見出し画像

noteで何を書いても読んでも思っても「間違い」なんてないんだ、という話。

この数か月、noteを読んだり書いたりしていて、少しずつ分かってきたことがある。

当然だけれど、noteには本当にたくさんの色んな人がいて、色んな思いが、色んな考えが、色んな形で書かれている。
首がもげそうになるほど共感して同意する記事もあるし、「マジで!?そんなんあるんだ!?」と目からウロコの記事もあるし、「えー、いや、ちょっとなぁ。そういう考え方どうなの?」と思うような記事も当然、ある。

そしてそんな、「同意も共感もできない記事」を読むたびに、思うのだ。
「でも、この人がこう思っているのは事実なんだよな」と。

私から見て共感できない思いだろうと、拒絶したくなる考え方であろうと、その人がそう思っていることや、考えたことは事実で。
それはきっとどれも一つとして、間違ってなんかいないのだ。

そしてそれを読んで、「同意も共感も出来ない私」も、間違っていない。

ただそれだけ。
ただそれだけ、でもこのことが、毎日私を少しずつ強く広げていく。

どんなことを思っても、間違ってなんかいないのだ。誰だって。
その人の思いはその人の思いとして、確かにそこにある。ただそれだけのことで、「思うこと」に正誤も善悪もない。
「思い」をどう表現するかについては、TPOや手段を適切に選ぶ必要があるし、それを学んでいくべきだけれど、例えばnoteに書くという手段なら大抵何の問題もない。
「考えること」には色んな都合の良し悪しが出てくるけれど、それでも極論で言うならば、どんな考え方であれ、間違いと断じることはできない。

そしてそれを読む私の方も、目にした記事の正誤や善悪を判じる必要はなくて、同意も共感も別にする必要もないし、その人の思想に従う義務もない。記事を最後まで読まなくたって構わない。
誰かの「自分はこう思う」を知ったからといって私が何かする必要はなく、多分みんなずっとそうやって生きてきて、だから私が「私はこう思う」と好きに書き散らかしていても、それはそれで間違っていないのだ。

多分、分かっている人は子供の頃から、アナログ世界でもずっと分かっているそれを、私は最近noteでようやく分かるようになってきて、それが今、私の「個」の輪郭を、少しずつ濃くしてくれているように思う。

私にとって、母の「私はこう思う」は、必ず賛同し、従わなくてはいけないものだった。
学校で学んだ「集団で上手くやる方法」も、それを否定する材料にはならなかった。誰かの発言に賛同し、従うことは、処世術として間違ってはいないからだ。
だが、別に「上手く」やらなくても良いならば、賛同しなくても、従わなくても構わないはずだった。Aさんはこう思う、私はこう思う。本当はそれでも良かった。
そういう風に、「同意しない、合わせない」というスタンスが、この世界ではごく普通に許されているという事を、私が知らなかっただけだ。
「同意できない=私が、あるいは相手が間違っている」と刷り込まれ過ぎていた、というだけ。

私の思いも考えも、一度だって「間違い」なんかではなかった。
少なくとも、私自身の思いだったし、考えだった。他人や自分自身に対して、不都合な考えはあっただろうけれど。

それが分かるようになった今。
私と違う背景を持ち、違う概念を生きる人が、私には共感も同意もできない思想を発信しているのを見て、
その人は何一つ間違っていないし、私も同じぐらい間違っていない、とただ思うことが、私を毎日少しずつ、広く、強くしてくれている。

もっとたくさんの思いを、たくさんの考えを見よう。
共感できる思いも、共感できない思いも。受け入れられる考えも、受け入れられない考えも。そして私も思いや考えを書こう。私の輪郭をもっと強く、広く、濃くしていこう。

誰一人として間違ってなんかいないし、私だって間違ってなんかいないのだと、現実世界の誰にでも、堂々と言えるようになりたい。そう思っている。

この記事が参加している募集

#noteでよかったこと

48,357件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?