「豊かさに対して足りないということが貧しさか」そんな言葉を思い出した今日は、これからの生活に必要な一日だった(家族移住体験:栃木県大田原市#3)
昨夜から、なんとなく嫌な予感はしていた。
仕事が終わらない。
完全に私の考えが甘かった
仕事なんていつだって終わらないのだが、その日にやろうと思っていたことの半分もできていないのだ。
昼間に終わらなかった仕事は夜にすればいいと思っていた。
家族で部屋が一つでも大丈夫だと思っていた。
Wi-Fi環境がなくてもデザリングすればどこでも仕事ができると思い、コワーキングスペースを調べておかなかった。
初日から大はしゃぎする子どもたちを見ていて、そしてこののどかな環境に欲が出て、のんびりと遊びたい気持ちがでてきていた。
こういった生活に慣れてきたと思い込んで、この期間中、自宅だったとしてもバタバタするようなスケジュールで仕事を詰め込んでいた。
完全に私の考えが甘かった。
夫婦でしている仕事もあり夫と話しておきたいことも沢山あったけど、これだけ四六時中いるのに十分に話す時間がない。
子どもたちがワーキャーしていて途中で話を中断せざるを得ず、「あれ、これはどこまで話したっけ?」みたいになったり、そんなことを繰り返していると夫と話すこと自体が面倒になったり。
夜に仕事や話をしようにも、ひと部屋だと電気が眩しくて声も響くので子どもたちがなかなか寝付けない。
そんなこんなで昨日は早めに電気を消してこどもたちと一緒に寝て、朝4時前に起きて仕事を始めた本日。
かなり甘めの珈琲を飲み、イライラしていることに気づく早朝
家のテーブル近くの、PC作業に便利な距離にあるコンセントは、他の必要な機器に繋ぐために埋まっていて抜くことが難しい。
1つだけ空いているコンセントにPCを繋ぎ、デザリング中はかなり電池の減りが早いスマホをPCを通して充電しながら仕事をする。
そのうちPCもスマホも心配になるほど熱を帯びてきて、こまめにPCとスマホを休ませる。
子どもたちが寝ている間に仕事を済ませようと思って早起きしているのに、作業の手間は普段の倍。せっかちな私の左指の爪が、カチカチカチカチと机を鳴らし始める。
今までサクサクと出来ていたことだし、便利なことでも何でもないようなことと思っていたのに、それができないだけでこんなにザワザワしてしまうのか。
朝5時にかなり甘めの珈琲を飲んで自分を落ち着かせようとしている時点で、「私、多分相当焦っているな、イライラしているな」と思った。
当たり前のことだが大田原市は何も悪くない。
このアウトドア客用のキャビンにWi-Fi環境がないことは当たり前のこと。
なのに、私の準備や計画ミスのせいで、この緑が多くてのどかで素敵な場所でイライラして過ごしたくない。
どこかで気持ちをリセットしないと危ない。
子どもたちが早めに起きてきた。
あー、朝の仕事はここまでか。
朝食の時間も惜しく思ってきている。
1回目の心のリセットは、バルコニーで食べたアブラヤのパンで。
夫はそんな私を察してか、気分があがるようにバルコニーに朝食をセットしてくれた。
やっぱりこの緑が広がる風景は美しくて、外を少し散歩すると、かすかに牛の鳴き声も聞こえてくる。
今までは少し苦手だった放牧場のにおいまでもが、私のカチコチでザワザワでトゲトゲな心を和らかくしてくれた。
この風景と牛の鳴き声は、自分をリセットすることが苦手な私にとって、間違いなく大田原市で生活や仕事をする上でのメリットの一つ。
私の仕事中に夫と子どもたちが買ってきてくれたパンは、大正12年に創業された老舗パン屋「アブラヤ」さんのパンだ。
昔懐かしのコッペパンが有名な人気店で、添加物を使っておらず体にも優しいパンを販売している。
お店の方が子どもたちに良くしてくれたようで、様々なおすすめスポットを紹介してもらったとのこと。元気すぎる私の子どもが、
「お店の人ね、すんごく元気な人でね、いっぱい色々話してくれたよ!とにかく元気!」
と驚くほどなので、よほど元気な方だったんだろう。
