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森岡書店の「強い文脈」、「弱い文脈」

■森岡書店のこと

森岡書店 銀座店は、一冊だけの本を扱う、一室だけの小さな書店だ。店主は森岡督行さん。Takramもいろいろな形で関わっているが、お店のオープンにあたり、まずロゴデザインとブランドスローガンを制作した。

森岡書店は、一冊だけの書店です。
一冊だからこそ、解釈はより深く。
森岡書店は、一室の小さな書店です。
一室だからこそ、対話はより密に。
一冊、一室。
森岡書店。

森岡書店に置かれる本は一冊だけ。一週間の期間中、本にまつわる様々なイベントが催される。主題につながる展示を企画したり、著者本人を招き、トークや朗読の場を持ったり。一冊の周りに多くの人が集う。一冊を介して、読者や著者の対話の場が生まれる。五坪ほどの小さな店内は、居合わせた人との会話が自然に始まるちょうどいい空間だ。対話によって本は多様な意味を帯びる。文脈が外の世界へ開かれている。

普通、人は本を通してまだ見ぬ著者に「出会う」。つまり読書によって想像上の著者に思いを馳せる。一方森岡書店では、実際に著者を介して本に出会うことができる。そして自分以外の読者の考えを聞くこともできる。

この書店は本を買う場所というよりも、本への理解を深めたり、その周囲に生じる渦を楽しむ場所、といった方がより正確かもしれない。対話や出会いを通じて、一冊の可能性は大きく広がる。


■一冊と目が合う

森岡書店 銀座店のオープンから数週間経ったころだった。森岡さんは「通りすがりの人が吸い寄せられるように入店してくれることがあるんです」と言う。著者のこともその週の本のことも、森岡書店のことも知らない。でも何かのしらせを受けたように本や展示に見入り、興奮しながら一冊購入する。そういった人が複数いるらしい。

どうやら「一冊」だけの佇まいは、とても目に留まりやすいようだ。そしてあらゆる人が自分なりの、独自の解釈をしやすいらしい。人は本そのものにも関心を持つが、実際はいま考えていること、感じていることを無意識的に一冊に投影している。一冊だからこそ、それが輝きを放ち、個人的な関係を持っている(かの)ように迫って見える。

本と「目が合う」ように出会い、惹きつけられる。そのとき人は本のなかに自分自身を見出している。出会いはある種、個人的な事件としての衝撃を帯びる。一般的な書店には本が無数にあるため、このような印象的な出会いに至りづらいのかもしれない。

これは茶室に掲げられている軸にも共鳴する。「一」という書があれば、人それぞれにそれを読み、初釜だから「はじめ」なのだとか、一座建立の「一」だといった解釈をする。ひとつの軸が掲げてある小さな茶室と、一冊の本が置かれている小さな書店は、どうやら相似形のようだ(そして森岡さんの髪型はお茶を嗜むお坊さんのようにも見える…)。

■森岡書店の「強い文脈」、ただし森岡さんという書き手による

森岡さんは特に「昭和建築」や「場所」に並並ならぬ情熱を注いでいる。それを振り返りながら「強い文脈」について考えてみる。

森岡さんはもともと一誠堂書店という老舗の古書店に8年間ほど勤務していたが、茅場町のとある昭和建築のビルを見つけ惚れ込んだことがきっかけで、突然独立し書店を開くことを決める。独立したいという動機よりも先に、建築に魅了されたのだった。

自伝的エセー集『荒野の古本屋』にもあるように、彼は住まいにせよ就職先にせよ、「石炭置き場」のあるような昭和初期の建築に一方ならぬ縁を感じるそうだ。内覧したアパートに石炭置き場があると見るにすぐ入居を決断する。また通りすがりのビルに石炭置き場があると見るにすぐ独立を決断する。

鈴木ビルは「日本工房」がかつて事務所を構えていた場所でもある。日本工房は写真家・名取洋之助氏が率いた編集プロダクションだ。当時名取の他、日本のグラフィックデザインの礎を築いたデザイナーの亀倉雄策や写真家の土門拳らが集っていた。写真やグラフィックデザインとのつながりを大切にしてきた森岡書店にとって、このビルを新店舗として選ぶのはある種の必然だった。

鈴木ビルが使用しているレンガはかつての帝国ホテルと同一のものだ。帝国ホテルの竣工当日は奇しくも関東大震災の日だったという。多くの建物が倒壊するなか、地震に耐えたホテルは、その後東京の復興のシンボルになったと言われている。ホテルのファサードにスクラッチタイルが用いられていたため、多くの新築はこれに倣って同じタイルを使用したという話がある。

