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物語『僕は25歳の浦島太郎』

 若者がいきなり老人になってしまう物語。
 二十五歳のイケメン男子、由布コウタロウはランニングをしていて、九十歳のヨボヨボの老人、石川正弘とぶつかってしまう。意識を失って目が覚めると、コウタロウは九十歳になっていた。若さのエネルギーが老人に移転したのだった。コウタロウはもうすぐ死ぬ。『生きる意味とは何か?』、『本当の自分とは何か?』を問う物語。

第1章 二十五歳の僕が急に老人になる

 僕は「浦島太郎」。と言っても、本名じゃない。僕の本名は「由布コウタロウ」だ。二十五歳。
 じゃあ、なぜ「浦島太郎」だなんて言ったのか? それは、僕がいきなり老人になってしまったから。浦島太郎が玉手箱を開いて老人になってしまったように・・・
 でも、僕が急に年老いたのは、玉手箱のせいではなくて、一人の老人とぶつかってしまったからだった。


 三月十四日、満月の夜。僕は夜の街をランニングしていた。
 僕は福岡県・北九州市の門司港に住んでいる。門司港は九州の最北端で、関門海峡を挟んで本州に一番近い所にある。
 関門海峡に架かっている巨大な関門橋が満月に照らされていた。「きれいだな」と思いながら、僕は走っていた。
 僕のランニングコースは九州の門司港から本州の下関に渡って帰って来るというものだが、「関門橋」を渡るわけじゃない。関門橋は高速道路で、車や大型バイクしか通れない。
 僕は「人道トンネル」を使って、下関に行く。関門海峡を渡る道は「関門橋」だけではなく、実はもう一つ、「関門トンネル」がある。そして、このトンネルは上下二本に分かれており、上半分は車だけが走れる「関門トンネル車道」で、下半分は人が歩いて通過できる「関門トンネル人道」だ。
この「関門トンネル人道」は無料だ。なので、毎日、走っている。雨が降った日でも走れるし。
 僕はいつも会社で8時くらいまで仕事をする。そして、自宅のワンルームマンションに午後8時30分に帰宅して、ジャージに着替えて、ランニングに出発する。マンションの玄関を出て、しばらく門司港の街並みを走ってから、「関門トンネル人道」の入り口に入り、エレベーターに乗って、地下へ降りていく。そして、エレベーターを降りてから、「人道」を走る。全長780メートルのトンネルを走り終え、再びエレベーターに乗って陸上に出る。そして、本州の下関にある公園のベンチに座って少し休憩。それから再び「人道」を走り、門司港の自宅まで戻ってくる。これが僕のランニングコースになっている。
 その日、残業が長くなり、帰宅がいつもより遅くなった。僕は帰宅するとすぐにオレンジ色のジャージに着替え、家を出発した。午後9時15分だった。
 ランニングコースは、いつも通り。まず、門司港側入り口のエレベーターを降りて、地下道を走り始めた。「人道」は横幅4メートル。床は黄色で、壁は白、そして、天井は青。細長いトンネルを走ると、異次元にいる気分になる。
 地下道を400メートルほど走ると、人道の床には県境の白線が引かれている。海の底の県境だ。線の両側に、「山口県」と「福岡県」と書いてある。
 僕がちょうど県境の線を超えようとした時だった。山口県側から若い女性の3人連れが歩いて来て、すれちがった。彼女たちは一斉に僕の顔を見た。そして、僕の顔や肉体をジッと見続けた。熱い視線を感じた。こういうことは、よくあることだった。僕は友達から良く言われる、「コウタロウ。お前って得だよな。ルックスはいいし、体も筋肉質でカッコいいから」って。僕は思う、「顔や体格などがカッコいいかどうかの基準は、人によって異なるものだ。ある人にとってカッコいいものが、他の人にとってはカッコよくないものだっていうことは。よくあることだ」と・・・。でも、多くの友人から「コウタロウ。お前、イケメンでいいな」と言われると、まんざらでもない。
 僕は地下道の残り半分を走り、エレベーターに乗って、下関側の入り口に出た。そして、公園のベンチに座って腕時計を見た。なんと時計の針は「9時55分」を指していた。
僕は思わずつぶやいた。
「やべえ」
 なぜなら、関門トンネル地下道を通行できるのは10時までだからだ。急がないと、門司港に帰れなくなってしまう。僕は慌ててエレベーターに乗り、地下に降りた。そして、エレベーターのドアが開くとすぐに走り始めた。
 腕時計を見た。10時前3分だった。前方を見た。一人の男性が杖を突きながらゆっくり歩いて来ていた。僕は思った、「そんなペースで歩いていたら、トンネルが閉まってしまうよ」と。
僕はどんどんスピードを上げて走る。こちらに向かってくる男性を見た。髪の毛がまっ白で、背骨が曲がった、ヨボヨボの爺さんだった。ヨタヨタと歩いて来る。
 県境の線が近づいて来た。目の前に老人が歩いている。薄汚れた緑色のジャージを着ている。目がギョロリと大きい。身長は150センチくらいで、ガリガリに痩せている。とにかく、足元がおぼつかない。今にも倒れそうだ。
 老人が僕から見て向かって左側を通行していた。それで、老人にぶつからないように僕は人道の右側を走ることにした。ところが、老人は右にヨロヨロとよろけと思えば、左にヨロヨロとよろけながら、歩いてくる。老人が右に行ったり左に行ったりを繰り返すので、僕は人道を左に寄ったり右に寄ったりして前進した。
 僕と老人がちょうど県境の線の上に到着した時だった。老人が僕から向かって左側によろけてきたので、僕はとっさに右側に飛んだ。しかし、その時、老人が僕に向かって倒れてきた。
「アアー! 危ない!」
 そう叫んだけど、遅かった。僕と老人はドシーンと正面衝突。僕はバランスを崩し、人道の右側の壁に頭をぶつけた。そこまでは覚えている。
 それからどれくらいの時が経ったか、わからない。一瞬だったような気もするし、何時間も過ぎたような気もする。頭が痛くてたまらず、僕の右手は頭をさすった。そうして、僕は目を開き、意識を取り戻した。
 辺りを見回して、自分がトンネルの人道にいることを思い出した。そして、僕は人道の床を見た。
「アアッ!」
 思わず叫んでいた。若者が床に倒れていたからだ。黒い髪の毛がフサフサはえている男性。その目は閉じられている。薄汚れた緑のジャージを着ていた。しかし、体がでかいわりには、ジャージは小さく、窮屈そうだった。
 僕は立ち上がろうとした。しかし、体が重たい。力をいれてなんとか立ち上がり、若者の顔の近くにひざまずいた。
「大丈夫ですか?」
 僕は若者の肩をポンポンと叩こうとして、右手を若者の肩に当てた。その時、僕は自分の右手を見て、ギョッとした。なぜなら、自分の右手が皺だらけで、シミだらけだったからだ。僕は自分の足に視線を送った。それは「僕の足」ではなかった。筋肉はなく、細くてカサカサの足だった。
 僕は両手で自分の頭と顔を触ってみた。髪の毛は明らかに減っている。髪の毛を掴んで見てみる。真っ白だ。両手の手の平でほっぺを触ってみる。皺だらけで、カサカサだった。
 視線を全身に送った。自分が着ているスポーツウェアはオレンジ色で、まちがいなく「僕のもの」だった。しかし、ジャージの下の肉体は「僕のもの」ではなかった。筋肉のない、骨だらけの手と足・・・
 僕は二の腕にアームバンドで取り付けていた携帯を取り外して、手に取り、カメラで自分の顔を見た。その瞬間、全身が凍りついた。そこに映っていたのは、百歳くらいの老人だった。
「うああ~」
 僕の口から唸り声が飛び出て来た。僕の声が、誰もいない人道でこだました。
 目の前に倒れていた若者が目を開けて、僕を見た。そして、叫んだ。
「一体、どうしたんだ?」
「僕が・・・、僕が・・・、老人になっている」
「どういうことだ?」
「僕は二十五歳なんだ。それなのに、今、僕の見た目は百歳に見える」
「本当に?」
 僕は目をこすって、もう一度、携帯で自分の顔を見た。
 若者が言った。
「ちょっと、その携帯電話、ワシに貸してくれ」
 若者が僕の携帯を受け取って、自分の顔を見た。そして、画面を見るなり、口をポカンと開けたまま、何もしゃべらない。
 僕は尋ねた。
「一体、どうしたんですか?」
「そんな、バカな・・・。ワシが若くなっておる」
 僕は大声でしゃべった。
「え? 若くなっているって。それじゃあ、僕は歳を取って、君は若くなったっていうこと? 一体、何が起こったんだ? わからない。わからない。誰か、助けてくれ」
 若者は胸の前で腕を組み、「うーん」と唸ってから、顔を上げた。
「ワシとお前さんがぶつかった拍子に、お前さんの体の中にあった『若さ』がワシの体の中に移転したのかもしれない」
「しかし、人と人の間で『若さ』が移転するなんて、ありえない!」
「普通は、そうだよな。でも、現実に今ここで・・・」
 涙が勝手に流れ出してきて、僕の口から嗚咽が漏れ始めた。
 若者が右手の手の平で僕の背中を優しくさすりながら言った。
「落ち着いて・・・。ゆっくり深呼吸を繰り返すんだ」
「これが落ち着いていられますか!」
 若者は腕時計を見てから言った。
「とにかく、外へ出よう。もう十時を過ぎている。人道の出入口が閉まってしまう」
「はい」
「お前さんは門司港の方に向かって走っていたな。ワシは下関に家があるが、仕方がない。ワシも門司港に行こう。とにかく、ここから出て、ゆっくり話そう」
 若者はそう言うと、杖をつかみ、人道を門司港に向かって歩き始めた。僕もその後ろについて歩き始めた。しかし、普通に歩くことができない。膝が痛くて、僕は一歩一歩ゆっくりとしか歩けなかった。
 若者は振り返って、僕を見た。
「この杖、使っていいぞ」
 僕は頭を下げた。若者から杖を受け取り、それを使って歩いた。
 僕達はエレベーターに乗って地上へ出た。そして、出入口近くの道路に座り込んだ。
 僕が若者の顔を見た。若者は右手で頭をポリポリと掻きながら、黙っていた。
 僕は尋ねた。
「これから、一体、どうすればいいんだ?」
 若者は顔を上げて、僕を見た。
「とりあえず、お互いに自己紹介をした方がいいと思う」
「はい」
「ワシの名前は石川政弘だ」
僕は頭を下げた。
「僕は由布コウタロウです」
「由布くん、お前さん、歳はいくつなんだ?」
「二十五歳です」
「二十五歳! 若いな。もし、ワシとお前さんがぶつかったことをきっかけに若さが移転したとしたら、もしかしたらワシは二十五歳に若返ったのかもしれんな」
 僕は顔をハッと上げた。
「石川さん! 石川さんは何歳なんですか?」
「ワシか? ワシは九十歳じゃ」
「九十歳・・・。ということは・・・」
 石川さんがうなずいた。
「もしかすると、お前さんは九十歳の老人になった・・・ということになるのかもしれない」
「そんな・・・。冗談じゃない。僕は二十五歳にもどりたい。どうしたら、元に戻れるんだ?」
 石川さんは右手の人差し指の先を額に付けて、目を閉じた。しばらくして、目を開いた。
「どうしたらワシとお前さんが元に戻る方法は何か・・・、解決策をはっきりさせるためには、原因がわからなければならないと思う。ワシが若返り、そして、お前さんが年老いた原因は、どう考えてもワシとお前さんがぶつかったことだ。二人がぶつからなければ、こんなことにはならなかったはずだ。だとしたら・・・」
 僕は唾をゴクンと飲み込んだ。握りしめた拳の指先の爪が肌に食い込んでいく。僕は石川さんの目を見つめたまま、言った。
「だとしたら・・・僕と石川さんが元に戻るためには、再びぶつかるしかないのでは? その拍子に、二人の中にある何かが移転するのではないですか!」
「そうかもしれんな」
「だから、今からぶつかってみましょう」
 石川さんは舌を口から出して、上唇とペロリと舐めた。
「そうだな。やってみるか・・・」
「お願いします。それじゃあ、石川さん。僕から十メートルほど離れて、走って来て下さい。そして、僕にぶつかって下さい」
「おう」
 石川さんは立ち上がり、僕から離れ、手を振った。
「オッケー? じゃあ、行くぞ」
 石川さんが走って近づいていく。こめかみの血管がドクドクと波打っている。石川さんがどんどん大きくなってくる。僕から一メートル。
「ああ、ぶつかる!」
僕は思わず目を閉じた。
 僕の頭と胸に衝撃が走った。次の瞬間、僕は後ろの倒れ、お尻、背中、後頭部を地面に打ち付けた。
 石川さんが僕に近寄ってきて、抱き上げた。
「大丈夫か?」
僕は思わずお尻をさすった。
「お尻が痛い」
「まさか骨折?」
「そんなはずないと思います。たかが倒れたくらいで・・・」
 石川さんが大声で叫んだ。
「何、言ってるんだ! お前さんは二十五歳の若者じゃないんだぞ。老人の骨折は死に直結するって、知らないのか?」
 僕は石川さんの手を借りながら立ち上がった。
「ダメだ。僕は老人のままで、石川さんは若いままだ」
「もう一度、やってみたいか?」
 僕は目を閉じて、大きく深呼吸した。そして、目を開いた。
「いいえ。今日はもう、やめときます。でも、またいつかチャレンジしたいです」
「そうか。ところで、質問があるんじゃが。
トンネル人道は閉まってしまった。もうワシは下関に帰れない。ワシは下関の家に帰れない。どうしたらいい?」
僕はしばらく考えてから言った。
「タクシーに乗って、関門海峡を通って、下関まで帰って下さい。タクシー代は僕が出します。僕のマンションはここからすぐ近くですから、来て下さい」
「いいのか?」
「はい」
 それから僕は正弘をマンションまで連れて行った。そして、タクシー代を渡して、言った。
「僕は早く元の体に戻りたい。そのためにどうすればいいか、わからない。でも、とにかく、今後、君と連絡を取る必要があると思うんだ。僕の電話番号を教えるから、あなたの電話番号を教えてください」
「そうだな」
 僕は石川さんの電話番号を聞き、自分の携帯番号を教えた。
 それから、石川さんはタクシーに乗って、下関に帰っていった

