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占いが昔から好きだけど、占いを信じてはいない、という話。

物心ついたころから、ずっと占いが好きだ。

母の蔵書の「ギリシャ神話を知っていますか」という本を小学校1年生から愛読していた私は、天照大神よりも先に、オリンポスの神々の名前を覚えた。
「今週のおうし座の運勢は!」といったTVの星占いを見ながら、そんなストーリーを思い起こすのは面白かったし、夢がある気がした。

小学校3、4年生あたりからは「占い」と「おまじない」が学校で流行り始めた。「気になる男子の髪の毛」を欲しがるクラスメイトのために、男子の髪を引っこ抜くのは何故か私が成功率が高く、頼まれるままに5,6人の髪を引っこ抜いた記憶がある。多分日頃からどんくさくて警戒されていなかったのだろうが、彼らはやっぱり痛がっていた。正直すまなかった。
「好きな相手の名前を消しゴムに書き、誰にも触れられずに使い切ったら両想い」というおまじないを実行する女子が増えたために、落ちた消しゴムを拾う前に「落ちてるよ!拾って大丈夫?」といちいち本人に確認を取らねばならないのは面倒だったが、そういった「おまじない」ブームは私の胸を躍らせた。占いを覚え、おまじないを覚えられるならば、やがて魔法に――魔女に、到達できるはずである。

魔女。なんて素晴らしい響きだろう。
水晶玉で未来を見通し、薬草を煎じて魔法薬を作り、ホウキで空を飛ぶのだ。これこそ将来の夢に相応しい。

小4あたりから自由時間が増えた私は、夢を叶えるべく、連日のように学区外の市立図書館に通っては魔女に関する本を探した。学校の図書室にある本が「おまじない」止まりであることは把握していたからである。平成初期の役に立たない検索機を相手に何週間も苦労し続けた私は、やがて「魔女の歴史」という本を探し当てることに成功した。持ち出し禁止の分厚い本を意気揚々と開き、最初から最後まで中世ヨーロッパの魔女狩りの歴史の話だと確認した時のがっかり感といったらない。
そうか、大人用の図書館にも魔女になれる方法が書いてある本はないのか――と現実を知った私は、重い重いその本を何とか棚に戻し、茫然としたまま帰宅した。あの日見た、丁寧に注釈のついた拷問具:アイアン・メイデンの構造図の絵柄は、今も脳裏にこびりついている。

そして意気消沈しながら母に顛末を話すと、母は笑ってトドメを刺した。

「あー、魔女ね。ママも昔なりたかったけど、なれなかったから諦めなさい。あれは血筋でなるもんだから」

そして絶望に沈む私に、母は語って聞かせた。母が幼少期、魔法薬の実験のために、捕まえたトカゲを干物にし、庭のドクダミをこれまた乾燥させたものと合わせて、そこら辺の石ですり潰し、水に混ぜたものを母の弟に無理矢理飲ませてみたが、カエルにもならなかったし、後で親に怒られた――という武勇伝を。

なるほど、ある意味血筋である。
妙に納得した私は、他人に健康被害を及ぼさない方法で魔女を目指した自分の賢明さに感謝すると共に、魔女になる夢を諦めた。
そして、次なる決意を抱いた。

魔女にはなれないのは分かった。ならば、おまじないと占いを勉強しよう。

そして私は片っ端から「おまじない」の本を読み漁り、学校にあった本をすべて読み終えると、タロットカードについて調べ始めた。本当は水晶玉占いが良かったが、本から調べられそうなのはパワーストーン関連がせいぜいで、水晶玉占いの解説本はなさそうだったのだ。手相や人相、姓名判断、風水などは、サラッと読んで終わりにした。不採用の理由は勿論、「魔女っぽくないから」である。

タロットカードなど見たこともないが、大きくなればきっとどこかで買えるだろう。ひとまず知識を付けておけば、入手した時にいくらでも占えるようになるはずだ。
そう考えた私は、タロット占いの本を何冊か流し読みした後、持っていたトランプを小アルカナに当てはめて、無理やり占いをすることにした。そしてすぐに飽きた。
インターネットもなく、本の場所の調べ方すらよく分からない小学生の、ほとんど当てずっぽうの占いである。生まれてこの方「直感」という言葉がどんな感覚かも分からない左脳人間には、インスピレーションを働かせて、などという行為は向かなかった。

そして占いについての興味を失くして1年余りが経った、小6の秋。
近所の大学の学園祭に遊びに行った私は、出し物に参加した景品の「一つ持って行って良いよ」と言われたオモチャの中に、謎の物体を見つけた。
文庫本ぐらいの大きさで、薄平べったい紙のケース。アルファベットが書いてあるが、読めない。

「あー、それね。タロットだよ」

タロット!?

