『金閣寺』を、根底から読み直す。 映画「炎上」と比較しながら小説『金閣寺』読みなおしたら新発見がありすぎて、今までの先行する大先生たちの『金閣寺』論は、ほぼすべてピント外れなのでは、と思えてきた。その①

 この論考を書くに対った経緯

 大学時代、三島研究をしていた私が、市川雷蔵についての本をひょんなことから読むことになり、市川雷蔵主演映画「炎上」が、三島の『金閣寺』を原作として映画化したものだと初めて知って、見てみた。見てみたら、あれ、こんな小説だったけということで『金閣寺』を読み直してみた。(細かな経緯を書いたnoteへのリンクは一番下に)

 そうしたらまあ、映画と小説の違いに気づくだけでなく、小説自体について、発見がいろいろあった。どころか、今までの『金閣寺』観が、根底からひっくり返った。ということなんですね。

 発見のダイジェストを、まずまとめて書いちゃいますね。

①『金閣寺』は初恋の手痛い失恋の傷から、その相手「有為子」を追い求め続ける、純度100%の恋愛小説であった。

 普通言われているような「金閣寺」を放火するに至った男の複雑な心理を、三島独自の「美についての哲学的思索」を重ねることで追求した哲学的美学的思想小説、犯罪心理小説、戦中から戦後社会の変質などを、鋭く描いた社会派小説、などでは全然ないのである。

 いや、そうとも読めるが、一旦、『金閣寺』が恋愛小説であり、有為子こそが主人公のこだわりの核であるとわかると、「金閣寺とは、変奏した、あるいは転生した有為子ではないか」と思えてくるのだ。

 つまり、恋愛小説としての側面から、「金閣寺とは主人公にとってなんだったのか」は、わりと容易に解釈理解可能だ。それは有為子の美的性的魅力が別の存在に置き換わって表象されたものなのだ。

 ところが、有為子の重要性を無視してをすっ飛ばすして、「主人公にとって金閣寺とは何だったか」という問いを立てると、それは、当然、いきなり、抽象的で、難解になるのだ。多くの人が、『金閣寺』を、難解な思想小説だ、と考えてしまうのは、「恋愛小説としての、その中心にいる有為子」を、すっ飛ばすからだ。

 そもそも、やたら小難しい理屈を振り回すのは、日本の文学界の悪い癖である。素直に読もうよ。素直に読めば、初恋の人に全く相手にされなかったもてない男の、そこからの自己回復の物語、特に性的に女性と関わることの、回復のプロセスを書いた小説であることは明らかだ。もう、100%恋愛小説なのである。いや。性的恋愛小説なのである。恋愛からも、女性との性的関係からも、何重にも拒まれる条件を持った青年が、それを克服し、初恋の人との性的関係を回復、成就させようともがく小説なのである。

②その意味で、『仮面の告白』の続篇と言ってよい、いや、『仮面の告白』の直系の続篇である。

 ちなみに、『仮面の告白』というのは、三島本人が実人生で初恋の人に、そうとう格好悪く振られたのを、そのまんま書くとかっこ悪いので「僕が同性愛者だから、彼女を愛せず、そのことに気が付いた彼女が離れて行ったのだ」と、フィクションで同性愛を導入することで、無理な自己正当化をすることで、小説化したものだ。この小説以前に、高見順に「三島の小説には人生を感じない。作り物でうすっぺらだ」みたいな酷評をされた三島が、「どうだ、こんなに深く悩んでいるぞ」と見返そうと、無理やり同性愛傾向を捏ね上げて書いたんじゃないか。書いて受けちゃったために、その後の実人生で一生、同性愛を演じ続けたんじゃないか、ということを、この前、僕はnoteで書いたわけだ。

③三島の実人生の変化が、『金閣寺』には直接、投影されている。恋人もできたし、齢29歳ころ、初めて女性とも性的行為に成功、性交に成功したのだ。(佐藤秀明著『三島由紀夫 悲劇への欲動』に詳しく書いてありました。)

 『金閣寺』を書く直前時期、三島は、初めて女性とちゃんと交際して、性行為もちゃんとできた。初恋で振られたダメージから回復できた喜び、女性との性行為が怖かったのを克服できた喜び、もう、いろいろと有頂天になっていたのである。

 しかし、そういうことを丸出しにすると、『仮面の告白』や『禁色』で、勇気ある同性愛告白小説を書いてきたのは、嘘だったんかい、となるので、私小説的小説としては、異性愛回復の過程は書きたくなかったわけだ。そこで、工夫したのが、『金閣寺』だったのだと思う。

④絶対自分のこととは思われない、世間を騒がせた、金閣寺放火犯の放火に至った心理の告白、という道具立ての中に、「初恋の挫折、女性との性的関係の不能。それを乗り越えた自分の経験、経緯」を編み込んで書いたのである。