この時、私も行っていればよかったんだ。あんなに行ってみたいなと思っていたパン屋さんだったのに。行きたかったのは美味しさだけを求めてじゃなくて、きっと何かが起こる気がするから行こうと思っていたはず。
焦っている時や、心がざわついている時の私の選択は間違いやすい。
それでも、滞在中に一度は食べたいと思っていたパンも美味しく食べれて、ここ数日は雨続きだったけど天気は回復に向かっていて、今日はやっと曇りになった。風は冷たすぎずちょうどいい。
いい調子だ。いや、自分に言い聞かせている時点でちょっとまだアレか。
行き違いから始まった午後の仕事
朝食後は午前中にラフなオンラインミーティングをし、その後は〆切が迫っている仕事に取り掛かる。お昼は冷蔵庫に余っているものをつかってゴマダレ冷やし中華を作り(例によって夫が)、またもやバルコニーで食べ、
もう一つミーティングを挟んだら、午後のミーティングでは落ち着いて話をしたいため昨日下見させてもらった「カフェaz」2階のフリースペースへ向かう。
ところが、ここでトラブル発生。
フリースペースまでは車で5分と認識していた私と、ちゃんと車で15分と伝えたよ、と言う夫。
5分で着くと思っていた場所が15分かかるとなると、今から出たらネット接続の準備や心の準備など含めてギリギリだ。
話を中断しているうちに面倒になってしっかりと確認していなかったのは自分なのに、分かっていてもただただ夫を責めたくなって、空気がかなりピリピリする。
やっと到着し、Wi-Fi設定などに手間取りながらも無事準備が整い間に合った。
2回目の心のリセットは、素敵なフリースペースと、仕事スイッチを入れて話す人を変えることで。
あらためてフリースペースを見渡して、映画に出てきそうな空間にあんなに逆立っていた心が落ち着いてくる。
仕事をする空間が素敵なことが、こんなに瞬時にに気持ちを落ち着かせてくれるとは思わなかった。
ミーティング自体も、私をリラックスさせた。
場所を変えて、しっかりと落ち着ける空間で仕事の心をオンにして誰かと話すことで、夫に対する八つ当たり的なイラつきを反省し、もう一度リセットすることができたのだ。
打ち合わせをさせてもらった方々の人柄や話が、私にとってとても刺激的なものだったことも関係あると思う。
ミーティングが終わり、急いでカフェスペースに降りるとカフェasのオーナーさんと話し込んでいる子どもたちが見えてきた。
私のミーティング中は、夫と子どもたちは益子さんに教えてもらった中央多目的公園へ。
噴水広場や遊具が充実している公園らしくて、どんなに楽しい公園だったかを教えてくれる子どもたちは、思い出しては興奮さめやらぬ様子だった。
そんな表情を見て、私も素直に嬉しく思い「あ、私落ち着いてきているな」と思った。
(しかしその直後、またぶり返す。ここで仕事をやめておけばよかったのだなぁ)
3回目の心のリセットは、温泉で地域の人と挨拶を交わすことで。
近くの餃子屋さん「あらしの餃子」で、余った分は明日食べてもいいね、と冷凍餃子6人前を購入する。
せっかく餃子の話をしているのに車の中でも仕事を進めようとPCを開く私。
夫の、この景色いいね、とか、ここの○○が美味しいんだって、という言葉がどんどんすり抜けてく。
今日はバタバタしたりイライラしたりしてしまったので、仕事をなるべく整理しちゃって夜はみんなで楽しくゆっくりご飯を食べたいと思ったのだ。
家に着き、仕事は終わらないけどいったんPCを閉じて、近くの温泉に行くことにした。正直いうとまたしても時間が惜しく、今温泉に行くことは温泉大好きな子どもたちへの罪滅ぼし的な気持ちもあった。(今思うと、家族との温泉時間も惜しいほど重要な作業では決してなかった。)
温泉に入ると、学生くらいの女の子が、まるで私たち親子と昔から知り合いかのように挨拶してくれた。おばあちゃんたちもそう。
時間を惜しんで家のお風呂でシャワーで済まそうかなと思っていたけれど、温泉に来てよかった。
この温泉に入るのはここにきて3度目だけど、同じ方と3回会うなど、きっと地域の方々にすごく愛されている温泉なんだと思う。
