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『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』 清野 恵里子 (著)  市川雷蔵について、全然知らなかった僕が読んでも、すごく面白い。映画をあれもこれも観たくなりました。

『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』 
清野 恵里子 (著)

Amazon内容紹介

市川雷蔵(一九三一‐一九六九)。日本映画の黄金期に燦然と輝く足跡をしるし、早世した美貌の映画俳優。今もなお多くの人々を魅了する雷蔵その人と雷蔵映画を丹念に読み解いた新しい雷蔵論。豊富な場面写真とともに読む『眠狂四郎』『華岡青洲の妻』『ある殺し屋』『大菩薩峠』『ひとり狼』など全28本。

ここから僕の感想

 自分でだったら、まず買わない、読まないタイプの本を、ひょんなことから読む機会というのがあって、読んでみたらとんでもなく面白かった、という体験は、ときどきある。この本との出会い、読書体験も、そういうものでした。

この本を読むに至った経緯。

 私の友人に、この前も紹介したスリランカの津波で家族を失った女性の手記『波』を翻訳した翻訳家・佐藤澄子さんという大学の同級生がいる。彼女は、ほぼ毎日、英語圏の新聞や雑誌の記事の中で、気になったもの気に入ったものを翻訳してアップする『翻訳日記』というのを、(noteではなくて、類似ブログサービスのTumblrというところに)書いている。

 4月の初めに、アカデミー賞作品賞の最有力候補、『ノマドランド』についてのcnnの記事「『ノマドランド』:今年のベスト映画の一本はどう作られたのか、クロエ・ジャオとクルーが明かす」を翻訳してくれた。

 そのコメント欄に、清野恵里子さんという方が感想を書き込んでいて、その最後に「ジャオ監督の長編映画「The Rider」も凄い。(4月)6日まで、NETFLIXで配信されてます。お見逃しなく」とあった。

 僕がそれを読んだのが4月4日の夜。翌日4月5日に、ネットフリックスで「The Rider」を見ることができた。ぎりぎり配信期限に間に合った。

 それはもう、本当に素晴らしい映画だった。(興味を持った読者のみなさんには残念ながら配信は終了してしまったのだが、『ノマドランド』がアカデミー賞を取った後に、きっと再配信されたりするのではないかと思う。)

 で、清野さんとは、それまで全く面識もない、「友達・佐藤さんの友達」でしかない関係で、Facebook上で会話したこともなかったのだけれど、佐藤澄子さんFacebookコメント欄で、「教えて下さってありがとうございました」とお礼と映画の感想を書いたところ、返信をくださり、ちょっとだけ、その映画についての感想意見のやりとりをした。

 しばらくして、佐藤さんからダイレクトメッセージが来た。「さきほど私の投稿のFacebookコメントで原君と会話していた清野さんが、著書を原君に送りたいとのことなので、差し支えなければ住所を教えてくれるかしら」と。え、ほんのひとことふたこと、感想をやりとりしただけなのに、本をもらっちゃっていいのかしら。どんな本が送られてくるのかしら。

 そして翌日、すぐに送られてきたのが、この『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』だったわけだ。表紙に、バーンと、市川雷蔵の、眠狂四郎役のときの、写真。

 さて、どうしようかな、というのが、本を手にとって、まず思ったこと。

 市川雷蔵のことは、何にも知らなかったし、その出演作も、おそらく一本も観たことないし、清野さんの著者略歴を見ると、きもの関係の著書をたくさん書かれている著述家の方で、僕、きものの趣味もないしなあ。歌舞伎、きもの、日本映画、どれも完全に守備範囲外だけれど。

 ええと、市川雷蔵市川雷蔵、どこかで聞いたこと、読んだことがあるな。たしか庄司薫の赤ずきんちゃんから黒頭巾から白鳥の歌から青髭の四部作のどこかで、主人公・薫君の友人の誰かの口から、市川雷蔵の話が出てきたような気がするな。と思い、この本を読む前に、庄司薫の四冊・中公文庫を持ち出して、ばらばらっと斜め読み再読したが、発見できず。さて、手掛かりもないな。

 僕は友人知人の著書は、ちゃんと読むタイプの人間なので、それは、読みます。はい。何も知らなくても、とにかく読んでみよう。ということで読み始めたら、まあこれが、素晴らしく面白い。全然知らないことだから、面白い、ということはあるのだ。

