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夫が自分を大事にできるようになったとき、私はもっと楽になる

夫が主夫になって9カ月。
当初は、家事が苦手だった夫の変化などを備忘録的に書き連ねていこうと思っていたのだが、実際に夫の変化について書くことはこれまでにほぼなかった。

家事・育児の分担や生活費がどうなっているのか、夫がつくる料理の変化など、そんなことをもっと書いていけばいいのにと言われると確かになぁと思うのだが、書くほどのことは何もないのだ。

現在の夫の家事力

もちろん夫の家事力は信じられないほどに上がっている。
私もつくったことのない野菜たっぷりのスープカレー、刺身の切り落としを少し炙ったものに大葉とミョウガとワサビと胡麻を添えた出汁茶漬け、大根の葉も人参の葉も余すことなく使ったチヂミ。いつからかクックパッドのことを「クックパッド様」と呼ぶようにもなった。

どのスーパーでは何曜日に何が安く、どのドラッグストアでは毎月〇日にポイントが何倍つくかを把握し、貯めたポイントでちょっといいトイレットペーパーを買った時なんて嬉しそうに報告してくれる。

そんなこんなで、9カ月前は朝食に厚揚げとバナナを出していた夫は別人レベルに変わったわけなのだが、ここにきて、私が本当に夫に求めていたことは家事でも育児でもなかったのだと今あらためて思っている。
(ほぼ全ての家事と子育てを夫に任せておいて何を言う、というのは伏して謝りつつ置いておく)

あらためて、本当に欲していたものとは

この9カ月で一番大きく変わったことは、夫婦喧嘩が減ったことだ。

「たまには迎えに行ってよ」
「あなたが休んで子どもを病院に連れていってよ!」
「よく飲み会になんて行けるよね」

お互いに会社勤めだった頃、夫・会社・社会・自分に対する、声が震えるほどの悔しさや怒りや不安ややるせなさから、一番身近にいる夫にはどれだけ声を荒げてきたか分からない。

会社では時短勤務だからこそ時間内にみんなと同じくらいの成果を出せるよう、早く帰る分誰かに迷惑をかけることのないようこれまで以上に集中し、それでも給与は当たり前に下がる上に早めに退勤することに引け目を感じては「ごめんなさい」と「ありがとう」を交互に唱えて頭を下げ、それでも電車を降りたら子どもが寝るまでもうひと頑張りしなくてはいけない。

夫は当時から協力してくれている方だったが、それでも「なんで私だけ」は消えることはなかった。
結婚して出産することを決めたのは私だろう、分かっていたことだろう、と、誰かに言われて傷つく前に自分に言い聞かせては、それでも納得がいかない私は我が儘なのだろうかと、自分も夫も子どもも嫌いになりそうだった。

それでもこのケンカは、もし夫が家事育児を私と同じくらいにやってくれていたならばすることはないケンカなのだろう。そんな風に思っていた。
(ちなみに私は夫婦喧嘩は体力がもつならばどんどんした方がよいと思っている方だし、今でも子どもがため息をつくほどの盛大なケンカをすることもしばしばある。)
夫婦喧嘩の話はこちら

しかしこの9カ月の間、お互いに家事よりも、なんなら子どもの寝かしつけなどの子育てのルーティンよりも大事にしていたのは、二人で話す時間だった。

話し合いとかではなく文字通りただ話すだけなのだが、何が面白いと思っているとか、この仕事は凄く緊張したとか、あのラーメン屋の名前が思い出せないとか、欲しいスニーカーがあるとか、息子の長靴が信じられないほどボロいから貧乏と思われている可能性が高いとか、農作業用長靴と目立つように書いておけば解決だとか、娘って体調が悪いと二重瞼になるよねとか、言いにくいんだけど亮ちゃん(夫)の後頭部最近ちょっとアレじゃない?とか、マジか、とか、アレって言っても伸びてきたねってことだよ、とか、そんな話だ。

夕方になってまだご飯を作っていなくても、お風呂も洗っていなければ朝の食器さえもそのままになっていても、洗濯終了を意味するメロディーが鳴り終わってしばらくしてからも、今話したいことがあるならただ話すのだ。

もちろん何かをやりながらでもいいのだが、なんとなくこっちの方が大事なように思っている。
(しかしながら先ほど会話内容を書き出してみて、何となく会話より家事や育児を大事にした方がいいようにも思えてきて若干心が揺れ始めていることもまた事実だ)

