自分が救われていなければ、他人を救うことは出来ない、という話。
「社会貢献」とか「みんなが生きやすい社会を」みたいな話に、昔から全く興味が持てない。
意識の高い人は学生時代や就職活動の段階から、社会の役に立つこと、大勢の人を救うような何か、政治的な話などに興味を持って、そのために活動しているように見えるけれど、私からすると彼らはとても遠い。
私の場合は高校・大学の偏差値が高かったこともあって、この社会貢献的なことを目標として掲げる人が、周囲にとても多かった。
みんな凄いなぁ、偉いなぁ。
そう思うと同時に、そういうことに全く興味を持てない自分自身に、だからダメなんだろうなぁ、と引け目を感じていたものである。
何故私は、そういうことに興味が持てないのだろう?
自分の親が両方高校中退の元ヤンで、世帯年収が高いとは言えなかったから?
私の4親等以内に公務員や資産家や投資家はいないが、ジャパニーズ・トラディッショナルなファッションタトゥーを入れている人は2人いて、パチスロしながら生活保護を受けている世帯が1つ、借金で夜逃げした世帯が1つある……みたいな、底辺寄りの家系だから?
エリートの中にうっかり混ざってしまっただけで、結局私も意識低い系の人間で、見ている世界が違うから?
はたまた、私が人間を好きでないから?
他人に関わる、他人の思考を変える、みたいなことを「出来るわけがない」と最初から諦めてしまっているから?
などと長年考えていたのだが、自分が毒親育ちだったことに気付いた2年前、一気に疑問が氷解した。
何のことはない。
私は幼い頃からずっと自分が生きるために精一杯で、他人に目を向ける余裕などなく、まして広い社会に意識を割けるエネルギーなどなかった、というだけなのだ。
自分が溺れている真っ最中の息も出来ない状態で、他人が溺れていることを何とかしようと思えるわけがない。出来るとしたら、自分自身より大切だと思えるような、ごくごく僅かな相手だけだ。
私の状態はずっとそれで、だから恋人などの「この一人の役に立ちたい」が精一杯で、それ以上の他者を救うなんて余地はなかった。
そういう事なのだと思う。
今も私は、社会に大して興味があるわけではない。
社会に何か影響を与えたいなんて大それたことは思いつけないし、そのための努力なんてする気もない。私自身がちょっとでも生きやすい今日、明日のために努力することが出来るかどうか、そんなギリギリで生きている。
ただ、ちょっとだけ余裕が出来たのだろう。
私が藻掻いていること、以前に藻掻いていたことを書いて読んでもらうことで、もしかしたら似たような誰かが、「こういう人もいるんだな」と安心したり、自分を見つめるヒントになったりすることもあるかもしれない、そうなったらいいな――と、思えるようになってきたのだから。
私はどうやら助かりそうだ、みんなも助かると良いな。と、そんな風に思えているのかもしれない。
だから、もし世の中の事や他人そのものに興味が持てない人がいて。
社会が良くなるとか、そんなことクソくらえとしか感じられなくて、「意識の高い人たち」を見ると、「おめでてぇな、けったくそ悪い」みたいにしか思えない人がいたとしても、その人には別に非はないのだ。性格が悪いわけでもない。
その人自身が、今救われていない。今溺れている真っ最中で、自分の次の一呼吸のことしか考えられない。ただそれだけのことだと思う。
逆に言えば、社会貢献を掲げる志の高い人たちが全員、めちゃめちゃ聖人君子なわけでもないはずだ。
もちろん彼らは偉いのだけれど、彼らは最初から溺れたことがないか、あるいは以前は溺れていても、努力の結果として「今は」救われているのだ。自分がしっかりとした大地の上に立っているから、溺れている人の人数を数えることが出来て、溺れている人たちを「どうしたら沢山救えるか」と考えることが出来る。ただそれだけのことだと思う。
しっかりとした大地の上で、もう二度と溺れないという自信が持てて、自分の大切な人が全員溺れていないことを確認して。
その後でなければ「知らない大勢の、まだ溺れている人」を助けようなんて思わない、思いつけないはずだ。それはきっと、誰だって。
だから、意識が高くなんてなくても、社会に興味が持てなくても、他人を救おうと思えなくても、引け目に感じる必要は、ないのだ。
自分が薄情なんじゃない。社会不適合者なわけでもない。自分がまだ、救われていないだけで。
まずは、自分を救うこと。
それしかできない、それにしか興味が持てない私もまた、別に何も悪くないのだ。
そしてきちんと完全に、自分を救い終わったら。
溺れている人たちに、藁とか棒とか板とかビート版とかをバラまけるようになるかもしれないし、ならなくてもきっと構わない。
社会貢献は、出来る人に任せて。とにかく自分を救い切ろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?