向き合う
友人が、「向き合うことは、終わらせること」と呟いていた。
どうやら生け花に関する話だったらしい。
言葉のままに"別れ"を意味するのではなく、相手の存在と自分の信念の間に落とし所を見つけるという意味であった。
なるほど、それは1つ人間らしい行為だなと感じた。
けれどもこの「向き合う」こと。中々すんなり上手くはいかないものである。そしてそれは、無機質なものと対峙した時に顕著だ。
例えば歯ブラシ。今使っているこの歯ブラシをいつまで使ったものかしばしば悩む。使えるだけ使いたい反面、衛生面にも気を遣いたい。
かと言ってすぐに買い替えてしまうのは歯ブラシ1本と言えど色々と心苦しい。
所謂エコな歯ブラシは山ほど種類があるし、そもそもエコを謳っているものを選べば良いのかという迷いも拭いきれない。
そうして段々と思案が止まらなくなり、結局毛先が開ききった後にドラッグストアで新しく買い直すことを、もうずっと続けている。
しかしながら庭で土いじりをしていると、この向き合う感覚が少し育まれているような気持ちになる。
植物そのものの状態だけじゃなく、天候、空気、根元の状態がある地点で揃うと「この子とはお別れだ」という感覚がやってくる。
そうなると緑肥として漉き込んでしまうのだけれど、そこに迷いはないのである。
生きているものと向き合うことは、無機質なものと向き合うよりも容易いのか否かはわからない。
わたしの場合は歯ブラシよりも植物を相手にする時の方が、あちら側からも何かを伝えてくれているような心地がするのだ。
草花を生けると"生"を肌で感じられる。と、彼女が話していた。
野草で全然構わないと言うので、家の周りを散策しては雑草を摘んで空き瓶に差している。
適当に差したものがいつまでもしっくり来ることもあれば、朝に飾った花が、昼になると他の葉や花を足したりしたくなることも。時には何度も生け直したり、結局全部入れ替えることもある。
そんな事を毎日続けるうちに、そこらに生えている何てことない葉っぱの形に心地よさを見つけ出す様になった。
これまでは刈払機で散らしていた草花が、気付けば今では花瓶の中でわたしを安堵させてくれる存在になっているのだ。
何て事ない日々の中に「向き合う」ことを少し意識するだけでも、何かを変える、あるいは何かが変わるきっかけになり得ると思うのだ。
小さな雑草が、雑草でなくなった日のように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?