第2章 僕は病院に行く

 石川さんと別れた翌日、僕は会社に行かなかった。と言うか、行けなかった。僕は思った、「二十五歳だった僕がいきなり九十歳の老人になって、そして、出勤して、『僕は由布コウタロウです。老人とぶつかって、いきなり老人になってしまいました』と言っても、誰も信じてくれないだろう」と・・・。
 それから、僕はネットを検索しまくった。
すると、「早老症」という病気があるとわかった。それは、別名、「早期老化症」とも呼ばれ、文字通り、「早期老化を引き起こし、余命が短くなる」病気だった。つまり、この病気にかかった人は老化過程が著しく加速される。具体的には、この病気を発症した人は、「ハゲになり、腰が曲がり、皮膚が渇いてシワがよってくる」などの老人のもつ外見的特徴のすべてが発生する・・・ということだった。
 さらに、この「早老症」というには約十の種類があるということがわかった。代表的なものは「ハッチンソン-ギルフォード症候群」と「ワーナー症候群」だということがわかった。
 そして、僕は思った、「僕はもしかしたら、『ウェルナー症候群』かもしれない」と。なぜって、「ハッチンソン・ギルフォード症候群」の方は幼児期に始まり、ほとんど十代で死亡するということだけど、「ウェルナー症候群」の方は青年期または成人期の初期に発生するということだったから。僕は二十五歳で老化の症状が進んだのだから、どう考えても、「ウェルナー症候群」だろう。それに、「ウェルナー症候群」は日本人に多い病気で、全世界での報告例のうち、六割が日本児であるとのことだ。おまけに、「ウェルナー症候群」以外の他の早老症は日本人の報告例は異常に少ないとのことだった。
 僕は思った、「僕が今日、早老症を発症したのなら、たぶん『ウェルナー症候群』だろう。それなら、僕はサイトに書いている通り、内科か皮膚科に行った方がいい」と・・・。
 
 ということで、翌日の十時、僕は近所にある「吉田皮膚科」に行った。
 吉田先生の診察室に入って、すがるような気持ちで僕は言った。
「助けて下さい。僕は困っています。これから僕が話すことは本当のことなんです。信じて下さい。そして、僕を元の姿に戻してほしいんです」
 黒メガネをかけた四十代のおじさん先生が目を細めて僕を見つめた。そして、低い声で僕に尋ねた。
「どうしたんですか?」
 僕はフーッと息を吐き出してから言った。
「今、僕の見た目は九十歳くらいに見えると思うんですが、実は僕は二十五歳なんです」
 先生の全身がピクッと震えた。そして、口をポカンと開いて、目を大きく開いたまま、僕を見つめた。
 僕は唾を飲み込んで、しゃべり続けた。
「どうか、最後まで僕の話を聞いて、そして、信じて下さい。昨日の夜までは僕の外見は二十五歳の年相応に若いままだったんです。ところが、夜になって、僕はランニングをしている時に老人にぶつかったんです。そして、気を失って倒れてしまいました。それから、意識を取り戻した時、僕の見た目は九十歳の老人のようになってしまっていたんです。そして、目の前にいた老人が若い青年に変身していたんです」
 吉田先生は目の玉を大きく開いたまま、僕に向かって言った。
「それじゃあ、老人にぶつかる前までは若かったのに、ぶつかってからは老人になっていたというんですか!」
 僕はうなずいて、吉田先生の顔を見た。吉田先生は、頭をかしげて、僕の目を見つめた。
「それは、ちょっと・・・」
 僕は叫んだ。
 僕は老人に急になってしまって、家に帰ってパソコンのサイトを開いて、調べたんです。そしたら、『早老症』という病気があることとがわかりました。そして、『早老症』の中での『ウェルナー症候群』という病気に僕はかかってしまったんじゃないかと思うんです」
「由布さん。すみませんが、しばらくの間、席を外させてもらいます。『ウェルナー症候群』についてちょっと調べてさせてください」
 そう言うと、吉田先生は診察室から出ていった。
 吉僕は診察室で待たされた。そして、長い長い時間が過ぎていった。僕はフーッと息を吐き出した。その時、吉田先生が診察室に戻って来た。
「由布さん。お待たせしてすみません。結論から言うと、大きな総合病院への紹介状を書きますから、そちらで検査をしてもらって下さい」
「検査?」
「はい。遺伝子の検査をしてもらって下さい」
「なぜですか?」
「この病気は常染色体劣性の遺伝的早老症です。具体的に言うと、この病気はRecQ型のDNAヘリケースをコードするWRN遺伝子の変異により発症します」
 僕はイライラして叫んだ。
「そんな説明じゃわかりません! もっとわかるように教えて下さい」
 吉田先生は深呼吸した。
「結局、この病気は遺伝子異常の病気です。
この病気を発症した人は、単に老化現象がみられるだけでなく、遺伝子変異が認められます。だから、遺伝子検査が必要なんです」
「はい・・・」
「なので、大きな病院を紹介しますから、そちらで遺伝子検査をしてもらって下さい」
「わかりました」
「しかし・・・」
 僕は吉田先生を見つめた。
「何ですか! 黙ってないで、言って下さい」
「はい。あなたは言われました、『昨日の夜に急激に老化が進んだ』と・・・。早老症の場合、老化は徐々に進んでいくものなのです。あなたのようなケースは考えられません。あなたの老化は本当に昨日の夜、一気に進んだのですか?」
 全身の血管が沸騰して、頭がクラクラした。
僕の口から野獣のような唸り声が出て来た。
「うぉぉぉー。僕が嘘ついているって言うんですか!」
 吉田先生は両手の手の平を僕の方に向けた。
「昨日の夜、老人とぶつかった時、あなたは気を失ったって言いましたよね。床に倒れた時、ひどく頭をぶつけたはずです。その時に脳障害を負った可能性も・・・」
 口からハアハアという荒い息が出て来ていた。僕は大きく息を吸ってから、ゆっくりと息を吐き出した。
「先生は、結局、何が言いたいんですか?」
 吉田先生はコホンと咳をした。そして、僕の目をジッと見つめた。
「これから私が言うことを冷静に聞いていただけますか?」
「は・・・、はい・・・」
「あなたにお勧めしたいのは、遺伝子の精密検査だけではありません。できましたら、別の検査もお勧めしたいんです」
 吉田先生は言い淀んでから、続けた。
「できましたら、心療内科か、精神科で診ていただいた方がいいと思います。あなたは本当に二十五歳なんですか? もしかしたらあなたは本当は九十歳で、『自分は二十五歳に戻った』と思い込んでいるだけでは・・・」
 僕の膝がピンと伸び、立ち上がっていた。こめかみの辺りの血管がパチンという音を立てて切れた感じがした。呼吸が苦しい。
「僕がキチガイだというんですか!」
「そうは言っていません。でも、ストレスの多い時代です。うつ病などの精神障害を誰が発症させてもおかしくない時代です」
 僕の握りしめた右手のこぶしがワナワナと震えていた。
「わかりました。病院の紹介状はいつ書いていていただけますか?」
「明日取りに来て下さい」
 僕は頭を下げ、診察室を飛び出した。


