが露わになって迫ってきても、大事なのは自分がどう感じるか。チャーリーは難しいことは考えられなくても、物事から豊かな感情、疑問を得ていた。どんな行動も「人に好かれたい」という一心でのものだった。処理能力や学力といった技術的な“知性”と、自己を認識し、自分に必要なものを見極める知性。幸せになれる知性はどちらか。

私は、ラストのチャーリーのように後者を手に入れたい。


   

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