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ブラック企業から転職したらブラック企業だったけど、割と楽しい#1

さい‐のう【才能】
物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。「音楽の才能に恵まれる」「才能を伸ばす」「豊かな才能がある」「才能教育」
[類語]能力・力量・能・才・才覚・文才・才気・手筋・手際・手腕・手並み・腕前・技量

デジタル大辞泉 / 松村明監修 小学館

今日、部長が退職する。

理由は方向性の違いだそうだ。使い古されたミュージシャンの解散理由ようなそれを直に耳にするとは思ってもいなかったが、私はそれに特に何か感じることもなく、淡々と聞き流していた。大切なのは部長が去ることではない。午後以降、後任の人事発表と共に巻き起こるであろう山のような引継ぎと新たな上司から発される方針転換に対応するための準備をしなくてはならないということだ。

部長と言っても長い付き合いではない。一昨年オーナーの個人的な伝手で入社し、昨年オーナーの唐突な組織変更命令により部長に任命された。その前の部長はオーナーが兼務していた。私のように転職エージェントを名乗る胡散臭い男から手渡された数多くの求人票の中から適当に選んだわけでもないだろう仕事と方向性を違えるには些か早すぎるような決断にも思えるが、私にとって大切なのはそこではない。

去る者はいい。後を濁さないように注意さえしていれば未来のことは他人事で済む。むしろ中途半端に未来のことに首を突っ込まなくてもいいし、それを考えていない、備えていないなどという叱責を受ける責任ももうない。一緒に未来を考えていた誰かが後を引き継いでくれたりそうでなかったりするのだろうが、そんなものは本人にとって程度の意味でしかない。誰かが上手くやってくれるだろう。そう、例えば私のような。

途方に暮れる。気が重い。思考を遮るために再び周囲を見渡すと部長(だった男)のスピーチは終わり、花束を受け取っていた。形式だけの拍手が会議室を満たし、すぐに止む。部長(だったモノ)は笑顔だ。どうか彼の未来が明るいものであることを一瞬だけ願う。そして現実に再び向き合う。

私の名前が呼ばれる。人事の担当者が次の辞令が書かれた紙を手に取る。
こんなはずじゃなかった。話が違っていた。私はもっとライトでポップな人生を送りたかったはずなのに、どうしてこう私の道には荊ばかり生えてきてしまうのだろう。どうしてそういう選択ばかりしてしまうのだろう。自らの運命を呪いながら返事をし、前に出る。

「本日付で営業部に販売推進企画課を新設とし、貴殿を課長に任命する」

ああ、これだ。
この瞬間をずっと待ち続けていたはずなのに。わざわざ転職までして地獄のような日々の中てで戦い続けてきたというのに。何度も手からすり抜けながらもあきらめずに走ってきたというのに。
ああ部長よ、今からでも遅くはない。俺を置いて行かないでくれ。俺を生贄みたいにしないでくれ。せっかく一緒に作り上げてきた仕事の梯子を外さないでくれ。

安寧を求める旅は長く、羅針盤は依然壊れたままだ。
壊れたものは直らない。残酷だがそんなことはわかっている。感傷に浸ることもあるだろう、人間だもの。でも私に残された選択肢はそれでも未来に向かって進まなくてはならないという事実だけだ。

私の企業家精神をめぐるこの愉快な闘いは、今なお始まったばかりだ。
どうか打ち切りにしてもらえないだろうか。現実とは残酷だ。


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