 それから1週間後の三月二十五日、僕は石川さんに電話した。
「石川さんですか。コウタロウです。ちょっと話したいことがあって、会いたいんですが、ご都合いかがですか?」
「どうしたんだ?」
「はい。ちょっと相談したいことがあって。詳しいことは会った時に話したいんですけど」
「おちこんでいるようだなあ」
「はい」
「それじゃあ、今晩にでも会おうか。夜七時でいいか? 場所は人道トンネルの門司港入口で・・・どうだい?」
「はい」
 

 夜七時に僕はトンネル人道の門司港入口に立っていた。エレベーターのドアが開いて、石川さんが降りて来た。僕達は海に向かって歩いた。
海岸沿いの公園に着いて、ベンチに座った。
東の空に下弦の半月が出ていた。月光を浴びて、僕の気分はいくらか落ち着いていた。
 石川さんが僕をジロジロと見てから言った。
「それで、調子はどうなんだい?」
「最悪です」
 僕は石川さんに話した。ネットで検索して調べたこと。皮膚科に行ったこと。それから、病院の先生から「心療内科か、精神科に行けといわれたことも。
「医者は僕のことをキチガイ扱いしています。体が老化したのは、僕の思い込みだと言わんばかりなんです」
「そうなんだ・・・」
 僕は両手の手の平を合わせて、言った。
「石川さん。僕は一体、どうしたらいいんでしょうか?」
 石川さんは「う~ん」と唸った。そして、両手の手の平を目に当てて、地面に向けて頭を垂れた。
 しばらくしてから、石川さんは手を下ろし、背を伸ばして、僕を見つめた。
「コウタロウ。ワシにはどうしたらいいか、わからない。ただ、ワシたちにできることは、ぶつかった時のことを再現することだけだ」
「そんな・・・。それは以前もやったじゃないですか。そして、僕達は元の状態に戻ることができなかった。また、ぶつかっても、同じことでしょう」
 石川さんが右手の手の平を僕の顔の前に広げた。
「やってみないとわからないぞ。やってみて、効果がなかったら、仕方ない。でも、もしかしたら、効果があるかもしれない。もしかしたら、お前さんが若さを回復することができるかもしれない」
 そう言われて、僕は思った、「石川さんの言うとおりかもしれない。一週間前のようにぶつかったら、元に戻れるかもしれない」と。
 僕は石川さんの腕を取った。
「よし、やりましょう!」
 石川さんは腰を上げて、言った。
「よし。やってみるか!」
 僕達は離れて立ち、そして、お互いに向き合った。僕は言った。
「それじゃあ、僕が合図を送るよ。『イチ、二―、サン』と言ったら、あなたはは走り出して下さい。僕は歩き始めます。そして、ぶつかり合いましょう」
 石川さんは右手を上げて、左右に振った。
「オッケー」
僕は石川さんに向かって歩き始め、石川さんは僕に向かって走り始めた。そして、どんどんお互いの距離を詰めて、ドンとぶつかり合った。僕は後ろに向かって倒れ、地面に尻餅をついた。石川さんが僕に近寄り、肩を支えて起こしてくれた。
 僕は自分の手足を見た。相変わらずヨボヨボの皺だらけだった。僕は叫んだ。
「ダメだ!」
 石川さんが眉毛を寄せて、言った。
「もう一度、チャレンジするか?」
 僕は首を横に振りながら、叫んだ。
「僕は若者に戻りたい。だけど、戻れない! どうしたらいいんだ!」
 石川さんは黙ったまま、うつむいていた。僕は石川さんの後頭部に向かって、つぶやいた。
「あなたはいいですよね。若返ることができたんだから。僕とぶつかって、もし老人に戻ることになったら、大変ですよね! だから、あなたは僕とぶつかるのは本当はいやなんじゃないですか? 僕はもう若い時の自分に戻ることはできないんだ! もうすぐ僕は死んでいくんだ。結婚して家庭を持ったり、我が子が生まれて育てたりもできない。それから、やりたかったことも、もうできないんだ! もうすぐ死んでいくんだ!」
 石川さんは黙ったまま、下唇を噛んでいる。
 僕は嫌味たらしく言った。
「どうせもうすぐ死ぬんだ。僕は自殺する。僕が死んだら、あなたは嬉しいでしょう? だって、僕があなたから若さを取り戻す可能性がなくなるんだから。あなたは若いままだ」
 石川さんが顔を上げて、キッと僕を見た。上の歯と下の歯をギリギリとこすりながら言った。
「コウタロウ。君がやけくそになる気持ちもわかる。でも、理解してほしい、ワシはお前さんから計画的に若さを取り上げたわけじゃない。ワシにしたって、好きで若くなったわけじゃない。たまたまお前さんとぶつかって、自分の意志に関係なく若返った・・・それだけだ。それに、今、お前さんとぶつかり合って、もとの老人に戻ったって仕方ないと思っている。だから、死ぬなんて、言ってもらいたくない」
 僕は横を向いて、ペッと唾を吐いた。
 石川さんの声が聞こえた。
「おい、コウタロウ! こっちを向くんだ」
僕は石川さんの方に向き直った。石川さんは両手で僕の肩をガッチリと握り、そして、前後に揺さぶった。
「変えられないものは受け入れるしかない。お前さんは欲望している、『変えられないものを変えたい』と・・・。それでは苦しむだけだ」
 僕は言い捨てた。
「変えられないとわかっていても、それでもそれを変えたいと思うのが、人間じゃないですか! そんな、頭で理性的に考えて、理想通りに行動できるわけない!」
 石川さんは目を閉じ、頭を左右に振った。
「多くの人は願う、『齢を取りたくない』とか、『死にたくない』とか。そんなこと願っても実現できないとわかっていても、『願わずにはおれない』と思い、無駄な思考を続ける。それが苦しみの原因だ」
「それじゃあ、『齢を取りたくない』とか、『死にたくない』とかいった欲望を無くすことはできるとでも言うんですか?」
 石川さんはうなずいた。
「努力次第で可能だ」
「どうやればいいっていうんですか!」
「自分が思考を追いかけていることに気づき、そうした活動を『やっても無駄なこと』だと悟って、放り出すんだ」
「そんなこと、できない!」
「できないことはない。時間はかかるけどな。そして、それをやりとげない限り、心の平安や気持ちよさ・しなやかさは得られない」
「そんなこと、本当にできるんですか?」
「お前さんはワシとぶつかることがなかったとしても、いつか年老いていくんだ。そして、ワシとぶつかることがなかったとしても、お前さんはいつか死んでいくんだ。それは、避けられないことなんだ。つまり、自分ではコントロールできないこと、変えられないことなんだ。変えられないことは受け入れていくしかない・・・と諦めるんだ」
「欲望を持たない・・・ということですか?」
「そうだ」
「そんなこと、できない」
「できるさ。お前のエゴを忘れるんだ。『自分』なんて存在しないということを知って、『自分が欲望する』という思考作用を停止するんだ」
「そんなこと、無理・・・」
 石川さんは右手の人差し指を立て、強く左右に振った。
「いいや、できる。自己中心的な欲望を止めることは、無理なんかじゃない。なぜって、お前はこの世に生まれ出た時、エゴイズムを持っていたか? お前は幼少期にエゴを刷り込まれたのだ。エゴは幻でしかない」
「そうだけど・・・。でも、今は『自分さえよければいい』と考えるように洗脳されてしまっている」
「そうだな。ほとんどの人類は幼少期から、エゴまみれになるように飼い馴らされている。しかし、すべての人間が死んでいく。人間だけじゃない。あらゆる動植物・・・、命あるものはすべて、老いていき、そして、死ぬんだ。苦しみから解放されたかったら、『今の肉体が自分だ』という思考・概念を忘れるんだ。自分を忘れるんだ」
 僕は地面に視線を降ろした。
「僕が老人になろうが、若いままであろうが、間違いなく、いつか死ぬ・・・っていうことか・・・」
「そうだ。そして、死がお前をつかむのは、いつかわからない。それは、ずっとずっと先かもしれないし、今晩かもしれない。それは誰にもわからない。ワシが二十五歳に若返ったからといって、これからお前さんよりワシの方が長生きするとは限らないんだ」
「若いから先が長いとは限らない・・・っていうことか」
「九十歳のお前さんが、これからあと五年くらい生きるかもしれない。二十五歳のワシが、これからあと七十年くらい生きるかもしれない。宇宙の歴史から考えれば、五年も七十年もあまり変わらない。一瞬だ。今、生きているこの瞬間をどう生きるか・・・、それが重要なんだ。『今、自分が何歳なのか』、なんていうことよりも、『自分はいつ死ぬのか』なんていうことよりも、・・・そんなこと考えずに、今この瞬間に生き切ることが大切ではないかとワシは思う。じゃあな」
 正弘は立ち上がり、僕に背を向けると、ゆっくりと歩きだした。
 僕はトンネル入り口に向かって歩く石川さんの背中を見つめた。正弘の向こう側に関門海峡が光り輝きながら、どっしりと立っていた。