ここから、この本についての、感想

 まずは、この本を読んで知った、基礎知識。市川雷蔵は、その短い生涯で、159本の映画に出演している。本書の後半でも何度か触れられているが、日本の映画入場者数は、1960年の10億1463万4000人をピークに、1965年には3億7267万6000人と減少している。1950年代が映画全盛期で、60年代にはいり、東京オリンピックでテレビが普及すると、映画産業は衰退しはじめる。市川雷蔵は1954年、22歳からから1969年37歳までの15年間、映画に出演している。日本映画全盛期の大スターなのだ。

 そして、僕は1963年生まれだから、市川雷蔵は大映の二大看板(もうひとりは勝新太郎)だったというのだが、僕にとっての大映は、大怪獣ガメラだからなあ、その頃は。初めて見た映画は、『ガメラ対ギャオス』だから。市川雷蔵は、僕が知る前に、この世を去っていたのである。

 本書は、その雷蔵の代表作28本を、年代順に並べ、制作にまつわるエビソードと、映画内容そのものについての批評を織り交ぜて、市川雷蔵という役者、それを取り巻く映画産業の状況、監督や脚本家やカメラマン、 衣装や美粧(メイク)などの個性的なスタッフたち、競演の俳優女優達などを立体的に描いていく。大変な力技である。

 映画一本ごとに、制作のいきさつ経緯から、あらすじ見どころ、当時の評価、それは映画誌・評論家の評価もあるけれど、市川雷蔵本人がどう評価したということも書かれている。「あれは失敗作だった」「ここがこう悪かった」ということを、市川雷蔵本人が語っているのを引用してあったりする。そう、この市川雷蔵という人、ものすごくプロデューサー的に、自分自身のことも自分の出演作も、いや、映画産業全体についても、俯瞰的に客観的に見て、考えて、そういう視点と、役者として演じるということについての徹底したプロ意識が同居している稀有な人物だったのだな。そういうことが読むほどに浮かび上がってくる本なのですよ、これが。

 市川雷蔵について、知らなかっただけに、ビックリが山ほどあったので、それについて、思いつくまま、書いていきますね。

顔が変わる!

 まず、驚いたのが、この市川雷蔵と言う人、美男というが、映画ごとに、ものすごく顔が変わるのである。各映画ごとに数枚の写真が紹介されているのだが、もう、表紙の眠狂四郎と、出世作の『新・平家物語』の平清盛と、『炎上』(三島由紀夫の『金閣寺』原作の、)放火犯・溝口と、もう写真で見る限り、全くの別人なのである。顔が。外見が。

 素顔は地味で、普段はメガネをかけて、真面目て地味な銀行員のような風貌で、街を歩いていても市川雷蔵だと気づかれないほどだったという。しかし、この化粧、メイクを、自分で工夫してほとんどやったという。その変貌ぶりたるや。こんな役者さんは、後にも先にもこの人しかいないんではないか、と思われる。

 物まね天才「ミラクルひかる」って、まねする相手が変わると、骨格から姿勢から、全部、憑依したみたいに変わるでしょう。なんか、市川雷蔵って、その役によって、それくらい、変わるのよ。「何を演じても勝新太郎」に対して、「役によって変幻自在な市川雷蔵」、そういうコントラストが、大映二大スターにはあったのだなあと、そういうことも門外漢の私にも、読み進むうちに分かってくるのである。

娯楽作と芸術・文芸大作

 映画が娯楽の王様だった時と言うのは、(うまく想像できないのだが)、当時は、まず、「プログラムムービー」と呼ばれる、量産・速攻でルーティン的に作られる娯楽作品が、毎月毎月どんどん封切られる。ヒットすればシリーズ化して、続編が作られる。市川雷蔵ほどのスターになると、ヒットシリーズをいくつか同時並行でいつも撮影し続けている。その上に、単発の、より芸術性の高かったり、大きな予算をかけたりする大作が、定期的に制作される。

 市川雷蔵と言う人は、単なる役者というよりも、映画作り全体のことを常に考え、その圧倒的スターとしての影響力を使って、個別作品のスタッフィングにも自身の意向を反映させたりする。それだけでなく、「娯楽作としてのプログラムムービー」何本かに出ると。自分がやりたい、より本格的な文芸大作映画を撮ることを会社に飲ませている。そういう作品で、各種映画祭の主演男優賞を取ったりするわけである。

