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私もあなたも、見たいようにしか見ていない【映画 流浪の月】


いい人そうだな、と思って距離を詰めてみたら「あ、なんか違ったかも」「残念だな、この人」と思うことはよくある。

仲良くなってみたい、とたしかに思って距離を縮めてみるけれど、その近さになって初めて見えてくる、人柄だったり、癖だったり、そういう部分を自ら率先して見つけにいくのに、そのくせ「あ、違ったかも」とか思ってしまう、自分。そんな私が出てくるたび、ごめんなさい、と思う。

勝手に仲良くなれそうとか、思い込んで、近づいて、傲慢にそこまでやったくせに、イメージと違ったかも、って急に離れていこうとするの、自分勝手でしかないから。でもそうでもしないと、見えてこない「その人」は間違いなく存在しているわけで、仲良くなれそうとか以前に、その人がどういう人かを知りたいと思ったら、一定の距離は突き破らなければならない、その必要性は必ずある。

だから他人に対して、私は極力、期待することをやめた。それと同じ要領で、自分のことを、わかってもらえると信じることも、わかってほしいと願うことも、傲慢だと感じてからは、そういうことも思わないようにした。自分のことなど、わかってもらえる人にだけわかってもらえれば十分だと思うし、その少数のわかってくれる人にさえも、自分のすべてを理解しろとか、把握していてほしいとか、どんな部分も受け止めてほしいとか、そんなふうに願うことは身勝手なんだと、人生の層を積み重ねるにつれて、そう思うようになった。

でもやっぱり、人間は根本的には孤独だ。孤独な人たちが、孤独からは逃れられないのに、それをわかっているから寄せ集まって、互いを慰め合う。それでも埋まらない孤独は間違いなく存在しているはずなのに、人とふれあえば触れ合うほど、私たちは果てで孤独になると実感するだけなのに、誰かとつながりたいと、そう願うことをやめられない。

「人は見たいようにしか見ない」


映画『流浪の月』で、劇中 更紗のセリフにあった言葉。
まさにその通りだ、と思った。

私のことを見たいようにしか見てくれないなって、周囲に対して感じることはたくさんある。けれど、それと同じくらい、私も周囲の人間に対して、自分の見たいようにしかその人を見ていないんだよな、って、改めて気が付いた、わかっていたつもりだった。

人間の怖いところは、どれだけ他人に期待しないとか、偏見を持たないようにしようとか、自分の中で強く意識を張り巡らせていたところで、気が付くと独りよがりの視点に立ち戻ってしまうところだ、と思う。

映画『流浪の月』は、そんな人間のどうしようもなさを、どうしようもないままで突き付けてきた。だからつらかった、更紗と文の事情を見ているからこそ、2人の関係は2人が良ければいいんだって思えたけれど、じゃあその内情を何も知らない立場だったら、私はどうなっていたのだろう、2人のことを、ふたつの自由な権利を持つ人間として、その関係性を偏見なしで尊重できていただろうか?考えるたび、考えるほど、わからなくなる、自信がなくなる。尊重できるだろうって声を張れるほど、私は自分に厳しくないし、他人に対して優しくもできないから。


「更紗にとっての文」も「文にとっての更紗」も、私たちが心のどこかで抱えているもの


この映画、テーマ自体は “誘拐罪” と “被害女児” の関係性で
普通に生きる自分にとっては到底なじみがない出来事だけれど

この関係性の中に宿るものは、人間であれば誰しも抱える心のよりどころと、何ら変わらないのだと思った。

会社の人には言いたくない趣味、だったり、
電車の中で背表紙を見られたくない本、だったり、
私たちにはそれぞれ「心のよりどころ」となるものがあって
それはきっと、他人にはわかってもらえないものが多数だと思う。

でも自分の心を支えるものなんて、自分さえわかってあげれたらいいのだ。それを他人にわからせて、よさを伝えて、納得して共感してもらう必要なんて、そんなのどこにもない。

私は私なりの方法で、私のことを大事にするよ。
だからあなたも、貴方のやり方で、自分のことを癒してね。
そういう言葉を、かけられる人間でいたい。
自分のことしか見れない、我儘で、すぐに独りよがりの目線に立ってしまう私だから、せめて他人のことは、他人のままで、その人の目線をそのままで、尊重できるような人間でいたい。

そう思わせてくれる作品でした。


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