第3章 僕は両親のもとへ行く

 石川さんに会った翌日、僕は遺伝子検査の結果を聞くために、総合病院へ出かけた。そこで、医者から言われた、「検査の結果、遺伝子に異常はない」と。つまり、僕は『ウェルナー症候群』といった『早老病』ではなかった。
僕は医者に詰め寄った。
「じゃあ、僕は一体、何の病気なんですか!」
 医者は僕の目を見ずに、カルテを覗きながら、言った。
「うーん。正直に言わせていただくと、何の病気なのか、私にはわかりせん。しかし、遺伝子には何の異常も見られませんので、『早老病』ではないことは間違いありません。しかし、老人とぶつかったからといって、その老人とあなたの間で『若さ』が移転するなんてことはありえません」
大きな怒鳴り声が僕の口から飛び出した。
「それじゃあ、僕がおかしなことを言っているといいたいんですか!」
 医者は僕の目をまっすぐに見つめた。
「いいえ。そんな風にいっているわけではありません。ただ、現時点では老化した原因が不明です。だから、今は処置の仕方についてどうしたらいいか、わからないでいます」
「わかりました」
 僕は大声で言い放ち、診察室を飛び出していた。

 
 僕は自分が老化したことを父親と母親には黙っていた。しかし、僕は「連絡を取ろう」と思った。なぜかと言うと、医者や会社の人は信じてくれないかもしれないけど、父と母は僕の言うことを信じてくれるだろうと思ったからだ。
 今日は三月二十七日。石川さんとぶつかって、約2週間が経っていた。
 僕は母に電話した。
「母さん? 今晩、そっちに帰ろうと思うんだけど」
 母が大きな声で言った。
「コウタロウ? 何か、あった? アンタ、声がかすれているよ。別の人の声みたい」
「う、うん。実は・・・」
「実は、どうしたんだい?」
「実は、僕は二週間前くらいに一人の老人とぶつかったんだ。そして、気を失ってしまったんだ。それから、意識を取り戻すと、僕は老人になってしまっていたんだ」
 母は大声で笑った。
「コウタロウ! あんた、久しぶりに電話かけて来たと思ったら、冗談を言うなんて。やめてよ、そんな冗談。おもしろくないわよ」
 僕は叫んだ。
「母さん! 冗談なんかじゃないんだ。僕は本当に困っているんだ!」
 母さんが笑うのを止めた。
「本当に?」
「ああ、自分でも信じられない。でも、僕は完全に老人になっているんだ。ぶつかった相手は九十歳だったから、僕は今、九十歳になっていると思う。とにかく、僕は今、九十歳の老人のようにハゲになり、腰が曲がり、皮膚の弾力が失われ、シワが寄っているんだ。今後、動脈硬化や白内障、糖尿病や骨粗しょう症などの病気になるかもしれない。そして、近いうちに死んでしまうんだ・・・」
 母は黙ったままで、荒い呼吸音だけが聞こえてきた。僕は大きな声で言った。
「母さん?」
 しばらくして、母さんが言った。
「コ・・・、コウタロウ。とにかく、今すぐ家に帰っておいで。とにかく、父さんと母さんに顔を見せてよ。そして、病院に行こうよ」
「病院には行ったよ。遺伝子の検査も行ったよ」
「それで、検査の結果はどうだったの?」
 
「そ・・・、そうなの。とにかく、帰って来て、顔を見せてよ。いつ、返って来る?」
「そうだな。仕事も休んでいるし、今から帰るよ」
「わかった。待ってるわ。父さんに電話して、仕事の都合がつけば、帰宅してもらうように頼んでみるわ」
「それじゃあ、今からマンションを出るよ。でも・・・」
「でも? 何なの? コウタロウ?」
「母さん。僕の姿を見た時、びっくりしないでね」
「びっくりなんか、しませんよ。大丈夫。安心して帰っておいで」
「だけど、たぶんびっくりすると思うよ。僕は完全にヨボヨボの爺さんになっているから」
「ハハハ。大丈夫よ、待ってるから、急いで帰っておいで」
 そう母は言ったが、声が引きつっていた。
 僕は電話を切って、自宅を出て、実家に向かった。

 僕の実家は戸畑にある。JR門司港駅から電車に乗って、JR戸畑駅で降りて、バスに乗って実家に向かった。
 バスを降り、しばらく歩いて僕は久しぶりに実家の前に立った。小さな木造の一軒家。僕はフーッと息を吐き出して、呼び鈴を押した。
 インターフォンから母の声が聞こえてきた。
「はい? どなたですか?」
「ただいま。コウタロウです」
 今度は父の声がインターフォンから聞こえてきた。
「コウタロウか? 今すぐ行くから」
 玄関ドアの向こう側でドタドタという足音が聞こえ、ドアのロックが解除されて、扉が開かれた。父と母が立っていた。ドアノブを持ったまま、母は僕の顔を見るなり、頭を左右に振った。母は僕を見つめたまま、口をポカンと開いたまま、何も言わなかった。父は僕を見て、ゆっくりとつぶやいた。
「コウタロウ・・・なのか?」
 僕は父の目を見ながら、うなずいた。
「うん。僕だよ。コタタロウだよ」
 次に母を見ながら、僕は言った。
「母さん? 大丈夫? 僕だよ。コウタロウだよ」
 母は手を口に当て、目から涙を流しながら言った。
「あなた。本当にコウタロウなの?」
「そうだよ、母さん。僕だよ。コウタロウだよ」
 父は倒れそうな母を抱きかかえながら、僕に言った。
「とにかく、上がりなさい」
 僕は靴を脱いで家に上がり、居間まで進んでいった。
 父と母はソファに座ると、しばらく何も言わずに僕を見つめていた。
 やがて父が体全体をブルブルと震わせながら言った。
「コウタロウ。一体、何があったんだ?」
 僕は約二週間前に起こった出来事をかいつまんで報告した。
 父が僕に尋ねた。
「それで、総合病院の先生は何と言っているんだ? 元に戻ることができるのか?」
 僕は首を横に振った。
「残念ながら医者は匙を投げている。僕のこの急激な老化という症状は、遺伝子異常ではないと言っているんだ。そして、仮に僕が遺伝子異常の早老症だったとしても、僕が若返ることは難しいだろうと言っている。それに・・・」
 僕は言葉に詰まってしまう。
 父が僕の目を伺いながら、静かに尋ねた。
「それに? 医者は何と言っているんだ?」
 僕はため息をついた。
「医者は僕を疑っているんだ。つまり、『若者が老人とぶつかったぐらいで急激に老化が進むはずない』と言っているんだ」
「そうか・・・。それは、つらいな。でも、父さんはお前の言うことを信じているよ。母さんだって、そうさ。なあ、母さん?」
 父は母の顔をのぞき込んだ。母は父に答えて、うなずいた。
「そうよ、コウタロウ。あなたが原因不明の難病にかかって、急に年老いたとしても、あなたはあなた。私たちの息子に違いないわ」
 涙が流れ出してきて、止まらなかった。大声が勝手に出て来て、僕は泣き崩れた。母が僕の背中をポンポンと優しくさすってくれた。
 僕は手であふれ出す涙をぬぐった。
「だけど、僕はたぶん、もう九〇歳になっているんだ。生きられるとしても、あと何年かだけなんだ」
 母がむせび泣き始めた。
 父が叫んだ。
「大丈夫だ。きっと良くなる。必ず治療の方法が見つかるはずだ!」
 僕は頭を左右に振った。
「僕はもう結婚もできない。我が子を持つこともできない。やりたかったこともできない。これから、あと何年生きられるか、わからないんだ。僕にとって生きていくということは苦しみ以外の何ものでもない。僕はもう死にたいんだ!」
 父が僕の肩をつかんだ。
「コウタロウ。そんなこと、言わないでくれ。お前がもし死ぬようなことがあったら・・・」
 父は言葉を詰まらせたまま、顔を伏せて、泣き始めた。
 僕は言った。
「だけど、父さん。僕はもう九十歳なんだ。もうすぐ間違いなく死んでいくんだ。残された人生があと何年、いや何日あるか、わからないんだ。それで僕は生きていかなくてはいけないんだろうか? つらすぎる! 僕はむしろ、死にたい。こんなにつらくてくるしいのに、なぜ生きなければいけないんだ!」
 母さんが僕に抱き着いた。
「コウタロウ。死ぬなんて、言わないで! つらくても、生きてちょうだい!」
 僕は叫んだ。
「だけど、どうしたらいいか、わからない!」
 父が息を整えてから、静かに言った。
「コウタロウ。今から父さんの言うことをよく聞いてくれよ。いいかい? 確かに人生は苦しい。なぜって、人生は自分の思いのままにならないから。自分の願っていることはほとんど実現しないのが、現実だ。だけど、いいかい? ままならぬ人生に対して、人間は選択できる自由があるんだ。人間は動物とは違うんだ!」
 僕は顔を上げて、父を見た。
「選択できる自由? 何、それ? 人間と動物は違う? それ、どういうこと?」
 父が深くうなずいた。
「コウタロウ。いいかい? 動物は本能のままにしか行動できないんだ。何が起ころうと、本能のまま感じ、本能のまま考え、本能のまま行動するんだ。だけど、人間は動物とは異なるんだ。人間は悲惨な事が起きても、それをどう受け止めるかを選ぶことができる。自分ではコントロールできないことが人間は起きても、それに対してどう考えるかを選ぶことができる。自分にとって不快な出来事が起こっても、人間はそれに対してどう行動するかを選ぶことができる。つまり、人間には『選択する自由』があるんだ。お前もその自由を発揮しなくては! 動物に自由はない。本能のままに感じ、考え、行動するしかないけれど、人間は自分で選ぶことができるんだ」
 僕は父を見た。
「僕はあとどれだけの間、生きられるかわからないけれど、残された人生をどう生きるかを自分で選択できるということ?」
「そうさ。誰にでもいつか死ぬ時が来る。私だっていつか必ず死ぬ。死ぬことは避けられない事実だけど、それを嘆いても仕方ない。それに、今この瞬間は生きているということも間違いのない事実なんだ。だったら、この瞬間を精一杯生きるんだ。今この瞬間、自分でどう生きるのかを選択するんだ。今この瞬間、嘆くこともできる。だけど、人間は今この瞬間、別の生き方を選択することができるんだ」
 僕は叫んだ。
「父さん! だけど、残された時間が少ないのは間違いないことなんだ。僕は死ぬまで、一体何をすればいいんだい? どうすれば、この苦しみから脱却することができるんだい?」
 父は目を閉じた。そして、しばらくして、目を開き、僕の目をジッと見据えた。
「コウタロウ。それは、『問い』が間違っているよ」
「『問い』が間違っている?」
「そうだ。お前が今、言った『問い』は、『人間は何をすればいいか』というものだった。そうではなく、こんな風に問う方がいいと父さんは思う。すなはち、『自分は何がしたいんだ?』と・・・」
 僕は頭をかしげた。
「『問い』がどう違うというの? よくわからない」
 父は口角を上げた。
「すべての人間に共通する生き甲斐や人生の目標や使命がある・・・なんて、私は思わないんだ。私には私が満足できる生き甲斐があり、お前にはお前が満足できる生き甲斐があるんだ。生き甲斐や人生目標や使命は人それぞれで、異なるものなんだ。すべての人間に適合する『生きる意味』や『生きがい』などない。だから、探すんだ! 自分にとって意味のあることは何なのか、何をしている時に自分の体が反応するのか、自分の脳が気持ちよくなるものは何かを・・・」
「自分の脳や体がそう反応するかを見る・・・っていうこと?」
 父が大きくうなずいた。
「自分に似合うものを探して、それを選ぶんだ。自己決定するんだ。注意を自分に向けて、自分に合った生き方をチョイスするんだ」
 父が言うことが何となく腑に落ちて、僕は静かにうなずいた。
 僕は父と母に頭を下げて、言った。
「今日はありがとう。今日は父さんと母さんに会えて、良かったよ。今日はこれで変えるよ。また、いつか、返って来るよ」
 母さんがつぶやいた。
「そんな・・・。今日は止まっていきなさい」
 父さんが母さんを制止した。
「母さん。コウタロウが自分で決めたんだ。それを尊重しよう。父さんと母さんはいつでもお前の見方だからな。何かあったら、いつでも頼っていいんだぞ」
 体の中がジーンと熱くなった。
「それじゃあ」
 僕は立ち上がり、実家を後にした。