 「大衆娯楽作」の、わかりやすいスターとしての魅力と、「本格的大作映画」の、演技派俳優としての魅力、その両方を兼ね備えた人だったのである。あるいは、その両方を、徹底したプロ意識で、どちらにも完璧を求め、一切、手を抜かずに、走り続けた人だったのである。それは、早死にするよな、と思ってしまう。

三島由紀夫作品

  僕は、大学で、三島由紀夫で卒論書いたのだけれど、三島作品の映画化かされたもの、というのは、そんなにすべては見ていない。というか、映画は守備範囲外だったので。いや、弁解しても仕方がない。不勉強だったのである。

 今回、『炎上』というのが、三島の『金閣寺』の映画化作品であったことを初めて知った。なんか『炎上』というタイトルだから、水上勉の『金閣炎上』の方をもとにして映画化したものだと、なんとなく思っていた。そして、主演が市川雷蔵だというのも、もちろん、初めて知った。

 本書を読むと、『金閣寺』の人物、設定をもとにしつつ、映画化するにあたっては、三島の創作取材ノートをもとに、監督市川崑・夫人の脚本家 和田夏十が書き起こした脚本なのだそうだ。

 吃音の、田舎者の、溝口の、映画冒頭の取調室でのシーン。その写真が紹介されているが、これが、もう、他の時代劇の市川雷蔵とは全く別人。ノーメイクで、かと思ったら、いやいやいや、市川雷蔵はそんなに甘くない。本文から引用。

 坊主頭にはなったものの、十七歳から二十一歳までの青年を演じる雷蔵の実年齢は当時二十七歳。額の生え際に曖昧さをとどめる十代とはだいぶ様子が違う。小林(美粧)と雷蔵はそれを「分別くさい顔」と思い「こんな分別くさい顔の奴が金閣寺に火をつけたりしない」と考えた。
 クランクインを前に小林は、十七歳の青年の坊主頭に仕上げるために、濃い鉛筆で毛髪を描き足すという苦肉の策を思いつく。

というわけで、若い田舎者の、コンプレックスに満ちた、吃音の坊主・放火犯を、稀代の二枚目俳優とは思えない、リアルな役作り、外見だけでなく、所作、言葉、すべて見事に演じて、キネマ旬報男優賞、ブルーリボン主演男優賞を受賞したわけである。

 もう一本、市川雷蔵は三島原作の映画に主演している。「剣」という、大学の剣道部の部長を演じている。この作品についても、筆者はこう書いている。

 一九三一年生まれの市川雷蔵は、『剣』が公開された年の八月に三十三歳を迎える。(中略)大学の剣道部で主将を務める二十代前半の国分次郎を演ずるにあたり雷蔵はいかなる演技プランを練り上げたのか、興味はつきない。

 それだけでなく、三島文学の「厄介な修辞」、あまりに耽美的で、文学でなら成立するが、映像化すれば陳腐になりかねないシーンを、雷蔵がどのように演じたかについても、きわめて精緻に分析、叙述している。このあたり、著者の、映画や美術だけでなく、そもそもの小説、文学を読み解く力量の高さ、というのが垣間見られて、市川雷蔵の魅力だけでなく、この本自体の、文化芸術批評としての魅力・美点がよく表れている。映画というのは、まさに総合芸術で、論じ始めると、あまりに語るべき視点が多くて、それはそれは、大変なことになるのである。

忍者も、スパイも、あるのか。

 渡世人とか、浪人とか、剣豪とか、若旦那とか、そういうのは、分かる。しかし、今のNARUTOまで続く、忍者ブームの発端も、この市川雷蔵の映画『忍びの者』だったの!!というか、その後、白戸三平が『カムイ伝』で書くような、リアルで社会構造背景まで含めての忍者ものというのは、どうも、この作品のヒットから生まれたようなのだな。

 忍者だけじゃない、『陸軍中野学校』シリーズでの、本格スパイものというのも、やっているのか。これ、あらすじを読むに、最近読んだマイケルオンターチェの諜報機関もの小説なんかを想起させるような、本格的なスパイ映画なのである。

 市川雷蔵のすごさ、というのも伝わる本なのだが、何より、映画が娯楽の王様だった時代、今でいえばアニメ、マンガから小説、テレビドラマから映画やゲームや、そういう様々なエンターテイメントに広がっているテーマ、世界が、この市川雷蔵の時代には、すべて、映画の中に集まってきていた。そういう、日本における映画産業全盛期の熱気と、それが衰退に向かい始める時代の空気。市川雷蔵の作品を年代順に追うことで、そういう時代の空気の変化、というものが、伝わってくるのである。