 これまでの『金閣寺』論は、この主人公は美しいもの何を見ても金閣寺のことを考えちゃう、金閣寺の美にとり憑かれた人間、それゆえ、金閣寺に放火した。その思考過程を書いたのが、『金閣寺』という小説。そういう読解、解釈する。これがまあ王道だったわけだ。

 でもね、今回、読み直してみると、金閣寺に書かれているのとほぼ同じくらい、「どんな女性を見ても、有為子と重ねてしまう」という、初恋の女性、有為子について書かれた分量が多い。金閣寺について書かれたのと同じくらいの質量、力が入っているのである。それなのに、これまでの『金閣寺』論というのは、有為子のことを、ものすごく軽くしか論じない。というか、たいてい、全く論じないのである。変でしょう。

⑤「有為子の金閣寺への転生の物語、転生を見る主人公の物語」、という意味で、この小説は、そのまま、『豊饒の海』へとつながっていく構造を持っているのだ。

 転生というのは、事実ではなく、それを見る側の物語である。というのが『豊饒の海』の根底にある思想である。『金閣寺』の主人公、溝口は、「見る存在」としてまず自己規定をする。つまり、溝口は、まずは『豊饒の海』の、本田同様、「転生を見る」存在として生きるのである。有為子を、あらゆるところに探す、見るのである。

 冒頭①でちらっと書いた通り、有為子は様々な女性として転生するだけでなく、金閣寺そのものに転生しさえするのである。有為子に注目するならば、『金閣寺』のラストシーンは、多く指摘される『奔馬』のラストに類似するだけでなく、全体の構造が、冒頭の有為子のエピソードが『春の雪』の悲劇に対応し、有為子の不在を認識するシーンが『天人五衰』のラストにも重なる見事な構造になっている。『金閣寺』は、『豊饒の海』全体の、遠い予告編のようになっていることを見て取れるのである。

えー、嘘だあ、と思うかもしれないが、この後、次回以降、細かく論証していくことにするとして。

今回は「有為子論」に行く前に、それ以外の、「映画と小説」の比較から分かるポイントを、軽くのとめておくことにする。

映画「炎上」と小説『金閣寺』の差分を確認しながら、相互をいったりきたりしがら数度、観たり、読んだりしているうちに、気づいたことがたくさんある。

 その最大の違いは・・・・小説の最大の推進力、金閣と並ぶ、あるいは金閣よりも重要だと私には思える「初恋の人、有為子が、まるごと、いない。存在もエピソードも、失恋と言う事実も、まるごとカットされている」ことなのだ。が、なぜか、そのことを指摘する人、指摘する批評はほとんどない。

 その理由は、消えたものやことよりも、付け加えられたものの方が目立つせいである。映画で付け加えられたもの、その意味、ということはよく論じられている。

すぐにわかる、付け加わったものは

①犯行後、逮捕後の後日譚。冒頭「取り調べシーン」と、映画ラスト「控訴審で東京に護送される京都駅から列車中シーン、列車から飛び降りて主人公、自殺という結末」というのは、小説には全くない。小説は放火直後、裏山山上でタバコを一服するシーンで終わりなのであるから。

 この点は、それはそれで「文学的に、発表直後から巻き起こった批評」としての、「なぜ小説で、最後に犯人・主人公は自殺をしなかったのか」という指摘、小林秀雄が代表的だけれど、そういう当時の世の中の受け取り方を、映画版では反映させちゃった、ということとして重大な変更なんだけれどね。これ、明らかに、小説をまともに読めていない、誤読を、世の中全体がした、ということだと思う。

 小説では、明らかに、自分が生き延びるために、金閣寺を燃やす、という選択を主人公はする。そこに結実するために、小説全部が緻密に組み立てられている。

 しかし、なぜか、「小説の主人公は破滅型であり、最後に死ぬ展開が普通だろう」という、きわめて粗雑な読み方が、文壇、批評界では主流になった。「重大犯罪を犯した主人公は死んで詫びるべき」というような社会通念と相まって、そういうエンディングがくっついちゃっている。これはもう、ひどい改変なのだが。

②寺での生活の描写、老師や副主さんのやりとり、事情。が独自に膨らましてある。

③主人公の母が、寺の雑用夫として住み込むという設定。

 このふたつの改変が持ち込まれた事情は、小説での主人公の内面の複雑な思考、独白は映画化できない、と判断したせいで導入されたものだと思われる。演出上、主人公内的独白をナレーションでかぶせる、ということはしない方針を採用した以上、「なぜ主人公が金閣を燃やそうとしたか」の、細かな内面論理は説明できない。とすると、老師や親との葛藤という、より分かりやすい理由を映画の中に持ち込む必要があった。「金閣の美がどうのこうの」というよりも、人間関係の葛藤で主人公が死んだ、という解釈のほうが分かりやすい、そういう脚本になっているのである。