第4章 僕は恋人のもとへ行く

 今日は四月四日。父と母に会って、一週間が過ぎた。相変わらず会社には行っていない。
 

 僕は父から言われたことを思い出していた。父は僕に言った、「人間には選択できる自由があるのだ」と・・・。それから、父は僕にこうも言った、「生き甲斐や人生目標や使命は各自異なるんだ。僕は、自分にとって意味のあることは何なのか、何をしている時に自分の体が反応するのか、自分の脳が気持ちよくなるものは何かを探せ」と・・・。
 結局、父は「自分の脳や体に目を向けろ」と教えてくれたと思う。そこで、僕は自分の目を向けて、考えてみた、「自分自身にとって本当に意味があり、大切なことは何か」、「自分は何をしている時に体や脳が気持ちいいと感じるのか」と・・・
 そして、僕の頭の中に浮かんで来たのは、恋人の蓮村美和子のことだった。僕は思った、「今この瞬間、彼女に会いたい」と・・・。そらから僕はこうも思った、「これから先、いつ死ぬかわからないけれど、死ぬ前に彼女に会っておきたい」と・・・。
 しかし、一方で不安もあった、「見た目が九十歳のヨボヨボの爺さんになった僕を見て、彼女は僕のことを僕として認めてくれるだろうか」と・・・。僕は思った、「二十三歳の彼女が見た目が九十歳の僕を恋人として受け入れてくれるだろうか」って・・・。だから、僕は美和子へ電話することがなかなかできなかった。
 だが、考えていても仕方がない。何もしなかったら、時間だけが過ぎて、死が僕を捉えてしまうかもしれない。僕には選択する自由がある。死ぬ時になって「あの時、美和子に電話しておけばよかった」と後悔するよりも電話した方がいい・・・、僕はそう決断した。
 
 
 午後五時を過ぎて、勤務時間が終わった頃、僕は美和子の携帯に電話した。
「もしもし。美和子? 僕だけど・・・。」
「コウタロウ? 久しぶりね。声がおかしくない? ひどくかすれていて、コウタロウの声じゃないみたい」
 僕は「コホン、コホン」と咳をしてから、答えた。
「ちょっと対象が悪いから。ところで、今、話しても大丈夫かな?」
「ええ、オッケーよ」
「今晩、会えないか?」
「いいわよ。それじゃあ、待ち合わせは今晩七時に門司港駅近くのいつものカフェでオッケー?」
「ごめん。今日は場所を変えていいかい? 『ブルーウィングもじ』の跳ね橋で待ち合わせしたいんだ」
「ええ、いいわよ。でも、どうして?」
「うん。実は僕は今、病気にかかっているから・・・」
「病気? 何の病気なの?」
「うん。実はちょっとした奇病・・・と言うか、難病にかかっているみたいなんだ」
 僕は一旦、大きく息を吸って吐き出してから、ゆっくりと言った。
「信じられないかもしれないけれど、僕は『早老症』かもしれない」
「そうろうしょう? 何なの、それ?」
「『そうろうしょう』というのは、漢字で書けば、『早く老いる病気』だ。簡単に言うと、僕は急激に老化が進んでいるんだ。僕の見た目は九十歳の老人になっているんだ」
 美和子はしばらく黙り込んでから、言葉をひねり出した。
「嘘・・・でしょう?」
「いや。嘘じゃないんだ。だから、僕に会った時、びっくりしないでほしい」
「うん。わ・・・、わかった」
 美和子が電話をプツンと切った。

 夜七時十分前。僕は自宅マンションを出て、門司港駅近くの跳ね橋まで歩いていく。空を見上げると、三日月が関門橋の上にポッカリと浮かんでいた。
 僕は跳ね橋の近くに立って、視線を送った、美和子が先に来て、跳ね橋のたもとにたっていた。僕は腕時計を見た。時計の針は七時十五分を示していた。僕はユッタリを息を吐き切ってから、美和子の方へ近づいていき、そして、美和子の背中に向かって声をかけた。
「こんばんは」
 美和子が振り向いて、僕を見た。目を大きく開いて、その目は見たこともない怪獣に襲われたかのように恐怖におののいていた。
「美和子? 大丈夫?」
 美和子はあとずさりしながら、右手の手の平を僕の胸の前に伸ばした。
「あなた、誰?」
「誰って・・・。僕だよ。コウタロウだよ」
「嘘、言わないで」
「嘘なんかじゃないよ。僕だよ。由布コウタロウだよ」
「いや!」
 美和子は手を口に当てたまま、体全体が固まっていた。
 僕は下唇を噛んだ。
「美和子。電話でも言ったように、僕は奇病にかかったようなんだ。『早老症』かもしれない。とにかく、老人とぶつかって、若さを吸い取られてしまって、僕は急に老人になってしまったんだ」
 美和子は黙ったまま、体をブルブルと震わせていた。僕は何度か深呼吸を繰り返してから、ゆっくりと言った。
「信じられないかもしれないけれど、本当に起こったことなんだ。僕は総合病院に行って、遺伝子検査も受けたんだ。しかし、遺伝子に異常は認められないんだ。それに、治療方法も見つからないんだ。僕は苦しい。助けてほしい。美和子。できたら、僕の話を聞いてほしい。相談相手になってほしいんだ」
 僕は右足を一歩出して、美和子に近づこうとした。美和子が叫んだ。
「いやっ! 来ないで!」
 美和子は両手を上げて僕を制止し、頭を左右に強く振った。
「私、あなたなんか、知らないわ」
 僕は叫んだ。
「そんなこと、言わないで! 美和子! 今の僕は、見た目は九十歳の老人にしか見えないと思うけれど、中身は『僕』なんだ。正真正銘の『由布コウタロウ』なんだ!」
 美和子が泣きながら絶叫した。
「私、あんたなんか、知らないわ。そんなこと言われても、信じることはできないわ。私が知っている『由布コウタロウ』は若くて、元気で、もっとかっこよかったわ。あんたなんかとは全く別の人間よ」
 血管を流れる血が沸騰した。頭の中で「プチン」という音が聞こえた。頭の血管がいくつか切れたような感じだった。
 僕は大声で叫んでいた。
「美和子! 僕達は『結婚』を誓い合った中じゃないか! それなのに、そんなこと、いわないでくれ! こんな時だからこそ、君に助けてほしいんだ」
「無理だわ! 現実にあんたはしにそこないのヨボヨボの老人よ。そんな人と誰が結婚するっていうの!」
「美和子! 落ち着いてくれよ」
 美和子は吐き捨てた。
「誰が落ち着いていられるのよ! 百歳の老人がいきなり目の前に現れて、『結婚しようって誓ったじゃないか』なんて言われて、誰が信じるっていうのよ!」
「そんな・・・。美和子! 見た目は老人でも、中身は僕のままなんだ。だから、僕を見捨てないでほしい。僕は苦しいんだ。急に老人になって、死のうと思っているんだ。助けてほしいんだ!」
 美和子がハアハアと肩で息をしながら、言った。
「悪いけど、私は慈善事業をやっているわけじゃないわ。死ぬ間際の老人のお世話をしてあげることなんて、できないわ。もし、あんたが本当にコウタロウだというのなら、若さを取り戻してきて。そうしたら、考えてもいいわ」
「僕は若さを取り戻すために、全力を尽くしたんだ。病院にも行ったし、それに、若さを吸い取られた老人と何度かぶつかってみたんだ。そうして、若さを取り戻そうとしたんだ。だけど、どうしても若さを取り戻すことはできないんだ。僕はもうすぐ死ぬかもしれない。助けてくれよ、美和子。お前が頼りなんだ」
 美和子は目を細めて、冷たく僕を見下ろした。
「あんたの言うことが本当だとしたら、若さを吸い取った爺さんから若さを取り返すことね。そうでなければ、信じられないわ」
「だけど、爺さんとぶつかっても、若さを取り戻すことはできないんだ」
 美和子は能面のように無表情な顔で、サラリと言った。
「その爺さんを殺せば、爺さんの若さが体から出て来るかもしれないわ。そうすれば、爺さんの中にあった若さがあんたにもどってくるかもしれないわ」
 心臓が凍結して、ピリッとヒビが入った感じがした。
「君は『爺さんを殺せ』と言うのか?」
 美和子は頭を左右に振った。
「私は知らないわ。とにかく、あんたが若さを取り戻すことができなければ、あんたとなんかオサラバよ」
 美和子はそう言うと、地面に唾をペッと吐き捨てて、後ろを向いた。そして、つかつかと関門橋の方角へ歩いていく。そして、ブルーウィングもじの跳ね橋を渡っていった。美和子の背中が小さくなっていく。
 僕は美和子を追いかけようと思った。しかし、その時、鼻橋が上がり始めた。僕と美和子の間には飛び越えることのできない深い海が横たわっていた。
 僕は黒い海をのぞき込んで、その場にたたずんだ。

