見出し画像

わたしの専門性を言語化する

わたしの仕事の価値は、なによりもわたし自身の専門性に依拠する
専門性とは学問だけに限らない、あなた独自の人生のこと

人生が誰一人同じものが居ない独自の広がりを持つものであれば、おのずとその道行の中で考え、迷い、選び、行動したすべてが専門性である。
大学で学んだ何某の学派とは、多くの時間と人が共通したテーマに取り組んだことにより確立したジャンルのひとつでしかない。また学派の中ですら細かく分かれ、分類する上でやむなく組み込まれているような知見も一般的に存在する。それらはまだ若い学問だが、いずれ時間の経過とともに大成していく学派の芽といえる。
そしてその学派の芽にも及ばない、日常の中の気づきや仮説など、社会全体に当てはめるにはとても検証されたものではないが、自らを取り巻く周囲の上では成り立つ知見が無限に存在する。これらは個々人が内包する宇宙にすら無限に存在する専門性である。しかし多くの専門性が、言語化されることなく運用され、そして忘れ去られていく。

専門性を確立するためには、言語化しなくてはならない。誰かに見える形で示さないといけない。個人に内包している限り、それはただの経験則である。それらを発表し、共有し、他者の経験測を自らの中に取り込み、自らを取り巻く環境に応用し昇華する。これらを通して初めてわたしの専門性が発揮され、それらを磨くことで唯一無二のわたしの仕事の価値が生み出される。
どんなに不格好であっても、言語化されて他者が応用できる形になっていなければ、どんな不格好な専門性よりも価値がない。生み出すものと生み出せない者の差は、ひとえにここで生じるに尽きる。

現代では当たり前だが、分類し並べた制作物の尊さを今一度思い出す

自らの専門性は勉学をはじめとした教養が基本である。
学派として成立ている、またこれから成立する学問は自らに限らず多くの他者が多くの時間をかけて研究してきたもので、それほどに多くの人生、境遇、社会、世界に通用する理論として価値を見出された共通解である。これらをシンプルに修めることで、また誰よりも研き究めることこそ最も手っ取り早い専門性の身に着け方である。狭義では唯一といっても過言ではない。現にそう扱われている場面も多い。あまたの企業、団体、組合、集団がその専門性を必要とし、発揮できる場を用意してくれる。専門性の必要性を説得する必要もない。

しかし誰もが誰よりも確立された学派で造詣が深くなることはできない。その場合人間の数だけの学派が必要になるし、個々の限定的な境遇に最適化された学派に意味などない。

しかし、狭義ではそうであっても、事実としてわたしの仕事に価値は存在する。それは人類にとって唯一無二ではないかもしれないが、わたしの仕事において唯一無二の専門性で価値あるものだ。
ひとりの人間の所属する社会は広いようで狭い。近年はネットワークの普及でさらに狭く感じるようになっているが、現実には限られたごく一部の間でしか、わたしの価値は問われない。そのごく一部の中で専門性をはっきすることは実に容易い。
わたしと同じような境遇で育った人はまずいない。わたしと同じような学問を修めた人はまずいない。わたしのように考え、行動する人は限られる。似たような人は居るかもしれない。だがその人が明日現れたとしても、明日からあなたの代わりを務めることはまず不可能なはずだ。差別化し、追い越していくために自らを磨く時間は十二分に猶予がある。

逆に言えば明日とって代わられない専門性が必ずわたしにはある。それらは決して社会全体に価値あるものでなくても、人間関係やコミュニケーションの取り方や書類の保存の方法から何から何まで、日々の些細な事の中に発揮されている。
それにいかに気づいて専門的であると自覚し、言語化された価値をつけられるか。それともそれを怠って惰性で誰かに消費され続けるか。

漫然と生きることによって失われる時間はあまりに大きい。
わたしがわたしの価値を最初に形にしたとき、真のわたしの仕事が始まる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?