音読の大切さ

「文学を読む」にあたって、音読は非常に大切なことだと思っています。


というか、もとはみずからすすんで「音読が大切だ」と思っていたのではなく、自分の中にあった「なんとなく」を、恩師が言語化していたのが「音読が大切だ」ということだったのです。


「音読は基本中の基本だ」とでも申しましょうか。

恩師は「読むこと」をすごく大切なことだととらえていて、私自身もそれにとても共感している、というほうが適切かもしれません。



さて、わたしの中にあった「なんとなく」ですが、高校に入学し、古典の授業が始まったころ、よく同級生に口にしていたのが、「古典なんて感覚だよ」という言葉でした。

小学生の頃から、意味も読み方もわからず、ただただ百人一首を覚えていたからか、高校の古典で一番はじめに習う、文法事項なども、感覚で問題を解くことができていたのです。


国語って、言葉だから。


現代文でも、古文でも、漢文でも、もちろん英語をはじめとした諸言語でも、人の話す言葉だから、教わらなくても感覚でどうにかなる部分ってあると思うのです。

もっというと、言葉だから、理屈だけでは教えきれないこともあると思うのです。


高校時代の話に戻すと、実際には感覚だけではどうにもならないところまできて、単語を覚える努力はしました。

でも、高校での古典の勉強はまるで「単語を覚えること」がゴールのようになっている。

そこに意味があるのかという話は今回は置いておくとして、ただ、大学で「文学を学ぶ」ことを教わってからは、「単語を覚えること」はその通過点のひとつだなあと感じるようになりました。

「文学を学ぶ」、ひいては「文学を読む」ということが主体になっていって、「単語を覚えること」はその手段のひとつでしかなくなったのです。


ただ、その「単語を覚えること」も、やはり音読をくりかえすことにより、わずかなニュアンスの違いだとか、感情的な部分が理解しやすくなるとは思っています。

人の「ことば」だから、人の「声」でこそいきるものもある。

もちろん文字には文字の良さもあって、それを鑑賞することもあるので、それはまた別の話なのですが。

ただ、「文学を読む」ということは、ある意味で「そこに生きる人と話す」ということのような気もしているので、理屈や辞書で説明できることだけがすべてではないと思うのです。

もちろん、そういう基礎的なことは大切。

そのうえで、その先へ、となったときに、文学は人が作り上げたものだということを、どこかで覚えておきたいものだなあと。




なんだか長ったらしく書いてしまいましたが、個人的には、音読の上手な人は、理解が早い・理解力が高い、と思っています。


わたしが音読が大切だと思うのは、「文学を読む」にあたって、それを理解してこそ意味がある、という考え方によるものなのかもしれません。

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