あらためて、私が本当に欲しかったのは、自分と同じくらい家事育児をする夫でもなければ、家の中が整頓されていることや、料理する時間や子どもと向き合う時間でもなかったのだと思う。
私たちには、くだらないこと、そして深刻なことをただただ話す時間が必要だったのだ。

その時間さえもつことができていたなら、もちろん今でも汗ばむような激しいケンカをすることはあれども、家の中がちょっとアレでも、料理がちょっとアレでも、洗い物がちょっと溜まっていても、子どもの寝る時間がちょっと遅くなっても、なんかどうでもよいことだったのだなと今は思う。

そして、ただただ沢山話したこの9カ月は、男性がもっと自分を大事にできるような世の中になれば良いなと強く思った期間でもあった。

男の人は、歩みを止めて人生について考える機会というのがほとんどないように思う

もちろん人にもよるのだろうが、男の人は、歩みを止めて人生について考える機会というのがほとんどないように思う。

私は物心ついた時から結婚も出産も強く願ったことは無かった。
結婚前に妊娠が分かった時は、喜んで両家の親に報告する夫を横目に「すみません、妊娠した以上産みますが、結婚はしません」と両家の親にメッセージを送り逃げ出した。

こういうことを言うと、子どもがかわいそうだよ、とか、欲しくてもできない人がいるのにそういう発言はよくないよ、とか、いくら本当のことでも子どもの耳には絶対に入れないで欲しい、などと言われることが多いのだが、そんな意見を受け止めつつも、逃げた当時の自分を隠すつもりはない。

いつか我が子に聞かれたならば、「あなたを妊娠したときに、お母さんは本当は逃げ出したいほど怖かった。このような不安を抱えていて、とても弱かった」ということを、今は産んだことを心からよかったと思っているということと共に伝えるつもりだ。

私の両親は子どもから見ても仲が良い方ではあるのだが、そんな両親を見ていてもなお私が結婚・妊娠・出産に前向きになれなかったのは、それによって女性の人生が変わることや、それまでの歩みが半ば強制的に止まってしまうことをなんとなく、でも確信に近い予測ができたからだ。

結婚前から、世の中には母親向けのサポートサービスがなんて多いのだろうと思っていた。
このように手厚いサポートサービスがあるということは、これらのサポートがなければ女性が出産して働くなんてことはとても困難なことなのだと、とても自然な流れで心に染みついていった。

当時若かった私にとっては、母親向けのサポートサービスの多さこそが結婚・妊娠・出産を躊躇してしまう一つの材料になっていたのだ。

テレビや雑誌を見ても、母親を応援する人や記事が多ければ多いほど、今後自分の人生に起こりえることが比較的リアルに想像できた。
サポートする対象がはっきりと母親であるという時点で、子育てをするのは主に女性だということが前提の社会なのだなと受け止めた私は、優しいようでなんて優しくない社会なのだろうと思っていた。

男性がもっと自分を大事にできるような世の中になって欲しい。
そんな思いをしっかりと認識したのは、この9か月間何気ない会話を夫と何度も重ねたからだ。

亮ちゃんはどうしたい?亮ちゃんは何したい?

幾度となく夫に聞いてきた。
そのたびに「そうやなぁ…」などと困っているのか笑っているのか分からないような表情のままいつまで待ってもはっきりと答えない夫に、どうして自分のことが分からないのだろうと苛立ちさえ覚えることがあった。
(いや、穏やかぶった。実際にはその表情を含めて腹立たしさしかなかった。)

じゃあ、会社員になる前はどう生きていきたいと思っていたの?

私がそう聞いた時の彼の一言で、なんとなく私と夫の違い、もっと言えば、飛躍しすぎかもしれないが、もしかしたら女性と男性の違いの根っこに触れたような気がしたのだ。

「自分の生き方や人生について考える機会なんて、そもそもあまりなかったよ。就職活動中や転職を考えている時には漠然と考えるけど、わざわざ足を止めてまで生き方や人生について考えたことはないかなぁ」

夫のこの一言は、前から分かっていたような、でもあらためて初めて知ったような、不思議な一言だった。

「働き続けるということは男性にとっては揺るぎない義務で、結婚して子どもができたらそれはもうなおさら当たり前で、面白い人生を歩んでいる人の本を読んでこんな人がおるんやなぁと思うことはあっても、そこに自分もそうしたい・したくない、はないというか」

