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雑草の如く逞しく

雑草の如く逞しく
ざっそうのごとくたくましく

生活の中で疲弊して忘れていた言葉。

これまでの人生で一番熱くなっていた高校時代。
校訓だった。

高校野球の強豪と呼ばれる学校に入学した。
他の誰から聞いた話よりも、自分たちの方がキツい練習をしてきたと自負している。
誰になんと言われようが、あの時ほどの理不尽で体の限界を試すような練習(地獄)は無かった。
幸い、暴行やいじめは無かったから闘う相手は自分だった。

私は高校入学の時点での大谷翔平選手のように恵まれた才能や体格、結果を持ってはいなかった。
だから、どうにかして周りについていって、食らいついて、少ないチャンスを掴みに奮闘した。


そのうち、どうやっても埋まらない差というのが見えてくる。
野手として自分のできることを探してアピールしても誰かの2番手3番手が精一杯だった。すごい後輩も入ってくるから最後には4番手というポジションだった。

初めから無茶な挑戦でもあったが、自分のレベルが格段に上がったと思える2年半だった。

メンバー外(ベンチ入りメンバー以外)は練習メニューが違い、メンバーの補助的なものだった。
悪く言えば球拾い。だが、当時はそれも自分の練習として噛み砕いて工夫していた。
監督の思惑を考え、自分達に足りないものを補おうとした。
全体の練習のあと、バッティングなど出来ていないメニューを自主練として行う。
帰る時間は毎日22時くらいになっていた。

2年の秋、数少ない紅白戦のチャンスで結果を出してメンバーの練習に入った。
2週間で外されることになったが、自分がチャンスを活かして評価された事実が嬉しかった。
それと同時に、1番手には届かない虚しさも感じた。
でもそれで良かった。それが分かって良かった。

仲間と好きなことを共に高めあうことが単純に楽しかったし、ただひたむきに目標を達成しようとする感覚が気持ちよかった。頑張ってこれた自分が誇らしく思えた。
今でも色濃く覚えている青春時代だ。


今考えるとかなり理不尽だ。
なぜこんな理不尽を受け入れることができたのか。
なぜ今は受け入れ難いのか。

高校生という未熟な精神だったからだろうか。
いや、今でも未熟だ。
違うのは謙虚さかもしれない。
はたまた、見えていた世界が狭かっただけなのかもしれない。

大人になったら背負うものが増えて、考えることも増えて、勉強だって学生時代と変わらないかそれ以上にしなければならない。

社会人になってからは要領の良い人が目立つような感覚を感じていた。
最近では頑張るとか努力とかひたむきさというのが軽視され、むしろ悪のような考えが蔓延している。

本もたくさん読んだし、アルバイトでお金を貯めて海外で勉強もしたし、大学の勉強も仕事も頑張ってきた。
だから色んな考えに触れたし、世界が広がった。
世界が広がって、頑張れなくなったわけではない。

会社という、嫌でも従わなければいけない環境では頑張るエネルギーを作るのが大変だ。好きなことならいくらでも頑張れる。
でもサラリーマンで好きな仕事ができるなんてほぼありえない。
仕事を無理矢理好きになるしかない。
仕事を好きになるためには、仕事が得意になって、人間関係も良く、給料も良く、誇りを持てて、プライベートに影響しないのが理想的だ。

未だに仕事を好きになる方法はわからない。
仕事は最低限頑張って、家族妻子供のために奮闘するのが現在だ。

自分はひたむきに頑張ることを続けなければいけない人間だ。
特別な人間ではないからだ。

雑草の如く逞しく。
踏まれても、どんな場所でも、刈り取られてもたくましく生き延びる。

過去の栄光や頑張りはすがるのではなく、自分の誇りとして自信にしたい。

今一度、自分は雑草だと思い直す必要があるのかもしれない。

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