①~③により、『金閣寺』という小説の持つ、ある特殊性というか、小説の不自然さも浮かび上がることとなる。

吃音は、内的言語を精緻に豊かにするものなのか、という点で、小説と映画は正反対の解釈をしているように見える。

 小説では、主人公は「吃音かあるために、音声言語、発話行為が不自由なことと引き換えに、発話されない、思考だけの内的言語活動、思考が極めて豊かに精緻になってしまった人物として造形されている。というか、小説を読んでいると、そう思うように仕向けられている。

 そもそも、この小説自体が、いつ、どのように書かれたものなのか。明らかに一人称で、過去を回想するように書かれているので、どの時点かで、主人公、溝口本人が書いたか手記か、少なくとも語ったような内容になっているのだが。つまり、小説で読む限り、溝口は、三島由紀夫並みに精緻な言語と論理を操れる人物、とイメージされてしまうのである。

 そうすると、「金閣放火犯は、そこまで精緻に言語と論理を操れるような人物だったのか」という疑問が、(小説を読んでいる分には、生じないのであるが)、映画を作るにあたっては、その点について、監督も脚本家も、まず、悩んだはずである。そんなに言語能力の高い、知能の高い、そういう犯罪者と設定していいものだろうか。説得力があるだろうか。

 むしろ、論理や言語が明晰なのは、内翻足の友人、柏木であり、主人公溝口は、より不器用で、内的言語や論理も未熟で、劣等感や鬱屈の強い人物と設定した方が納得されやすいのではないか。

 映画を観る限り、吃音があるために、言いたいことが言えない。その状態では、恥ずかしさや屈辱感などで、感情が鬱屈し、「言おうとして言えない」だけでなく、内面の思考においても、鬱屈した言葉にならない感情が蓄積している人物像として、市川雷蔵は演じているように見える。

主人公は、周囲からいろいろ質問されたときに「ようわからへん」と答える。小説ならば、その時、内面では、常人の100倍も精緻にいろいろなことを考えているのだが、発語するのが不自由なので「ようわからへん」と答えておく人物、と言うように感じられる。しかし、市川雷蔵演じる主人公は、外的に発語することが不自由であるために、言葉にならない鬱屈した感情が常に心の中で渦巻いてしまうために、事実、わからないから、「わからへん」と言っているように見える。

 吃音であるということが人格形成にもたらす影響が、三島が書くような「発語できないからこそ、内的志向が精緻に過剰になっていく」ということと、市川雷蔵が演じるように「発語が不自由な気分的鬱屈が、行動を支配してしま人物」では、犯罪に至る筋道が、全く異なって感じられるのである。そして、市川雷蔵演じる溝口にも、きわめて高い納得度があるのである。

 いまどきの若者の「むかつく」「だるい」という、貧しい語彙で不満を鬱屈させて、引きこもったり反抗したりする、そういう方向に、吃音が主人公を追いやっているように見える。

 大学同級生の、内翻足の障碍を持つ柏木、演じる仲代達也の、年齢以上に大人びた、達観した、世の中をバカにしたようなふてぶてしい態度、人格と比較すると、市川雷蔵が演じる主人公・溝口は、内向的なだけでなく、思考も人格も、幼く未熟に見える。

三島由紀夫が、この映画と、特に市川雷蔵を絶賛した理由

 三島由紀夫は、市川雷蔵演じる溝口のことを、絶賛している。大いに気に入っている。それは「小説に書いた意図通りに」演じられているからと言うよりも、市川雷蔵の作り上げた人物の説得力に、感銘を受けたせいだと、私には、思われる。

 実は小説では、主人公、溝口は「人より少し、醜い」と設定されている。吃音だけでなく、醜さによって、女性に拒まれている。そういう自己イメージを持っている。美への憧れは、自らが美に拒まれた存在であるがゆえにこそ、膨れ上がる、という設定である。ところが、市川雷蔵が演じていると、醜い、という印象にはならないのである。もちろん、いつもの時代劇のような美男子然としたメークはせずに、素顔よりさらに幼く洗練されない田舎での、青年と言うより少年に近い、鬱屈と幼さをもった外見にメークされている。とはいえ、醜くはない。

 柏木はやたらと女にもてる。それは、内翻足という障碍を利用するという戦略性だけでなく、「大人びた,彫の深い美男子である外見」のせいでもある。仲代達也が、その雰囲気をよく演じている。仲代演じる柏木との対比で、市川雷蔵演じる溝口を見ると、小説で書かれた醜さではなく、その特徴は、「幼い、未熟で、性的存在として扱ってもらえない人物。青年と言うよりは少年にしか見えない大学生・溝口」。幼さ未熟さゆえに女性に相手にされないのである。こうした市川雷蔵による変奏、人物造形に対し、三島は大いに喜んだのだと思う。

