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性別の混乱と,予測できない攻撃と,最終的には平穏が得られたけれども深い傷が残った話 後半

前半の続きです。

この記事には、家庭内での虐待(精神的虐待)のエピソードが出てきます。もし、読んでいる間に辛い気持ちになったときは、一度、記事から離れてみてください。辛い思いをさせてしまい、ごめんなさい。

混乱と自罰

学校は何の助けにもなりませんでした。そもそも当時の私は虐待を受けていることを全くわかっておらず、誰かに助けを求める気持ちすら持っていませんでした。それどころか、与えられた役割を果たすことに満足感すら感じていました。それに経済的にも生活が違いすぎて、中高6年間の間に同級生たちと遊びに行ったり家の話をすることは一度もありませんでした。お金がかかるからやめて欲しいと入学時に言われたため、部活もしていません。その状態で受けた最初の大学受験は失敗に終わりました。

街の予備校に通うことになりましたが、街にも予備校にも周囲にたくさんの女性がいることで、性別の混乱が顕在化し始めます。ただ、当時はノンバイナリーを含む性的マイノリティとその人たちに起こりうることについて何も知らなかったので、自らの混乱が性別の混乱であることに気づきませんでした。理由のわからない混乱と苦痛を感じる状態がただ続きました。

受験のための勉強をする気も起きず、混乱と苦痛を感じる予備校にはいかなくなり、朝、家を出て、電車に乗って知らないところに行き、昼ご飯も食べずにお腹が空いたまま歩き回ることを続けました。知らない場所の、車しか走っていないようなバイパスの雑草だらけの歩道をただ歩くことは本当に苦しいだけで、今から考えると自罰であったように思います。体を痛めることで心を保つことができました。自らの体を切り刻むことはしなかったのですが、その理由はわかりません。

激化

2回目のセンター試験の合計点は、前年よりも数点下がっていました。ただ、希望する大学の配点の合計では前年よりもかなり高くなっていました(当時は傾斜配点と言っていました)。しかし、母は合計点が数点下がったということが許せなかったようで、そのことについて、何回も繰り返し怒りをぶつけられました。受験生全体の平均点が前年よりもかなり下がっていること、傾斜配点では高くなっており受験では有利であることを説明しても、言い訳としか思えなかったようで怒りに油を注ぐことになり、攻撃が酷くなるだけでした。攻撃は何日も続きました。

そして、ある夜、怒りをぶつけてくる母の前で、文字通り、息ができなくなりました。

言葉

翌年は、街から少し離れた場所にある予備校を選びました。そもそも、同級生たちも通っていたこの予備校を最初から選ぶべきでしたが、彼らがどの予備校に通うかなどについては全く知らず、知り合いが誰もいない、特待生として授業料が免除になるだけの理由で街の予備校を選んでしまっていました。

新しい予備校では各クラスに担任がいて、いろいろな相談に親身に乗ってもらうことができました。彼の助言で、本来はとることのできない授業まで受けることができ、また、母に対して「彼は、わたしたちには想像もできないほど賢い子なのだから放っておくように」と伝えてくれたようです。前の年ほどの怒りをぶつけられることはなくなりました。母にとっても、自分の不安を親身になって受け止めてくれた人は、この担任が初めてだったんじゃないでしょうか。職場には、いい加減な助言をする人はたくさんいたようですが。

そして、ある日、同じクラスにいた森君が、突然、自分では全く気付いていなかったとても大事なこと言ったのです。

性別が逆

「男女が逆になってる。普通、男は女性からどう見えるかを気にするのに、逆になってる」

そこでやっと自分の苦痛の原因を理解しました。恋愛対象も性的な対象も女性であり、また、自分が女性であるとか女性になりたいとかについて思ったこともなかったため、典型の男性とは少し違う「変わった」男性として自分を捉えていましたが、どうもそれだけではないことがわかりました。ただ、ノンバイナリーもトランスジェンダーも性的マイノリティも、すべて言葉すら知らなかったので、自分が「普通のひとはやらない余計なことに」エネルギーを使っていると解釈して、他人からどう見えるかを気にするのをやめました。混乱は残りましたが、原因のわからない苦痛は(見かけ上)なくなりました。

平穏を得た話

攻撃の終わり

3月のある暖かな日、外出先からかけた公衆電話で家を出ることが決まりました。家には、私の受験番号が書かれた電子郵便が届いていました。妹とその友達が心から祝福してくれました。生まれてから20年近くにもわたる、とくに最後の数年は激烈以外のなにものでもなかった戦いは、本当にあっけなく、春の光を浴びた公衆電話ボックスの中で突然終わりました。

20代のころは、この経験は自分を成長させたと思っていました。でも、今は、単に犠牲が払われただけであるように感じています。

優しくなったでしょうか? 