森岡さんはそのような時代性・場所性の総体に魅力を見出したのだった。

そもそも彼はいかに「一冊だけの書店」の着想を得たのか。茅場町のくだんのビルに最初の古書店を開業したころだった。刊行記念イベントを開催するたび、大勢の読者・ファンが集う。たった一冊の本の周りに、ここまで多くの人が集まり会話がなされるならば(そして複数冊が販売されるならば)、本屋はそもそもたくさんの在庫を必要としないのではないか。一冊だけでもいいのではないか。著者と一冊の本を中心に据えた本屋があってもいいのではないか。

森岡さんという個人が、一人の書き手として「森岡書店 銀座店」という作品を認めた。この経緯(場所性)や意図(一冊だけ)が、強い文脈だ。


■森岡書店の「強い文脈」、ただし「社会」という書き手による

視野を広げ、書店産業に目を向けてみよう。ここ数年、紀伊國屋書店新宿南口店をはじめ、複数の大型書店が閉店している。商店街の個人書店も多くが経営危機に瀕しているようだ。無限の在庫を持ち、物理スペースは持たないAmazonが、書店産業における唯一の勝者であるようにも見える。このような状況のなかで、森岡さんは「一冊だけの書店」の出店を決めた。

一冊を購入すると「こんな本もおすすめです」という通知が届き連鎖していくAmazonは、設計された商品との出会いと、ロングテール型のビジネスの象徴だ。ベストセラーから希少本まで幅を持って取り揃え、在庫の数で他を圧倒し、独占的な地位を築いている。また物理的な売り場を持たないEC形態によりスケールメリットとコスト効率を高めている。

森岡さんは時代の方向と真逆のアプローチを取った。無限の在庫を持つAmazonの時代にこそ、一冊だけの書店が必要だ。デジタルリーディングの時代にこそ、物理的な場所が必要だ。交通事故のように突然出会える本も必要だ。

仮に今の産業の状況が「社会」という仮想的な書き手による作品であった場合、森岡さんは一人の読み手としてこの社会を誤読した。森岡書店への出資者であるスマイルズ遠山さんやTakramは、彼の孤独な挑戦を「一人ぼっちの産業革命」と愛情を込めて呼んでいる。たった一人で書店業界の斜陽に立ち向かっているようにも見える。

改めてこれを概観しよう。

彼は社会を誤読した。このとき彼は、社会が書いたシナリオの読み手であった。それに抗うように、独立・起業といった孤独な旅に出る。これが第一の誤読だ。

社会という書き手、森岡さんという読み手の関係で言えば、前者の潮流が「強い文脈」である。起業家の意思は、社会という大きな存在の前ではまだ弱い。

でもいずれ読み手は「未来の書き手」に入れ替わる。

ひとたび書店という作品が世に放たれると、来客があり、その来客は書店という作品の「読み手」となる。この新たな読み手は、自分なりの作法で本や書店を解釈し、自身に引き寄せて読み解いてくれる。これが二度目の誤読だ。

社会は、二度(以上)の誤読を経て豊かになる。

そのように作品は語り継がれていく。ストーリーはリレーされるたびに、読み手を書き手に変えていく。

しかし本人に聞いたところ、実は森岡さん自身は、このようなAmazonとの対比や社会のなかでの立ち位置に重きを置いていない。あくまで先の「一冊の周りに集まる人々」のことが何年も前から頭を離れなかったのだという。

社会を書き手とする「強い文脈」は、実はTakramが森岡書店の取り組みを対外的に説明する際に用意した、社会的背景の解説でもあった。Takramの担当したロゴデザインやコピーライティングを始めとするブランディングの活動は、森岡さん個人の「弱い文脈」をそのままに、社会の「強い文脈」と寄り添わせる仕事であった。つまり、個人的な思いを社会的な価値へ翻訳する仕事だ。

「一冊、一室。森岡書店」のステートメントに込めたのは、第一に「弱い文脈の強さ」を最大限に発揮するメッセージだ。さらに、森岡さんの活動を世に説明するにあたって、出版業界の動向やAmazonとの対比など、社会的な背景と紐付けながら語るテキストが、社会という書き手による「強い文脈」の補強である。これらによって、至極個人的な取り組みにも見える森岡書店の今日的な意義が際立つ。

コンテクストデザイナーの仕事は、強弱両方の文脈を設計し、世に放つことだ。

記事執筆は、周囲の人との対話に支えられています。いまの世の中のあたりまえに対する小さな違和感を、なかったことにせずに、少しずつ言葉にしながら語り合うなかで、考えがおぼろげな像を結ぶ。皆社会を誤読し行動に移す仲間です。ありがとうございます。