 なぜならば、三島自身が女に一人前の男として相手にされない「貧弱な肉体」問題に悩んでいた。(この点については、以前にnoteに書いたので、参照されたし。)執筆当時、ボディビルを始めることで克服しつつあった当時の三島にとって、自分が女性に相手にされにくい理由を「醜さ」ではなく「少年的未熟さ」として造形した市川雷蔵の解釈は、大いに三島の自意識と自尊心を満足させたのだと思う。

 「有為子の不在」化された脚本によって、「女性に性的に拒絶される」問題ということが、ほぼ消えてしまった映画の中でも、そのことを、ただその存在、役作りひとつで実現した市川雷蔵という役者に、三島は感銘を受けたのであろう。


次回の目論見・「有為子事件」と「その後の有為子の現れ方」を、細かく検討していく。

 繰り返しになるが。今回の最大の発見は、この小説、初恋女性「有為子」のことばかり、初めから終わりまで書いてある小説なのである。なぜそのことが強く印象に残ったかというと、映画化された「炎上」の中では、この有為子さん、完全カットされているの。存在さえない。全く除外されている。映画の世界には、有為子さんという存在も、初恋のエピソードも、全く、ありません。だから、ビックリしたのである。

 「有為子さんへの失恋と、主人公・溝口の、失恋痛手による女性との性的不能問題」を持ち込むと、「金閣寺放火犯の心理を追及する」という、当時の普通の人の『金閣寺』観が、うまく映画として、成立しなくなってしまうということに、市川崑監督と脚本家、和田夏十さんは気が付いたのだと思う。

 そもそも、有為子さんとのエピソード自体が、それだけで映画一遍になりそうなドラマチックなもので、「劇中劇」として導入が無理そうなのである。金閣寺と直接出会う前に、より決定的な、よりドラマチックな「有為子さん事件」というのを、主人公は体験するのである。そのことを金閣寺に投影させていく。そのことが、主人公の生活のあらゆる側面を支配していく。その過程が、この小説の基本構図なのである。有為子さん事件が起きる前、父親から金閣寺について聞かされていてはいても、それがここまで大きく主人公を支配するのは、いや、主人公を支配したのは、金閣寺ではなく、「有為子さん事件」の方なのである。

次回は、有為子さん事件と、そのことが小説の基本骨格を作っていることを、小説に沿って、精緻に見ていく予定。今日はここまで。


以下に、三島由紀夫と市川雷蔵関連で以前に書いたnoteへのリンク(下線部をクリックすると飛ぶ)を貼っておきます。


前篇となる。note「村上春樹『納屋を焼く』原作の「バーニング」(イ・チャンドン監督 2018年)と、三島由紀夫『金閣寺』原作「炎上」(市川崑監督1958年)を、続けて観た。そして考えたこと。いろいろと。①『納屋を焼く』と「バーニング」について。」

 市川雷蔵本を読むに至った経緯と、その本の感想はnote「『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』 清野 恵里子 (著)  市川雷蔵について、全然知らなかった僕が読んでも、すごく面白い。映画をあれもこれも観たくなりました。」

 また、私の三島研究の個人的歴史、背景はnote「三島由紀夫『仮面の告白』問題を、太宰治と藤井風くん「死ぬのがいいわ」という超モテ男との対比で考察する。」を読んでいただけるとありがたい。このnoteはか本稿との関連も深いので、必要なところは後ほど引用しますが。

参考書籍二冊 

昨年は三島没後50年で、いろいろ本が出た中で、話題になった評伝、主要作品を網羅して論じた二冊

『暴流の人 三島由紀夫』井上隆史 著 平凡社

『三島由紀夫 悲劇への欲動』佐藤秀明 著 岩波新書

 を読んでみた。で、『暴流の人』の方は、正統派の『金閣寺』論。今回、僕が否定批判しようと思う、正統派の金閣論が、よくまとまっている。

 一方『悲劇への欲動』の方は、この人、意見が合う。僕の読み方ほど極端じゃないけれど、同じ方向からものを考える人だと思う。ちょっと引用。

『金閣寺』にはある種の誤解がつきまとう。誤読ではなく誤解である。

 として、奥野健夫の「誤解」を批判する。この点については、

 僕は、佐藤氏と同じ方向から『金閣寺』を今回読んだし、映画と比較することで、それはさらに極端な形をとった。今までの『金閣寺』論、かなり間違っているよな、と思っている同志がいることは分かった。それを突き詰めると、どういうことが言えるか。極論を取ってみようと思う。

 






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