第5章 僕は正弘を殺して、若さを取り戻す

 四月九日。僕が老人になって、三週間が過ぎた。
 昼過ぎに、僕は爺さんに電話した。
「こんにちは。コウタロウです。石川さん、今晩、会えませんか?」
 爺さんは「ヘヘッ」と笑ってから、言った。
「どうしたんだい? 急に『会いたい』だなんて・・・。 何か、あったのか?」
 こめかみの血管が小さくドクンと音を立てた。
「い・・・、いいえ、別に何もないんですけど。ひ・・・、久しぶりに話がしたいと思って・・・」
 しばらくの間、爺さんは黙っている。永遠のような十秒間が過ぎた。
「わかったよ。会いにいくよ。何時にどこに行ったらいいんだ?」
「そうですね。午後9時に、関門トンネル人道の下関側出入口ではいいですか?」
「え? 門司港の方がいいんじゃないか? ワシは若いから大丈夫だけれど、お前さんは老体で、地下道を歩いて下関まで来るのは大変だろう? 門司港側の出入り口で待ち合わせようか?」
 僕は声を荒げて言った。
「いえ! 下関側がいいんです!」
「そうか。お前さんがそう言うのなら、そうしよう」
 僕は電話を切った。

 夜8時半。僕は自宅を出た、大きなナイフをカバンに入れて・・・。そして、関門トンネル人道の門司港入口へ向かった。
 そして、エレベーターを降りてから地下道をゆっくり歩いた。そして、再びエレベーターに乗って下関の地上へ上がっていった。
 外へ出て、空を見上げた。真っ暗な西の空に半月が光り輝いていた。灰色の雲が風に流れて行く。汗が背中を流れていく。
 しばらく歩いて、僕は海沿いの公園に辿り着いた。見渡すと、爺さんがベンチに座っていた。
 爺さんは手を上げた。
「おーい。こっちだ!」
 僕は思った、「若いからと言って、元気で大きな声を出しやがって」と・・・。
 それら僕はこっそりと周りを見渡した。誰もいない。僕は思う、「ここで殺してもいいか?」と・・・。心臓がバクンバクンと収縮を繰り返す。
僕は胸を押さえながら爺さんに近寄って行く。
 爺さんは僕の顔を見た。
「コウタロウ。どうしたんだ? そんな、思いつめた顔をして・・・。何か、悪いことがあったのか?」
 僕は内心、思った、「このバカ。僕をだまして、僕から若さを吸い取ったくせに、そんな涼しい顔をしやがって・・・」
 僕はもう一度、周りを見渡した。誰もいない。「よし。ここでやろう」と思った。僕はカバンからナイフを取りだして、両手で柄をにぎり、腹の前で構えた。
「爺さん。悪いけど、死んでもらうよ」
 爺さんの左足がガクガクと小刻みに震えた。そして爺さんは低い声でつぶやいた。
「何があったんだ?」
 頭の中の血管が沸騰した。僕は走り始めた。そして、ナイフを爺さんの腹部にめがけて、腕を伸ばした。
 しかし、届かなかった。爺さんはピョンと横に飛び跳ねた。そして、左手で僕の首根っこをつかんで、引っ張った。そして、右手で拳を作り、僕の顔面を力いっぱい殴りつけた。
「ヒィー」
 僕の口から鳥のような鳴き声が飛び出て来た。
爺さんは僕の胸を突きとばした。僕はお尻から地面に倒れ、あおむけに地面に倒れた。
 爺さんが腕を胸の前で組んで、僕の前に仁王立ちしていた。
「九十歳のお前さんが二十五のワシを殺せるわけ、ないだろう! バカじゃないのか!」
 僕は口の辺りを押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。僕は思った、「爺さんを殺して、若返ろうと思っていたけれど、仕方ない。このまま生きていても仕方ない。死のう」と。
 僕はナイフの刃を自分の胸に向けて柄の部分を持ち、自分の腹に突き刺そうとした。
 しかし、次の瞬間、僕は地面に叩きつけられていた。うつ伏せになり、顔面の右側が地面にこすり付けられていた。
「痛い! 痛い! 離せ! 離せ!」
 爺さんは僕の後頭部を地面に押し付けながら叫んだ。
「ああ、ナイフのことか? こんな物騒な物、持ってちゃ、ダメだ!」
 地面に落ちていたナイフを取り上げて、爺さんは僕の背中の上に馬乗りになった。
 正弘は手で僕の頭をボコンと叩いた。それから、僕の腕を背中に引っ張って、締め付けた。
「コウタロウ。おまえはバカか? 死んで何になる? それに、ワシまで巻き添えにしようとするなんて! 一体、何を考えとるんだ?」
 僕は叫びまくった。
「うるさい。お前は僕の若さを奪ったくせに! 僕の若さを返せ!」
 僕はジタバタと体を動かす。しかし、爺さんに両手で絞めげられて、全く動けない。
 爺さんがつぶやいた
「おい。なぜワシを殺そうとしたんだ? 言ってみろ!」
「うるさい! 誰がそんなこと、言うか!」
 爺さんは両手にグイと力を入れて、僕の腕を肩の方へきつく締め上げる。「ゴキッ」という不気味な音がした。「骨が外れた」と思った。脳天を叩かれたような痛みが全身に走った。
 爺さんが僕の後頭部をパチンパチンと二度、叩いた。
「もう一回、聞くよ。どうして、ワシを殺そうとしたんだ? もし答えなかったら、もう少し力を入れて、締め上げるからね」
 僕は叫んだ。
「この間、恋人だった女の子に会ったんだよ。そしたら、その子に言われたんだ、『あんたみたいな、死人のような爺さんが私の恋人であるはずがない。私の恋人はね、若くて、カッコいいの! あんた、ストーカーでしょ! 警察に訴えるわよ』って・・・」
 正弘は「フム、フム」とあいづちを打った。
「それから?」
「それから、彼女は言ったんだ、『あんたが本当に由布コウタロウだっていうのなら、若さを取り戻してきてよ。そうじゃなければ信じられないわ。あんたから若さを奪った爺さんはあんたから若さを奪う方法をしっていたかもしれないわよ。それで、わざとあんたとぶつかったんじゃないの?』って・・・」
 正弘は右の眉毛をギュッと上げた。
「それは、つまり、ワシが他人から若さを奪う方法を知っていて、ワシが意図的にお前さんにぶつかって、若さを奪い取った・・・っていうことか?」
「そうさ。そして、彼女はさらにこう言ったんだ、『とにかく、あんたの若さはその爺さんの中にある。もしかしたら、その爺さんを殺せば、爺さんの中にあるエネルギーがあんたに流れ込んで来るかもしれない。そうなれば、あんたは若さを取り戻せるかもしれない』と・・・」
 爺さんは目の玉が飛び出てくるくらいに大きく目を開いた。
「それで、お前さんはそれを信じたのか? それで、ワシを殺しにきたというわけか?」
「僕はもう九十歳なんだ。いつ死んでおかしくないんだ。治療方法はないし、結婚を誓い合った恋人にも裏切られたんだ。若さを取り戻すことができなければ、死んだ方がいい」
 爺さんはうなずきながら、つぶやいた。
「つまり、お前さんの恋人はこう言いたいんだろう、『爺さんを殺して、若さを獲得したら、私のところへ戻っていらしゃい。そうしたら、あなたを恋人として認めてあげるわ』と・・・」
 僕は黙ったまま、うなずいた。
 爺さんがしゃべり続けた。
「お前の恋人がお前を恋人にした理由がわかるか?」
「それは、僕達がお互いのことが好きだったからだ!」
「確かにそれもある。しかし、歳老いたお前を拒絶しただろう? それは、つまり、お前さんを恋人にした理由は、お前が若くて、見た目が良かったから・・・さ。若い女の子がヨボヨボ爺さんを恋人にするわけないだろう? お前の中の、目に見えない内面的な性格や人間性などどうでもいいんだよ!」
 僕は何も言えずに、うつむいた。
 爺さんがしゃべりつづけた。
「なあ、コウタロウ。お前って、一体、何者だ? 若者であろうが、年寄りであろうが、変わらないお前って、一体、何なんだ?」
「僕は・・・僕は・・・由布コウタロウだ」
「それは、単なる名前だろ? 本当のお前って、一体、何なんだ?」
「本当の僕は・・・この肉体だ」
「違うな。普通はそんなふうに考えるものだが、間違っている。人はついつい考えてしまう、『皮膚の内側が自分で、皮膚の外側が自分以外の存在・・・』って。しかし、違う!」
「どこが違うっていうんだ!」
「それじゃあ、質問だ。お前さんは自分が死ねば、それで『すべて、終わり』・・・だと思うか?」
「もちろんそうだ。僕は呼吸や心臓が停止し、活動を停止すれば、僕は死んでしまって、それで僕という存在は消滅だ」
「そうか。お前さんは思っているんだな、自分は単なる肉体だと・・・。 目で見えるもの、そして、手で触れるもの・・・それが『自分』であると・・・」
「そうに決まってる! 僕はこの世に肉体を持った存在として生まれて来て、そして、死ねば肉体も朽ち果てていく・・・、そうした肉体が『自分』だ」
「『自分』とは単なる肉体・・・とお前さんが考えるのなら、『死体となった自分』つまり『お前の死体』は、『自分』と言えるのか?」
 僕は首を大きく横に振った。
「僕の死体は、僕じゃない。生きていなければ、『僕』じゃない!」
「それでは、『生きている』とは何なんだ?」
 僕は頭を巡らして考えた、「生きているとは何なんだ?」と・・・
「生きているとは、イノチを保つこと・・・か?」
 爺さんが言う。
「じゃあ、『イノチ』とは何なんだ? イノチをワシに見せてくれ」
 僕は声を出して笑った。
「イノチを体から取り出して見せるなんてできるはずない。イノチは目には見えないもので、体の中に流れているものだからな」