いいえ。私が心の中心(コア)にもっているfemaleのジェンダーは、最初から優しかったはずです。

強くなったでしょうか?

いいえ。私の心を作っているfemale+androgyneは、まるで繊維強化材のように、もともとしなやかで強いはずです。だからこそ、酷い環境を乗り切れたんじゃないですか。

酷い経験によって得ることがあったというのは、攻撃する側の免罪符にすぎません。あれは、今振り返ると、本当にただの無駄な時間でした。

思春期らしい出来事が何もないまま、私の10代の日々は終わりました。

安息

大学入学後、安息の日々が訪れました。下宿に引っ越して最初の夜、近くのスーパーに出かけて買い物をし、晩御飯を作り、テレビを見ながら一人で食べたのですが、何も寂しさを感じませんでした。入学式の日、晴れ渡った空の下の川沿いの桜は満開で、世界中が祝福してくれているかのように感じました。いつ怒られるかおびえることもなく、好きなときに好きなだけ寝て、自転車に乗って好きな場所にでかけ、たまに大学に行き、下宿の大家さんと話をし、同じクラスの友人とサークルを作り、想像もしていなかったのですが、学園祭では何故かたくさんの女性から差し入れをもらうということもありました。人に何かをあげる/人から何かをもらうということ自体、新鮮で驚きでした。しかし、残った傷の回復には、とても長い時間を要することになりました。アルバイトを始めて1年ほどたったころ、同じく1年ほど一緒に働いていた女性を好きになりました(毎週顔を合わせながら恋愛感情を持つのに1年以上かかっており、デミロマンティックの法則が発動していますよね)。これは別の話になります。

おわりに

この記事を書くことは、最初想像していた以上につらいものがありました。書くためには、自分が地面の下に埋めたものを掘り返す必要があり、そこには、想像していたように、自分の骨や肉や髪や脂肪や爪や皮膚がばらばらになって散乱していました。そして、掘っても掘っても、腐乱した自分の死体が際限なく出てくるだけで、少しは出てくるだろうと考えていたキラキラしたものは何も出てきませんでした。普段、落ち込むことはほとんどなく、(noteのシステムがこれまでの記事の内容から心配しているように)死にたいと思ったことなどは一度もないのですが、あたり一面に広がった自分の死体を見てさすがに少し落ち込みました。心のコアにあるfemaleが基本的に私を護ってくれていますが、思っていた以上に負担が大きかったようです。かなりの時間が経っているので、もう風化していて大丈夫だと思っていたんですが。

虐待を受けている人へ

あなたは何も悪くありません。必要であればすぐにしかるべきところに助けを求めてください。助けを求めたところがおかしいようであれば、別のところに逃げてください。まともな人たちは、まるであなたにも責任があるようにあなたのことを責めたり、コントロールしようとしたりしないはずです。私は、いつもあなたたちの側にいます。

性的マイノリティの人へ

私自身、いまのところ、ノンバイナリーであることを周囲にカミングアウトをするつもりはありません。でも、必ず、どんなことがあってもみなさんの側についています。特に、トランスジェンダーの人たちへ、差別が深刻ですが、必ず解消されると信じています。

ところで、みなさん、タイトル画像の人の右目が青のぐるぐる、左目が赤のぐるぐるなのに気づきました?選んでから気づいたのですが、混乱している当時の自分を表現するのにとてもよい画像を(たまたまですが)選ぶことができました。この画像をアップしてくれた人、ありがとう。

すべての人が自分を愛することができますように


少し疲れたので、しばらく更新が止まります。