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毒親体験記:「いい人」だった私の母は、なぜ毒親になったか、という話。

私の母は毒親で、でも私以外の人に対しては、非の打ちどころのない「いい人」だ。
アル中も浪費癖もなく、毎朝欠かさず新聞を読み、TVはNHKを見て、家の中も庭も常に綺麗に整える働き者。地域の行事にも積極的に参加し、コミュ力も高めなので知り合いも多い。近所の人や親戚に聞けば「○子さん?あぁ、明るいし楽しい人だし、おうちも綺麗にしてるし、きちんとした人よね」「○子さんのお陰でいつも助かってるわ~」などの高評価しか出てこないような人だ。

しかし、他の人からどんなに高い評価を得ていても、私の母は毒親だ。
少なくとも、私にとっては毒だった。
母という一人の人間を構成する要素のうち、外から見える部分が「明るく、ユーモアがある」「きちんとした」「一生懸命な」「献身的に他人に尽くせる」非の打ちどころのないような素晴らしい母親だとしても、母は親としては、毒親なのだ。

何故か――それは恐らく、母が私を心から愛していると信じ込みながら、愛とは呼べないものを私に与え続けたからだ。

母は私を「大切に」育てた。
私は見た目を飾られ、必要なものは買い与えられ、「世界で一番愛している」と言われながら育った。
食事を抜かれることはなかったし、勉強道具に困ることもなかった。旅行にも連れて行ってもらったし、美術館やコンサートにも、たびたび連れて行ってもらった。

母は私を大切に、大切に育てた。
自分の思い通りに動き、自分の意思に反することを決してしない、大事な大事な「お人形さん」として。

「クラスメートの男子に髪を引っ張られるのが嫌だから、髪を短くしたい」という私の希望は、却下された。母が自分の幼少期に、髪を長く伸ばしたかったのに、短くされていたのが嫌だったから、という理由で。
母は毎日丁寧に私の髪を編み込んで可愛らしく私を飾り続け、人目を引く髪型は、クラスメートの男子たちの興味をより強く惹き続けた。帰宅した時に髪型が崩れていると叱られるので、私は誰にも髪を触られないよう、毎日必死に男子達から逃げながら過ごした。

「学校には、汚しても怒られないような服を着ていきたい」という私の懇願は、却下された。母が自分の幼少期に、可愛らしい服を着られなかったから、という理由で。
母は家計をやりくりして、私の好みとは全く別の「センスのいい」服を買っては着せた。そんな服に少しでも絵の具や、泥や、草の汁の染みを付けて帰ると叱られるので、私は泣きながら、漂白剤の使い方を覚えていった。

母が「私のために」どこかに出かけるとき、私が「行きたくない」という意思表示をすると、烈火のごとく叱られた。場合によっては殴られた。母が私を連れて行きたい場所は、私が行くべき場所であり、それに異を唱えることは許されなかった。
母が「私のために」話したいときは、何時間でも話を聞き続ける必要があった。「その話には興味がない」「これ以上話を聞きたくない」という意思表示に繋がるリアクションは、全て禁じられた。母が話したいことは、私が聞くべき話であり、それに疑問を持つことは許されなかった。
母が「私に見せたい」何かをする時は、常にそばに控えている必要があった。母が手伝って欲しいと感じるとき、いつでも応えられるように。母が称賛を必要とするなら、きちんと供給するために。

母に一切のストレスを与えない、母にとって最高のパートナーとしての、今でいうなら「理解ある彼君」の役割を、私は記憶にある最初から、家にいる間中、常に強制されていた。
「母と離れて一人で過ごしていたい」という私の意思は、存在自体が許されなかった。

そして何が出来たとしても、誉められることは稀だった。
私が出来ることは基本的に「私の子なのだから当然」で、足りない部分を直すよう、母は熱心に指導した。外から高い評価を得た時、母は「流石私の子」「私にこれを教わっておいて良かったでしょう?」という言い方で、自分の満足を表現した。私自身の努力や才能は存在せず、私が外で得たプラスの評価は全て、私を産み、育てた母の功績だった。私はそれにずっと気付かず、不満を持つことさえしなかった。

たまに私が子供のよくある失敗を――例えば味噌汁をひっくり返すとか、鉛筆を失くすとか、学校に忘れ物をするとか、不用意な一言を発言してしまうなど――すると、ヒステリックに怒られた。即座に引っぱたかれるのは当然で、長時間怒鳴られたり、靴も履けずに家の外に締め出されるのも日常茶飯事だった。
感情の爆発が収まると、母は自分の幼少期に、母の弟、つまり私の叔父の、そういった失敗のせいで母がどんなに被害を被ったか、それがどんなに嫌だったかを、懇々と語った。
「理解ある彼君」である私は、母のトラウマを癒すべき存在だった。母のトラウマを刺激して、余計な傷を与えるなど、言語道断だったのである。

私は母に叱られないように、あらゆるミスをしないように、細心の注意を払って日々を送っていた。しかし、ミスを0に出来る日は稀だった。
忘れ物をしなかった日には、母への返事が遅れたという理由で怒られた。母の外出の誘いを笑顔で承諾出来た日は、オシャレな靴のせいで出先で足が痛くなり、母の気分を害したという理由で怒られた。母の数時間にわたる「お話」で、最後まで満足させられる相槌を打てた日には、コップの麦茶をこぼして怒られた。奇跡的にそういったミスがなくても、持ち帰ったテストが96点であれば、残りの4点を何故取れなかったかの説教と復習に2時間はかかった。
小学校低学年だった私にとって、「理解ある彼君」をしながら、子供らしい失敗の全てを避けるのは不可能だった。私の頭の中には日々増え続けるルールがどんどん蓄積され、何をすれば怒られるか怒られないか、何をしなければ怒られるか怒られないか、私は家にいる間ずっと、頭を巡らせているのに身動きが取れなくなっていた。