と夫はコーヒーを飲むためのお湯を沸かしながら何でもないことのように続けた。

私が妊娠・出産で女性の人生が大きく変わると自然と信じていったように、男の人も、いつの間にか「男性とはそういうものだ」と信じていっているのだろう。

なるべく弱音を吐かず、自分の幸せがどうとか、辛い、やりたい、やりたくない、とかではなく、組織や家族を守るために働き続けるのだと。

人生について足を止めて考える機会が少ないということは、自分自身を大事にできる機会が少ないということなのではないだろうか。

妊娠・出産によって足が止まることがあった私は、自分の生き方についてこれでいいのかと何度も何度も考えてきた。
それが自身から湧き出る怒りや悲しみや焦りからの問いだったとしても、それによって何度も何度も自分の心を確認して、自分と家族を大事にできる道を模索してきたのだ。

育児をする母親たちの孤立は問題だから、母親を支える必要がある。
母親を支えるということは、子どもを支えるということ。
子育てをする母親が働きやすい社会に。
出産・育児に対する知識や情報が不足しやすい父親は、ストレスで苦しむ母親をしっかりとサポートできるように父親向けの講座を受けよう。

そういうことなのだけど、そういうことじゃ多分ないと思うのだ。

私自身産後様々なサポートを受けてきた母親として、このような制度やサービスには深く感謝しているし、産褥期などは誰かのサポートなしでは日々を送れないほど体はボロボロだった。

それでも、母親と同じくらい父親もサポートの対象にならないと、よく謳われる「家事・育児の平等」は実現しないのだろう。

家事育児をする母親に、父親が「手伝おうか?」という言葉をかけることがNGとされるのは、そこに家事育児を主にするのは当然母親であるという意識が透けているからだ。

この声がけがNGなことは社会的に認知されつつあるのに、家事育児をする母親に「手伝おうか?」と社会が声を掛けるというのは、それではないのだろうか。

母親ならではの悩み、父親ならではの悩みは物理的にあると思う。
男女で分けずに両親向けのサポートサービスにするべきだ!といいたいわけではなくて、もしも母親向けのサポートサービスと同じくらい父親向けサポートサービスが社会に増えていったならば、家事育児は母親と父親でするのだと自然と信じていく若い世代が増えていくのではないかと思うのだ。

そしてそれは、男女が同じように自分の人生について考える機会が増えるということだ。

人生で一度足を止めたならば、男性の方が元の社会には戻りにくくなるのは確かだ。
父親が立ち止まって人生について考えられるようなサポートサービスが充実しなければ、母親もまた同じような苦しさを何世代も繰り返さなくてはいけないように思う。

今夫は楽しそうに過ごしてはいるが、日中に子どもを連れて情報交換がてら話せるママ友がいるわけではない。
私が比較的在宅で仕事ができるフリーランスじゃなかったならば。
男性の孤育ては、どうなるのだろう。
承知で選んだ道でしょう、と言われるのだろうか。
そう言われて傷つく前に、自分に言い聞かせ、納得したふりをしていくのだろうか。

息を吐くように不平不満を言う私だけれど

息を吐くように不平不満をいう私だけれど、不平不満だけをぶつけ「誰かこんな世の中に、そんなサービスをつくってよ」とだけ言うことがいかに簡単で無責任かということは知っている。

難しい。
実際の需要の有無や、あったところでサービスを利用しないことが予想できる夫の行動など、考えても考えても難しい。
でも引き続き考える。

男の人がというよりも、夫や息子がもっと自分の考えや人生を大事にできるように。
娘が「出産・育児は女性の人生を大きく変えるもの」だけではなく「出産・育児は夫婦の人生観を大きく変え、夫婦のこれからのキャリアを変えていくもの」とも思えるように。
何より私が、今よりもっと心地よく暮らすために。

そんな話をしながら、ランチにレディースセットを頼んだ私に「デザートにコーヒーまでついてええなぁ」という夫。
「いいじゃん、男の人はご飯大盛りでお願いしますとか普通に言えるんだからさ」と返したところ、ご飯大盛りは女性でもできるから見栄の問題だと論破されたとんかつ屋でのある日のこと。

おわり。

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