3回会う方も初めての方も、みんな家族みたいに挨拶をして「おやすみね、お母さんもお姉ちゃんも髪の毛良く乾かしてね」「お母さんと一緒でいいわね」「夜はまだ寒いわね」「おやすみなさい、またすぐね」と帰っていく。
知らない土地の温泉で、家族以外の誰かと家族のように会話していることで、今私の心は穏やかになっている。
何があってもなくても「きてよかった」と娘はいうんだろう
帰る頃にはお腹がぺこぺこで、餃子6人前を全員で平らげた。一つも残らなかった。
昨夜、いつもなら寝る時間なのにまだ点いている電気に対して娘が「ちょっとー。眩しすぎなんですけど」とじゃれあうように言った時。
明日、娘と思い切り遊びたいから今頑張りたいのに、とまだ起きていたかった私は「消せばいいんでしょ。おやすみ」とキツめの態度で寝てしまったことをずっと後悔していた。
一日経った今、昨日の夜はごめんね、と言うと、何のことか分からなさそうに「見てー」と私の仕事中に描いたという絵日記見せてくれた。
まだ特に一緒に遊んだ記憶もない。今日なんてイライラしていた。でも娘のスケッチブックには「このおうちにきてよかた(よかった)」と書いてあった。
「二段ベッドとか、牛とか、温泉とか、元気すぎる人とか、おばあちゃんとか、うるさい虫とか、怖い銅像とか、人のいない公園とか、おうちにないものがたくさんあってすごく楽しいね」と娘が言う。
ちょっと面白くもあるセリフだけど、なぜか張りつめていた私の横で、めちゃくちゃにはしゃいでいつもうるさくて、夫からは
「なんでそんな近距離で(弟と)二人で話すだけなのに、そんなに叫んで話す必要があるんや!ここにいる全員耳痛いし他の音一切聞こえないやろ」と叱られて
「確かに―!」とその倍の声で叫んで答えてまた叱られて、とにかく叱られても常に笑い転げていた娘が、見たまんまの通り「楽しかったね」「きてよかったね」と言うから、なぜか泣きそうになってしまった。
「豊かさに対して、足りないことを貧しいというのか」
反省すべきは夜に仕事しようと思っていたことでもなくて
部屋が一つなことを大丈夫だと思っていたことでもなくて
コワーキングスペースを調べておかなかったことやデザリングが不安定だったことでもなくて
この場所で遊びたいという気持ちがでてきたことでもなくて、
ここでこの期間にどうしたってきちんと仕事をしなくてはいけないと思ったことだ。
自分たちの人生の中で「子どもを連れてどこにいても生活できるし変わらず楽しむこともできる」を体現したかっただけで、「どこでだってどんな環境だって同じように仕事ができる」ということを体現するためにこの生活をしているわけじゃない。
もちろん仕事はしなくてはいけないのだが、一日や一週間単位でここでの生活を見すぎてしまった。
娘はちゃんとここにあるものに目が向いていたのに、一人、あれがない、これがないと、いつもあるものがないということに対してバタバタしていた。大した問題でもなかったはずなのに。
ないのか、そうか、じゃあこれをしようか、でよかったんだ。
「豊かさに対して、足りないことを貧しいというのか」
正確ではないが、何かの本で見た一文。
確かになぁ、と思いながら読んでいたし、今も確かに、と思うけど
大田原市に来て今日一日を過ごして、豊かなのはどちらか、足りないのはどちらか、と言う感情が追加された。
張りつめた時こそ、踏ん張るよりも肩の力抜いた方が、色々見えるのかもしれない。
今日は、これから生活を送るうえで必要な一日だった。
牛の鳴き声、そして虫や蛙の鳴き声を聞いて、デザリングしながら明日のハードな仕事をサクサクとリスケする夜。
遊びにきているわけじゃない、にとらわれすぎていたかも。
仕事のためにきているわけでもない。
もう少しで「そう、それそれ!」とちょうどいい納得の仕方が見つかりそうな、そんな感じ。
明日は苺ミルクをつくりながら、今から何をする?とみんなに相談しよう。
つづく
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