物心ついたころから、私の周りには薄い膜のような靄が、いつも漂っている感覚があった。母に強く叱られている時、その靄は濃く、分厚くなり、視界が狭まり、あらゆる感情や感覚が遠ざかる。頬をぶたれた痛みも、怒鳴られる恐怖も、分厚い靄に覆われた「私の体」に起こっていることで、私自身は1mか2mほど後方からそれを眺めている、そんな感覚だった。恐らくは離人症、あるいはそれに近い何かを、発症していたのだろうと思う。

そして私が小学4年、満9歳になった年に、転機が訪れた。
父の浮気が発覚するという事件が起こったのだ。日頃父への愚痴を散々こぼしていたはずの母は、意外にも非常に動揺し、そちらに意識を向けた。結局離婚には至らなかったが、その後父は職場の都合か、関係修復のためか、毎日早く帰ってくるようになった。
父と生活時間が合うようになった私は、母と二人きりで家にいる時間がめっきり減った。ちょうど母がPTA活動を積極的にしていた時期でもあり、私が所属した金管バンドの活動もあって、私が「理解ある彼君」の役割を果たさねばならない時間は、平日も休日も殆どなくなった。つまり「理解ある彼君」を父が――ようやく、と言っても良いかもしれない――引き受けてくれるようになったのである。
それは私にとって、歓迎すべきことだった。私の周りの靄は徐々に薄れ、親戚に「国際電話」と笑われていた言葉の遅さも改善した。「失敗」で怒られるのは変わらなかったが、父が家にいる間は、叱られ方も普通の範囲に収まっていた。

そのようにして、10歳以降の私は、父のお陰で、ようやく家で「休める」ようになった。
父には感謝しているが、あえて言うならその「毒の中和」は、私には少々時期が遅すぎた。残念なことに。
その影響は今に至るまで、私に深く刻まれたままだ。

母の毒は、一言で言えばモラハラの類で、もっとDVや虐待、ネグレクトなど、物理的な要素の強い「毒親」に育てられた人にとっては、大したことはないように聞こえるかもしれない。親が毒親でなくても、経済的に厳しかったり、兄弟が多い環境だったり、親にもっと「大切に」されたかった人には、一見贅沢な状況に見えることもあるだろう。

だが、私にとっては間違いなく毒だった。外から見れば「大切に」育てられていた分だけ、第三者に気付かれる要素がなく、私自身も母が毒だと気付くのに非常に長い時間がかかった。
母は、私を物理的には「大切に」育てたが、私の精神を「大切に」はしなかった。母の最高傑作として、私自身の自立した意思は、どこまでも邪魔な要素だった。

もしも私がもっと違う個性の子供だったら、母は毒親ではなかったかもしれない、とどこかで思う。どんなに怒鳴られても殴られても、嫌なものは嫌だと泣き叫び続けるような、感情も自己主張も強い子供に生まれついていたら。あるいはもっと分かりやすい幼さがあり、母の「理解ある彼君」を務めることなど不可能だと、母から見ても分かり切っていたら。母は思い通りの子供を育てることを早々に諦め、「普通の親」になれたのかもしれない。
だが反対にもっと極端な、ネグレクトやDVなどの分かりやすい「毒」を振りまく親になったかもしれない。私が一人っ子である以上、この「もしも」を検証する機会は、ない。

私とは違い、自分の子供を本能から自然に愛せた母は、その「自分の子供への愛」ゆえに、私にとっての「毒親」になった。
私を他人だとは全く思わず、私を他人として扱う必要があるなどと考えたこともなく、ただ「ちょっと我儘な少女」のまま、私と一緒にいる時間を――本来「育児」をすべき期間を、母は「お人形遊び」をすることで全力で楽しんだ。
自分の子供といることは、母にとってストレスではなかった。母のストレスになる要素を一つ一つ丁寧に叩きつぶし、母が一緒にいて楽しい人間として「作られた」私は、母の満足と引き換えに、自我の形成に多大なダメージを負った。

母にしてみれば、「私は一生懸命愛して子供を育てたのに、なぜ”毒親”などと言われなければいけないのか」としか思えないだろう。

だが、母の愛は「自己愛」だった。
子供への愛のようでいて、その愛は母自身を満たすために使われていた。
「母にとって都合が良いか悪いか」でしか判断されなかった私の「個」は、やはり愛されてはいなかったのだ。

母が与えてくれなかった分の愛を、私は友人から、学校や職場などの社会で関わった人々から、異性から、そして自分が産んだ息子から受け取った。それらの愛が私の自我を形成するのに必要な量を満たしたとき、私はようやく「母からの愛」が正しくなかったことに気付き、母から「正しい愛」を得ることを諦めることが出来た。と、そう私は思っている。

子供の身だしなみをきちんと整え、適切な食事を与え、子供を「可愛がって」いるように見える親でも、子供に毒を与え続けるならば、間違いなく毒親だ。そして母のように、自分の子供を「自分自身であるかのように」愛することが出来る人が、その「愛」ゆえに毒親になる、というケースは他にもあると思う。

そんな親が、そんな毒に浸されて育つ子供が、どうか一人でも減りますように。
そうして育ってしまった子供が、一日でも早く、親が毒だったことに気付いて、自分自身を取り戻せますように。
そう願ってやまない。


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