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『力と交換様式 』柄谷 行人 (著) 読みました。岩波書店さんが広告で「国家を揚棄する力〈D〉が明らかに!」って、岩波書店さんが「!」まで使うので、読んだけど。結局、〈D〉って何? 分からなかった私が悪いのか。

『力と交換様式 』柄谷 行人 (著)

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「生産様式から交換様式への移行を告げた『世界史の構造』から一〇年余、交換様式から生まれる「力」を軸に、柄谷行人の全思想体系の集大成を示す。戦争と恐慌の危機を絶えず生み出す資本主義の構造と力が明らかに。呪力(A)、権力(B)、資本の力(C)が結合した資本=ネーション=国家を揚棄する「力」(D)を見据える。」

ここから僕の感想なんだが。

 おーい、それは無いだろう。えー。交換様式の「D」は何か。なんだかわからないまま、これ『トランスクリティーク』あたりからだから、2001年くらいから言い出しているんじゃなかったっけ。そのあとの『世界史のなんちゃら』シリーズで、ずっと真面目に読み続け、20年間追い続けた最後が、ほえーん。

 なんか、最後のページを読み終えた時「くる、きっとくる」って何の映画のテレビコマーシャルだっけ、あれの音楽、歌が頭の中で鳴りました。永遠の予告編な感じ。

 あるいは、平成ガメラ三部作、草薙 浅黄(くさなぎ あさぎ/演:藤谷文子)のいちばん最後のセリフ、「ガメラは、また必ず来るよ」が、頭の中を回りました。永遠に結論が先延ばしされていく、シリーズドラマやシリーズ映画を見終わった時の、収まり切っていない、永遠に続く感じ。

というショックを抱えつつ、真面目に感想、書こうかな。

 ていうか、まずね。正直に告白すると、僕、マルクスに興味はないのだわね。『資本論』の解説書はけっこうたくさん読んだけれど、『資本論』自体は、何度か読もうとして、あっさり挫折しているのだわ。学生時代。そしてそれ以降、『資本論』も、それ以外のマルクスの原典も、何冊かは買ったけれど、ちらっと眺めてそのままなんだわね。

 でもねでもね、資本論はじめマルクス全集なんかで有名な大月書店の公式ツイッターで、この前、「大月書店の社員たるもの一度くらいは『資本論』を読まねばなるまいと決起し、未読社員で『資本論』読書会を始めました」みたいなツイートが上がっていたのだよな。そういうもんだと思うぞ。いまどき、マルクスって。『資本論』って。

 で、この本もマルクスとエンゲルスの思想の遍歴を柄谷氏が独自に解釈しつつ、従来のマルクス理解の主流をどんどん否定して、史的唯物論物象化論もずんずん否定して、マルクスは「生産様式」ではなく「交換様式」について『資本論』で論じているのである。物象化ではなく、物神化こそが重要である。晩年の著作への流れを見れば、マルクス、エンゲルスそれぞれが異なる方法視点で「交換様式D」についての大事なことに気付いていたのである。と柄谷氏は主張するのだな。

 で、こういう本の場合、「本当にマルクスが、エンゲルスがそういう意図だったのか」というのを真面目に問うのは、まあ意味がないわけだ。そうではなく、柄谷氏が、どうしてもそういうふうに、マルクスを、エンゲルスを解釈したい、という強い意志、そこで語りたいことが何なのか、にだけ意味があるのだな。

 これは例えば『人新生の『資本論』』の斎藤幸平氏が、最新のマルクス研究で、実はマルクスはこういうこともこういうことも言っていたんですよ、というのは、それはきっとそうなのだろうけれど、マルクスが言おうと言っていまいと、斎藤氏の主張したいことが、現代において妥当性や説得力や魅力があるかどうか、あったからベストセラーになったわけで、「え、マルクスがそんなことを言っていたの」という驚き、という点には、普通の人はあんまり興味が無いわけだ。

 というわけで、柄谷氏の過去の著作がほとんどそうであるように、先人・偉大な哲学者が言ったことを「実はこういうことだったのだ」「のちにこうなってしまったが、実はこうだったのだ」と、ずんずんと断定的に進んでいく、そのマルクスについての「真偽」ではなく、柄谷氏の、人類の歴史全体をどう理解しようとするか、その過程は、読んでいて、相当に面白いのである。