死の影

 取り上げた28作のあらすじを、著者は、全部、とてもよく分かるように書いてくれているのだが、主人公やその登場人物が、最後には悲惨な死を迎えてしまう作品が、結構多い。のは、歌舞伎でもまあ、心中ものとか、そういうのは多いわけで、ある種、日本文化の伝統なのかなあ。

 主人公が恨みを買う、とその妻が、夫である主人公の留守中に、主人公に恨みを持つ悪い奴に手籠めにされて、なんていう酷い筋の話が、けっこうたくさんある。こういうのも、時代劇の定番だったのかなあ。ひどい話である。なんらか事情があって生き別れていた思い人が、女郎に身を落として、なんていう話もあるし。

 『大菩薩峠』というのは、名前だけ聞いたことがあって、どんな話なのか、全然知らなかったのだが、この主人公の机龍之介といのが、まあひどい無情なやつで。主人公の性格も、全28作、善人いいひともいれば、酷薄非情なやつもいる。その濃淡陰影を、演じ分けるという点において、この市川雷蔵という役者は、天賦の才能も、努力も、兼ね備えた人だったのであろうなあ。

 1931年生まれと言うのは、私の父親と同年齢なのだが、終戦時には14歳。三島由紀夫は1925年生まれ、終戦時に20歳。戦争で死ぬものと思っていたのが、死なずに生き残った。死がすぐ目の前に、身近にあった時代に生まれ育ち、戦後の明るさ、開放感に、生き残った、死ななかった後ろめたさを感じてしまう世代なのだと思う。

 当時の映画と言うのが、つらい日常をおくる庶民に、明るい夢を見せるものかと言えば、必ずしも、そうでないものが多い。

 高度成長に入り、現実が明るく生きることを無意識に強制する中で、自分が過去に置いてきた、死をごく身近に感じた、暗いと言えば暗いが、何か緊迫したもの、それを刺激するような作品が、むしろ多い。命を懸けて、犬死であっても、何かを守り、貫こうとする。そういう主人公が多い。1950年代から60年代の映画の通奏低音というのは、そのあたりにあるように見える。それを表現する役者として、市川雷蔵というのは、これ以上ない器だったのだろう。

どの映画をいちばん見たいと思ったか?

  読み終わったら、感想をnoteに書きますね、と清野さんにダイレクトメッセージをおくったら、「お読みになった後、何をご覧になりたくなったか、お聞かせください。」と返事をもらった。

 前項で書いたような、死の影を漂わせた暗さを見事に演じた映画、というのも、もちろん、見たい。三島原作の二作も、『大殺陣 雄呂血』のラストというのも、見てみたい。

 あるいは、自ら失敗作という『ぼんち』と、成功した『好色一代男』、比較して見てみたい気もする。

 代名詞ともいえる、『眠狂四郎』シリーズの中でも最も評判がいい、が原作者、柴田錬三郎は怒っちゃったという『眠狂四郎勝負』というのも、見てみたい。

 難問だなあ。

 僕は、映画はハッピーエンドの方が好きなんたよなあ。だから、どうも、本書から受けた印象で、いちばん見終わった時に、幸せな気分になれそうなのは、『濡れ髪牡丹 八八瓢太郎』なので、これがいちばん見たい。はい。

番外編 おまけ 「おちょやん」も出てくるよ。

 現在放送中、NHKの朝の連ドラ「おちょやん」のモデルとなった浪花千栄子についての記述が『大阪物語』の章にあるのを発見して、ちょっとビックリ、嬉しかったところ。引用紹介します。

年頃の娘にわずかばかりの贅沢もさせてやれぬと嘆く女房のお筆に扮したのは浪花千栄子。大阪出身の友人は、この人の大阪弁を聴くと懐かしい風景が浮かぶという。東国に生まれた私のようなものでも、浪花千栄子の柔らかな声と独特な抑揚で話される科白の美しさに酔うことはできる。
『山椒大夫』『近松物語』と溝口健二作品に出演した香川京子。溝口は亡くなる前年に収録された雑誌の対談で香川について語っている。(『溝口健二著作集』)。
『近松物語』のヒロイン、おさんにする香川を、浪花千栄子のところに預けて勉強させた。

というわけで、おちょやんは、そんなに偉い役者さんになったのである。

 

 

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