私は迷わずそれを貰い、大事に大事に抱えて家に帰った。何年も前からひそかに欲しかったタロットカードである。この際中古でも何でも構わない。いや、むしろこういう「偶然の出会い」こそ、神秘性を高めるのに一役買ってくれるような気さえする。

そして、中身を開けると、そこには確かにカードが入っていた。
何故か、めちゃくちゃエジプトっぽい絵柄の。

私の知っている華やかなタロットでは、どう考えても、なかった。

いやいやいや。あのお姉さんがタロットだと言ったのだ。これはエジプトのタロットカードに違いない。
カードは全て大きく、私の知るタロットの、大アルカナと枚数が同じように思える。ならば、このカードの意味を一枚ずつ、普通のタロットの大アルカナと突き合わせて当てはめさえすれば、このカードはタロットとして十分使えるはずである。きっとそうだ。そうに決まっている。

占いへの熱が再燃した私は、それから猛然とエジプト神話について調べ始めた。
オシリス、イシス、ホルスといった具体的な神々の名が書かれたカードは、そのまま法王、女教皇……と当てはめられそうだった。問題は「ピラミッド」や「スカラベ」といった、タロットで言うと何が該当するのか、見当のつけようがないカードだ。これらはどう扱えばいいのか。

分からなかった。分からなかったが、その頃の私はもう「他のタロットカード」を買うつもりはなくなっていた。
「私のカード」だ。偶然手に入れた、そんじょそこらでは見たことのない、普通のタロットカードともまた違う、つまりきっと特別なカードなのだ。絶対に、このカードが私の運命の鍵を握っているに違いない。

カードについてはそれ以上調べられなかったが、私はそれからずっと、何かに迷う度に「謎のエジプトのカード」を引っ張り出しては、タロット占いの真似事をし続けた。
お年玉の使い道について、恋について、進路について、友情について。示す意味が判然としないカードで、繰り返し繰り返し未来を占い続け――そして高校3年になった私はある日、とうとう一つの境地に達した。

占いは、未来を指し示すものではない。
占いたい未来について、「自分自身の願望を映す」ものなのだ、と。

少なくとも私にとって、「謎のエジプトのカード」で行う占いはいつも、そうだった。
逆位置の「セト」を引いた時、どんな意味があるかと考える。それが本来どんな意味のカードか分からない以上、カードの意味は、どう頭を捻っても私の空想の産物でしかない。

タロットで言えば「塔」の逆位置だと判断すべきかもしれない。でも、これは普通のタロットじゃない。違う意味かもしれない。
――ならば、私はどんな意味を付ける?

そうして自問自答を繰り返す占いは、最後には当然「私の願望」を映し出した。「彼氏と別れるべきか」という質問の答えには、「別れたい」という私の願望を。「高校で友人が出来るか」という質問の答えには「少なくても良いから、気の合う友人が欲しい」という願望を。
私の「謎のエジプトのカード」は、私に勝手に意味を付けられて、私の願望を必ず答えた。
私にとっての占いは、そういうものになっていたのだ。魔法でも、未来予知でもない、自分の意思を確認する行為に。

「自分自身の願望を確認する」作業を人生に時々織り込むようになった私は、社会人になってお金に余裕ができてから、一度だけプロの方にタロット占いをしてもらった。
「私の占い」が自己分析でしかないとしても、本当のプロの占いならば「魔法」的な要素があるのではないか、という希望が拭えなかったのである。
そして、本職の占い師が「コールドリーディングなしで」どれだけ私の未来を、あるいは私の願望を言い当てるか、興味があった。

高校時代から約10年見続けていた、タロット占いと占星術のwebサイトの主。自分がずっと、信奉するとまでは言わないが、何となく信じてきた占いのエキスパートを、私はわざわざ試しに行った。「別れることを既にすっかり決めていた」当時の彼氏と、結婚できるかどうかを占ってもらうことにしたのだ。今考えると、非常に性格が悪い。

結果から言えば、「やっぱりコールドリーディングなんだな」であった。
彼女の占い結果は「準備が整えば、間違いなくその彼と上手くいくでしょう」。私が表面上で回答した、クソ面白くもない人生設計を無責任に保証するために、カードの意味すら捻じ曲げて解釈する、見事な会話スキルの産物だった。

結局、この世に魔女はいないのか。

自分からプロの占い師を騙しに行ったくせに、相手がそれに騙されてくれたからと落胆するのは、筋違いも甚だしい。
しかし私は心から落胆して帰路についた。そして「この世に魔法のような占いは存在しない」という事実を咀嚼し、受け止める内、パンドラの箱のように、最後に一つだけ希望が残っていたことに気付いた。

あんなに人気のありそうなプロの占い師が、1万5千円を取って行う占いが、ただのコールドリーディングならば。
私の占い――「謎のエジプトのカード」で自分の願望を確認するだけの、ただの自己分析のような占いも、初めから何一つ間違っていなかったのではないか。「占い師」の仕事がカウンセラーと等しいならば、他人を一度も占ったことがない私も、「私の専属占い師」として、きちんと役目を果たせている。そう考えても良いのではないか――と。

「謎のエジプトのカード」は、ここ十年ほどは使っていないが、今もなお私の手元にある。
今の時代のインターネットでサクッと調べてみると、これは厳密にはタロットではないが極めて近い種類の、しかも相当にマイナーな「カルトゥーシュ」というカードだったようだ。
こんなものが何故大学の学園祭の景品として並べられていたのかが謎だが、古本屋ででも仕入れてきたのだろうか。それとも誰かが買って、不要になったのか。

どうあれ今の私は、その気になれば、このカードに当てはめられた、公式の意味を簡単に調べられる。
だが、カードの意味を調べるにせよ、調べないにせよ、私が次にこのカードで知るべきことは、きっと決まっているのだと思う。

私はその問題について、どういう結果を望むのか。

未来予知の魔法の代わりに、自分の願望が何処にあるかを探し当てる。
「謎のエジプトのカード」が教えてくれた、私流の占いの心得を、邪道で我流な占い師として、忘れずに抱いていきたいと思う。


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