見出し画像

余白のつくりかた

昨日からの違和感を引きずり今日に至る。
正確にはもう少し前から、か。

私は自分以外の何かによって変化を強制されることが好きではない。
たとえそこで強制されなかったとしても、そこにその意図が存在するようならば嫌悪してしまう。たとえそれが無意識であっても。

そうだな、例えばSNS上で愚痴をこぼしたりネガティブな発言は周りの人の気分を不快にさせるから控えましょうという人がいたとしよう。
発言するのは自由である。双方とも。発信する側も、受信側も。ただその発言や意見を受け取るか否かなだけ。


それを伝えた相手が受け取らなかったからと言って、無理強いしてさらに押し付けたり怒り出すことは違うと思う。そこまでいくと相手をコントロールしようとしていると思う。
『コントロールなんてしようとしていない。あなたの為を思って言ったの。』と言う人が大半だろうか。


私はあまのじゃくだからすんなりとは受け入れずひとつ尋ねたくなるだろう。
「私の為を思ったその言動によってもたらされた何かしらの結果についての責任はあなたが取ってくれるの?」と。
そんな風に聞かれたら誰しも黙ってしまうことが目に見えているからその問いはいつだってぐっと飲み込んでしまう。直球は簡単に放れますが、変化球はまだまだ練習中の身なので。


そんなこと思っているのかよ、冷たすぎやしないか、と思った方も多いかと思うが私は冷たい人間だと言われることはほとんどない。寧ろ優しいと言われる。なぜなのかと問われて答えるとしたらこうだ。


基本的には相手から意見を求められるまではひたすらに受容し続けるだけ。相槌だけ。共感もしない。質問はするか。相手の話や思考を押し進める事しかしない。その中で「あなたはどう思う?」と問われたら自分の意見を伝える。それはこちらから押し付けたものではなく、相手が求めたものだから私自身も普段感じるような強制は感じない。相手には受け取る器が準備されているのだ。相手の話を聞き、整理することで相手に余白を作らせるといったイメージか。


自分の意見や思考を発信するのに原則制限や条件はないと思っても良い。だが目の前に誰かがいる時は話が変わってくる。別に自分の意見を押し殺して相手に迎合しろと言っているのではない。
相手の置かれている状況や現在の心境、バックグラウンド等をきちんと見て、その上で”節度”という範囲や条件を自分なりに設け、発信する言動を選択していけたらいいんじゃないのかなと思う。


あともうひとつ私が心がけているものとしては、自分が受け取る情報を自分の目で精査し、自分の手で取捨選択をするということ。
例えばTwitterなどでフォローした人がリツイートした内容が自分の好みでなかった場合があったとしよう。それをそのまま「いやだなあ」と放置するならば自分で自分を不快にする選択をしたということになる。自分の不快を無視せず、ちゃんと表示しない方法がないか調べたりフォローを外したりとすることで、自分にも余白を作ってあげられる。
自分が選択することを怠った中で獲得した情報に対してあーだこーだ文句言うのは自己中心的すぎる。余白が足りないのだ。

そして余白のない人が何かを押し付けた結果はきっと、相手を突き放すか相手とともに倒れてしまうかだと。
そんな人生、誰のせいにもできないじゃないか。


私は私の人生に対して常に責任を感じている。自分の人生に対して主体的に思考し、選択し続ける。死さえも選択出来たらとすら思う。もちろん私自身をそのように取り扱ってくれと他人に直接言い寄ったことはない。


自分と向き合い対話を重ねることはとても重要だが、自分の思考のみだと偏ってしまうので自分の意見や価値観、正義を持ちながらも様々な人と関わり、意見を聞くことで獲得したものを参考にしながら視野を広げていくことが大事なんじゃないかなとは思う。そうすることで多様性を受け止める器ができ、他人の正義も「そうなんだ」と思える回数が増える気がする。


自分も、他人も、愛してゆきたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?