 ところで、この本とデヴィッド・グレーバーの『価値論』というのが相当に似た地点からスタートしていて興味深いので、二冊を同時に読む、という挑戦を昨年末したのだが、こんがらがってしまい、どっちの本もわからなくなって、その試みは断念したのだ。私。

 今回、この本だけを単独で読み進めて、やはりグレーバーとの「近い感じ」というのが気になった。『価値論』はまだ読み終わっていないのでなんとも言えないが、グレーバーの主著『負債論』のことが、この本を読みながら、ずっと気になり続けた。

 柄谷氏はグレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』については書評を書いているようなのだな。だから当然グレーバーのことはよく知っている筈なのだ。

 それから、本書では『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』 2019/12/21ジェームズ・C・スコット (著)についてもたくさん言及があったりして、その他にもジャレド・ダイアモンド氏の著作など、人類学まわりの直近の話題作は柄谷氏は読んで、この論考に大いに利用しているのである。それなのに、グレーバー著作に言及がないというのは、どうなんだろうな。

 『負債論』と本書は、スタート地点での問題意識も近いし、人類史の駆動力を、生産様式の進化というマルクス主義、史的唯物論の下部構造にではなく、柄谷氏は「交換様式」とそこから生じる霊的な力、グレーバーは、人類の歴史の始まりからある「交換」(贈与)に伴う「負債」の感情的倫理的な強制力が、支配や暴力の原動力となる。そのメカニズムで人類史を現代まで分析しきろうとしたわけで、両者には、相違点はあるのだが、似ている、貨幣が生まれる前の、農耕が始まる前の社会の中での「贈与」交換から、すでに、歴史の原動力としての、柄谷氏の場合は「交換」、グレーバー氏の場合は「負債」と言う、人類の歴史全体を動かす原動力が始動している。そのことを、考古学的知見と人類学的知見から考察していくわけである。そして、その原動力が、社会の発展段階、洋の東西、様々な古代文明から現代にいたる過程で、どう発展変化していくかを、壮大なスケールで描き出していくのである。

 こうした認識を、現代社会における到達点、現実社会にまでつなげて、そこに対する社会運動を展開しようとした点でも、両者は共通する姿勢を見せる。柄谷氏がNAMに失敗し、グレーバー氏がオキュパイ・ウォールストリート運動などの活動家としても成果を出す、というあたりも、なんとなく近いあたりに問題意識はあったはず。

 柄谷氏がグレーバーを知らない筈はないし、意識しないわけがないと思うのだよな。柄谷氏が『負債論』を読んでいないとはどうにも考えにくく、むしろ近親憎悪的に、「ここが違う」がたくさんあって、あえて完全無視なんではないかなあ、という感じがしつつ、この本を読み進めたのであった。

 ちなみに、この本と、『負債論』と、どっちか一冊読むなら、『負債論』を読んだ方がいいと思う。あちらの方が分厚くて値段も高いけれど。「柄谷も読んでいないしグレーバーも読んでいない」という人には、グレーバーの方をお勧めするなあ。それはグレーバー氏の方が、それぞれの本で、ちゃんと着地しているから。「永遠の予告編」にはなっていないから。

 とはいえ、どっちも読み物として、かなり面白いので、やる気のある方は両方、挑戦してみてください。

 いや、もっとやる気のある若い方には、柄谷氏の『トランスクリティーク』に始まりこの本に至る一連の著作と、グレーバー氏の、(彼は亡くなってしまったので、遺作『歴史』が翻訳されたら、それで全著作になるわけだが、) それを全体として比較する、という試みをお願いしたいなあ。

 自分でやる?いやあ、時間が無限にあるのなら、やってみたいと思うのだが、しかし人生の時間には限りがあるからな。他にも読みたい本がたくさんあるし、やりません。やらないけれど、誰か、やってくれて新書くらいのボリュームにまとめてくれたら、読みたいなあ。わがまま。わがままな願望を言うと、そういう感じです。

 柄谷行人をずっと読んできた人は、まあなんというか、ここ10年以上の柄谷思想の集大成的な本なので、読まないわけにはいかないと思うのですが、最後の最後の肩透かし感。どうしてくれようか。

 「いや、これは肩透かしではなくて」って、誰か解説してくれるのであれば、それはすごくありがたい。ぜひ、お願いします。

グレーバーについて書いたnoteは以下のマガジンに一式収納されています。

反穀物の人類史感想はこちら


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