「その無色透明のエネルギーに人間は『イノチ』という名前を付けている。しかし、人の中にある、その透明なエネルギーこそ、お前さんの本質ではないだろうか? 確かに肉体が無ければ生きていくことはできない。しかし、肉体があっても、イノチと呼ばれるエネルギーが無ければ、生きることはできない。事故や病気で肉体の中にあるイノチが無くなれば、お前さんはお前さんでなくなる。つまり・・・」
 僕はつぶやいた。
「つまり、『イノチ』と呼ばれているものが、『本当の自分』・・・だというのか?」
 爺さんはうなずいた。
「そして、そのエネルギーは、お前だけでなく・・・」
「すべての人間に流れ込んでいる?」
「そして、そのエネルギーは人間だけでなく・・・」
「すべての動植物に流れ込んでいる?」
 爺さんが右手の人差し指の先を僕の胸に向けて言った。
「その通り! ということは、自分も他人も動物も虫も植物も、すべて・・・」
 僕は頭をかしげてから、言った。
「ということは、すべてに『同じエネルギーが流れ込んでいる』。ただ、エネルギーが流れ込んだ肉体が異なるだけ・・・?」
「うむ。その通りだ。人間にも犬にも蝉にも同じエネルギーが流れ込んでいる。自分も他人も動物も虫も植物も、見た目は一つ一つ異なっているけれど、本質的には同じイノチなのだ。大いなるイノチのエネルギーは宇宙全体に蔓延していて、お前の中にもお前以外の生き物の中にも流れ込んでいる」
「つまり・・・、『大いなるイノチのエネルギー』が本当の僕なんだ・・・」
 爺さんが満面の笑顔でうなずいた。
「ワシもそう思う。自分の本質が『無色透明のエネルギー』・・・『風のようなもの』だと自覚したら、自分にピッタリする生きがいや気持ち良さを感じる人生をクリエイトしていくことができる」
 僕は爺さんの目を見つめた。
「『自分にピッタリする生きがいや気持ちよさを感じる人生』・・・だって?  人はすべていつか死んでいく。それなのに、なぜ生きるんだ? 結果はすべて同じで、死ぬっていうことだ。それなのに、生きることに意味や価値なんてあるんだろうか?」
 爺さんはうなずいた。
「お前さんの言う通りかもしれん。ワシもお前もうさぎも蟻も、気づいたらこの世に生まれ出ていた。『生きる』ということを自分で選んできたわけじゃない。『自分にピッタリする生きがいや気持ち良さ』なんて存在しないのかもしれない」
 僕はうなずいた。
「生きることに意味なんてないよ」
「生きることに意味はないかもしれない。しかし、あるかもしれない。しかし、『生きる意味を求めて思索を深め、行動し、苦悶する』ことに意義がある」と、ワシは思うんだ。それこそ、人間だけができる高い精神性であり、自己成長だからだ」
「なるほど」
 爺さんはコホンと咳をしてから、しゃべり続けた。
「それから・・・お前さんの『問い』が間違っていないだろうか? 問うべきは、『すべての人の人生に生きがいはあるか』ではなく・・・、『自分は自分の人生を意味あるものにできているか、自分にピッタリするものを見つけているか』ということではないだろうか?」
「『すべての人』の生きがいではなく、『僕の』生きがいについて? しかも、生きがいや気持ち良さは、最初から与えられているものではなく、自ら創造するもの?」
「そうだ。生きがいは万人共通じゃない。『自分にとって生きがいを感じるものは何か』を問うた方がいい。他人ではなく、お前さん自身の『生きがい』や『気持ち良さ』は何か・・・と問うた方がいい」
 僕は言った。
「僕が生きている意味? 僕にとってピッタリする気持ち良さ? それは・・・」
「コウタロウ。それは、お前さんが生まれた瞬間・・・、お前が赤ちゃんとしてこの世に生まれ出た瞬間、お前さんの体の中にすでに与えられていたのか?」
 僕は考えてみる。でも、それは違うような気がして、僕は首を左右に振る。
 爺さんは息も絶え絶えに言った。
「自分の人生に『生きがい』や『気持ち良さ』があるか、ないか・・・を問うのではなく、『自分にとっての生きがいを探す』、『自分にぴったりする気持ち良さを見つける』ということが必要だと思う。それから・・・ワシらが自らに問うた方がいいことは、『今、自分は自分の人生を意義深いものにすることができているか』ということだと思う」
 僕は爺さんの言葉を繰り返してつぶやいた。
「『人が生きていくことに意味があるのか』と問うのではなく・・・、『自分は自分の人生を意義深いものにできているか』と問うた方がいい・・・」
 爺さんは右手の人差し指を天に向けて、言った。
「提案だ。『今、自分は何をしたいのか』と問うんだ。『自分とは何か』とか『自分の生きる意味は何か』とかを問うことも大切ではある。しかし、『何をしたいんだ?』と問うた方がいい。『何をすれば、自分は意義や意味や気持ち良さを感じることができる?』と問うんだ。そして、その行為を実行する! そのためには・・・」
「そのためには・・・?」
「そのためには、『何をしていけば自分の人生を意義深いものにすることができるのか』をはっきりさせることが必要・・・」
 僕は両手の手の平を合わせて、石川さんに向かって言った。
「石川さん。僕は何をしていけばいい?」
「それは、ワシに尋ねることではない。誰に尋ねることなんだ?」
 僕は了解した、「僕自身だ! 自分が何をすれば満足できるのか、何をすれば気持ちいいと感じることができるのか・・・、それは、自分にしかわからないことなんだ」と・・・。
 僕は目を閉じ、深呼吸を繰り返した。
 そして、目を開いた。目の前の関門海峡を巨大なタンカーがゆっくりと音もなく通り過ぎて行く。その上に、関門橋が光り輝いていた。
 僕は石川さんを見た。
「あなたの言う通りかもしれない。僕は歳を取って、僕も他の人々も目に見えるモノだけが間違いのないものだと思っていた。しかし、大切なものは目には見えないし、手ではふれられないものなのかもしれない。僕は90歳になって、そのことが理解できたよ。これからは問うていきたい、『自分は今、自分の人生を意義深いものにできているか』・・・。また、生きる意味について考えるだけでなく、自分が何をしたいのかということをはっきり決めていきたい。だけど・・・」
 石川さんが頭をかしげた。
「だけど・・・、それから、何なんだ?」
「だけど、僕はもう九十歳だ。明日にでも死ぬかもしれない。いや、今晩、寝ている間に死ぬかもしれない。僕に残された日々は少ないんだ」
 石川さんが「うん、うん」とうなずいた。
「確かに、そうだな。お前さんに残された日々は少ない。日本人男性の平均寿命はとっくに過ぎているからなあ。でも、わからないぞ。
お前は百歳とか、百二十歳とかまで生きるかもしれない。そして、ワシは今、二十五歳だが、ワシは明日死ぬかもしれない」 
 僕は「ハ、ハ、ハ」と大声を出して笑った。
「二十五歳のあなたが明日死ぬだって! そんなこと、ありえないだろう!」
 石川さんは頭を左右に振った。
「こればっかりは誰にもわからない。若いから長生きする・・・とは限らないんだ。若くても、人は交通事故とか心臓発作などで、いつ死ぬか、わからないんだ」
「しかし、その可能性は低いでしょう。それに比べたら、九十歳の老人が死ぬ確率は高い」
「そんなの、平均の話だ。一般的なことなど、どうでもいい。大事なのは、自分がいつ死ぬかだ。平均寿命通りに死ぬなんてありえない。自分はいつ死ぬか、わからないんだ。今日かもしれないし、もっとずっと先かもしれない」
「そう言えば、そうだな」
 石川さんが僕を指差した。
「お前が二十五歳の時、死がいつか自分に訪れる・・・なんてこと、考えたこともなかっただろう? しかし、お前が二十五歳の若者であっても、明日死ぬかもしれないし、今晩死ぬかもしれない」
 僕はそう言われて、ハッと気づいた。
「そうだったな。その通りだったな。二十五歳の時でも、それを自覚していなければいけなかった。自分にやがて死が来ることを深く認識できないなんて、ダメだったな。そうしたことをきちんとわかっていたら、あなたを殺そうなんてしなかったのに。本当に申し訳ありませんでした」
 僕は石川さんに向かって深く頭を下げた。
 石川さんの声が聞こえてきた。
「頭を上げろよ。ワシはお前とぶつかって、若くなったのは事実。お前さんがワシのことを恨むのは仕方ない。だが、今晩死ぬかもしれないのは、お前さんだけじゃない。ワシだって同じだ。『死』はゆっくりゆっくりと知らぬ間に近づいて来て、そして、思わぬ時に人を襲うんだ。そいつはいつか必ずやってくる」
 僕は正弘の顔を見た。
「わかったよ」
「どうせいつか死ぬから、生きていることに意味はない・・・ではない。死がやって来る前に、自分がやるべきことをやる、自分が本当にやりたいことをやる・・・、『死』に対してそういう態度が大切なんじゃないだろうか? もし永遠に生きて、絶対に死なない・・・と言う状況があれば、人は必死に生きないのではないだろうか?」
「死ねない。永遠に生きる。・・・それこそ、地獄かもしれない」
 正弘はニコッと笑った。
「早く帰って寝ろ。今日は終わりだ。そして、明日は別の日だ。なんとかなるさ」
 そう言うと、正弘は僕に背を向けて、歩き去った。

第6章 満月の夜、僕達は再びぶつかり合う

 四月十七日、満月の夜。
 午後7時に電話がかかって来た。石川さんからだった。
「コウタロウ。元気にしているか?」
「うん。まあまあ元気にしているけれど・・・」
「今晩、会いたいんだが、都合はどうだい?」
「どうしたの、急に?」
「いや。特に用事はないんだけど、久しぶりに会いたいと思って・・・。都合はどうだ?」
「いいですよ。何時にどこに行ったらいいですか?」
「そうだな。夜9時30分に関門トンネル人道の門司港側出入口で・・・」
 僕は思わず叫んだ。
「えーっ。なぜそんな場所なんですか? おまけに夜遅いし・・・」
「老人にとっては辛すぎるか?」
 僕は少し考えてから、言った。
「いいですよ。それで、一体、何の用事なんですか?」
 長い沈黙のあと、正弘が言った。
「とにかく来いよ。待ってる」
 そう言うと、石川さんは電話を切った。


 僕は夕食を食べてから、時計を見た。午後九時十分になっていた。僕は自宅を出て、関門トンネル人道の門司港出入口まで歩いて行った。
 しばらくして、エレベーターのドアが開いた。そして、石川さんが降りて来た。正弘はげっそりと痩せていた。この間、会ったのが、約1週間前だったが、別人のようだった。ほっぺがこけていた。僕は心配になって、声をかけた。
「石川さん? 大丈夫ですか? なんか、元気なさそうですけど・・・」
 石川さんは力なく白い歯を少しだけ見せた。
「大丈夫だ。ちょっと走り過ぎたかもな」
「そうか。それなら、いいけど・・・」
 石川さんは左手の人差し指を口に当てた。爪を噛みながら言った。
「コウタロウ。今から人道のまん中の県境に行こう。そして、そこでぶつかろう」
 思わず僕は石川さんの目をのぞき込んだ。
「石川さん。一体、どうしたんです? 僕とあなたがぶつかっても、もう元の姿には戻れないでしょ! 何度かチャレンジしたじゃないですか!」
石川さんは笑いながら言った。
「今日は満月だからな」 
 僕は思った、「何、おかしなことを言ってるんだ?」と・・・
 僕は口をポカンと開いたまま、石川さんを見た。
 石川さんは右眼をつむった。
「行こう!」
 そう言うと、正弘はエレベーターのボタンを押し、開いたドアの中へ入っていった。そして、中に入って、ドアを開くボタンを押したまま、僕を待っていた。僕は言われるままにエレベーターの中に入っていった。
 エレベーターで地下まで降りて、僕達は人道を歩き始めた。正弘は黙ったまま歩く。僕も静かに歩き続けた。
 人道のまん中あたりの県境に到着した。石川さんは立ち止まり、僕の方に向き直った。
「それじゃあ、今からぶつかり合おう」
 僕はうなずいた。
「僕はどうしたらいいですか?」
「お前さんは門司港側へ少し戻って、下関に向かって歩いて来てくれ。ワシはもう少し下関側まで進んで、門司港側に向かって走っていくから。ちょうど県境の線の辺りでぶつかるんだ」
「はい。でも、まあ、こんなことしても意味ないと思いますけど・・・」
「やってみなくちゃ、わからない。じゃあ、準備してくれ」
 僕はうなずき、県境から門司港側に向かって十メートルほど歩いた。そして、下関側を見た。すると、石川さんは下関側に向かって走って、県境から五十メートルほど離れた場所に立っていた。
 僕は右手を上げて左右に振りながら、叫んだ。
「じゃあ、石川さん。もう歩き始めていいですか!」
 誰もいない人道に僕の声がこだました。
 石川さんは左腕を上げて腕時計を見てから、僕に向かって右手を上げた。
「まだだ! まだ九時五十五分だ。もう少し待ってくれ。九時五十九分四十秒になったら、カウントダウンを始めるよ。『十、九、八、七、六、五、四、三、二、一』っていう風に・・・。そして、五九分五〇秒になった瞬間、動き出すんだ! そして、十時ジャストにワシもお前さんも県境に到達するんだ。そして、ぶつかるんだ!」
 僕は頭をかしげながら、叫んだ。
「わかりました。つまり、十時ジャストにぶつかる・・・っていうことですね。だけど、なぜ十時ジャストなんですか?」
 石川さんは両手の手の平を天井に向けて、肩をすくめた。
「ワシにもわからんよ。ただ神様がそうしろって言っているんだ」
「神様?」
 石川さんが小さくうなずいた。
「そうだ。ワシの中の神様が言っている、『満月の晩の十時にぶつかれ』と・・・」
 石川さんはそう言うと、腕時計を見続けた。
 そして、しばらく経って、叫んだ。
「今、九時五十九分。もうすぐカウントダウン開始!」
 その時、風が吹き抜けて行った。体全体がブルルッと震えた。石川さんが叫んだ。
「五十九分十秒。・・・二十秒。・・・三十秒。準備して!・・・十! 九! 八! 七! 六! 五! 四! 三! 二!一!」
 僕は老体に鞭打って歩き始めた。前方の目をやると、石川さんが両腕を前後に素早く振り、目の玉が飛び出てくるくらいに目を大きく開いて、走って来る。「ハッ、ハッ、ハッ」という呼吸音が近づいてくる。
 県境まであと一メートル! 僕の目の前に石川さんの体がものすごい勢いで近づいてくる。
僕は思わず目を閉じてしまう。でも、目を閉じたまま、前に進む。
「ワーッ!」
 石川さんの雄叫びが静寂を切り裂いた。
 次の瞬間、体に衝撃が走った。体全体が変形して、潰れていく。前に進んでいた体が後ろに倒れていく。後頭部が痛い! 

 
 それからどれくらいの時間が経ったか、わからない。僕は右手で後頭部を押さえ、そして、右手を目の前に持って来た。手に平にべっとりと赤い血がついていた。同時に心臓がビクンと痙攣し、凍りついた。目の前の床に老人が横たわっていた。その時、瞬時に僕は理解した、「目の前の老人は石川さんだ。そして、さっき、ぶつかったことをきっかけに僕も元の自分に戻ったんだ」と・・・
僕は飛び起きて、石川さんに近寄った。
「石川さん! 大丈夫ですか!」
 そして肩に手を当てて強く揺すった。
「う、う、う」
 石川さんが小さなうめき声をあげた。そして、左目をかすかに開けた。
 僕は叫んだ。
「石川さん! 大丈夫ですか?」
 石川さんは目を細めて、僕を見た。
「大丈夫・・・じゃないよ。もうすぐワシは死ぬ。だけど、良かったな、コウタロウ。お前さん、二十五歳に戻れたじゃないか」
 僕は石川さんを抱き上げた。
「死ぬなんて、そんなこと、言わないでください」
「冗談なんかじゃない。ワシにはわかるんだ、もうすぐ死ぬってことが。だから、今日、こうしてぶつかり合おうって提案したんだよ。満月の晩、夜十時きっかり、地下の県境でぶつかり合えば、若さ・・・イノチのエネルギーが移転するんだよ」
 石川さんの呼吸はどんどん絶え絶えになっていく。肩で呼吸をしていた。
 僕は泣きじゃくりながら、頭を下げた。
「死なないでください!」
 石川さんは頭を左右にゆっくりと振った。
「ワシは九十歳なんだぞ。自分でわかっていたんだ、もうじき死ぬって。仮に肉体は若返ったとしても、人間は死ぬべき時が来たら死ぬんだ。誰もいつ死ぬか、わからないけどな」
「石川さん!」
 石川さんは目を細めて、口角を上げた。
「コウタロウ。忘れるな。今この瞬間、お前さんは生きているということを。今、お前さんの中にはイノチのエネルギーがあふれて入るということを。余計なことを考えるな。ただ、力の限り行動するんだ」
 そう言い終わると、正弘は目を閉じた。
「石川さん・・・」
 僕の問いかけに石川さんは答えない。
 石川さんを抱き抱えたまま、僕は泣き続けた。
 その時、関門トンネル人道を風がビューンと吹き抜けていった。



 



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