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<新版画展>千葉市美術館 その3. 第一世代の外国人作家 ヘレン・ハイドの画業と生涯

(前回の記事から続く:その1.その2.は末尾に示します)

外国人作家の活動:年表による概観

 最初に外国人作家が来日してから亡くなるまでの活動年表を示します。
 前回の記事でお断りしましたように、基本的には「江戸東京博物館の「よみがえる浮世絵 ーうるわしき大正新版画展」の図録(平成21年9月発行)(以降、大正新版画展図録と略する)のデータを参考にしています。

江戸東京博物館、「よみがえる浮世絵 
ーうるわしき大正新版画展」の図録(平成21年9月発行)の年表より抜粋

  外国人作家の活動は、三つのステージがあることが見えてきます。

(1)ヘレン・ハイドが1899年(明治32年)に来日し、1903年(明治36年)バーサ・ラムが続き、日本の木版画を習得し独自の作品を制作した時期。
(2)渡邊庄三郎が独立し、1915年(大正4年)にフリッツ・カペラリと出会い、意気投合して二人で「新版画」を生み出してから、その後、エリザベス・キース、チャールズ・バートレットが参加し、「新版画」が軌道に乗り始め、関東大震災で店が壊滅するまで。
(3)関東大震災後渡邊庄三郎が「新版画」を復興する。その間、他の版元も参加する中で、新たにリリアン・ミラー、ポール・ジャクレー、ピーター・アーヴィン・ブラウン、ノエル・ヌエットらが参加する、あるいは本人自身が彫師、摺師を雇って制作する、本人自身が彫り、摺りを行い自作する時期。加えて帰国後も活動した時期。

 なお、小川周子氏の博士論文では、それぞれの期で活動した外国人作家を第一世代第二世代第三世代と分類しています。
 以下、それぞれの時期に従って、各作家の略歴と作品を見ていきます。

時期(1)の作家たち(第一世代)

1.ヘレン・ハイド Helen Hyde 1868~1919年

■略歴

米国ニューヨーク州に生まれる。1899年(明治32)に来日し、アーネスト・フェノロサに出会い、影響を受ける。狩野友信に日本画の技法を学び、フェノロサの勧めで木版画を始める。来日中のエミール・オルリックに木版画の指導を受けた。1902年に再来日し、赤坂の一軒家をアトリエにして制作に打ち込む。

大正新版画展図録 245頁
Helen Hyde, Public domain, via Wikimedia Commons

■代表作品

図1
出展:すべてwikimedia commons , public domain
図2
出展:すべてwikimedia commons , public domain
図3
出展:すべてwikimedia commons , public domain

■作品について

 ここに示した作品は、一例を除いて、すべて来日してから日本画を学んでから制作したものです。

 図1における左上の1897年制作のエッチングが、来日以前のサンフランシスコ在住のときの作品(中華街の子供)で、1901年以降の作品は、全て日本画を習得した後の毛筆による線描の作品です。

 些細なことですが、西洋人にとってはなじみがない縦長、横長の紙について、構図を使いこなしていることにもご注目ください。

 まず図1.および図2.の作品を拡大して見てください。私の感想ですが、人体の輪郭がしっかり描けていることと、いきいきと動きのあるポーズや日本の女性(母親)、子供たちの顔の表情を捉えるのが非常に巧みなことが分かります。顔は西洋人が描きがちなエキゾチズムやカリカチュア的な誇張が一切なくやさしく穏やかな表情をたたえています。特に母子像にそれが出ています。

 さらに着物や樹木などの輪郭線は気持ちよいほど潔く引かれており、線の肥痩も自在で、描いている作者の気持ちが伝わります。参考資料によれば、日本画は1年半程度、狩野友信から習っただけであり、すぐにこれだけの線を筆で描いていることに驚きを禁じえません。(図1のサンフランシスコ時代の作品の、欧米人が描く典型的なペンによる線と比べてみてください。陰影までペンで描く画風から陰影の無い輪郭線のみの画風に変化しています。)

 子供の時に筆を持つ機会のある日本人でさえ、ここまでの線がすぐに引けるとはとても思えないのです。

■絵画の習得歴

 以上から、作者はただものではないという印象を持ちました。基礎がしっかりしていることを感じます。
 事実、本人は来日以前に次のような絵画の習得歴を持っています。(末尾記載参考記事より)

Wellesley School for Girlsを卒業後1886年にthe new California School of Designに入学する。
■ベルリンでフランツ・スカルビナ(ドイツ人印象派画家、版画家、イラストレータ)に師事する。
■パリにて、ラファエル・コラン(フランス人画家、画学校主催、指導者)と フェリックス・レガメ(フランスの画家、挿絵画家)に師事する。
エミール・カールセン(デンマーク出身のアメリカ人印象派画家)に学ぶ

ニューメキシコ州立大学名誉教授のJoan M. Jensen氏、大野順子Rothwell氏およびwikipedia(英語版)の記事を参考に作成した

 以上のように、当時著名な画家達から指導を受けていることが分かります。ラファエル・コラン黒田清輝久米桂一郎岡田三郎助和田英作
指導したことで知られ、ヘレン・ハイドも同門と云えます。

 パリ時代が重要なのは、レガメからジャポニスムの影響を受けたことです。同じくジャポニスムの影響を受けた印象派の画家、メアリー・カサットのカラー・エッチングに傾倒し、これこそが自分が進む道だと決めたようです。

 メアリー・カサットについては、母子像を中心とした油彩とパステル画は画集などで親しんでいましたが、2011年に国立新美術館で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」展 (副題:印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション)で、4枚のカラー・エッチングを始めて見ました。
 見た瞬間「これは新版画だ」と驚くとともに、メアリー・カサットが毛筆ではないものの、最小限の輪郭線で描く日本の浮世絵版画の神髄を見事に捉えていることに感嘆しました。私もハイド同様カサットカラー・エッチングにすぐに虜になったのです(同系色中心の配色や茶系と青の対比も素敵です)。
参考までに図4に母子像の作品を、図5に女性のポーズの作品を示しました。

図4 母子像の作品群
出展:すべてwikimedia commons  public domain
図5 その他の女性像の作品群
出展:すべてwikimedia commons  public domain

 さて、ヘレン・ハイドの欧州留学後の歩みに戻ります。

■帰国と来日そして亡くなるまで

■1894年にカルフォルニアに戻る。銅版画家のジョゼフィン・ハイドと知り合い友人となる。お互いにカラー・エッチングを試みる。
■1899年に二人で来日する。二人で狩野元信に日本画を習う。
■半年後、ジョゼフィン・ハイドは帰国するもヘレン・ハイドは日本に残り、勉強を続ける。
フェノロサと知り合い木版画を勧められる。1900年に版元小林文七のもとから最初の木版画作品「日本の聖母」を出す
■意見の違いからフェノロサ小林から別れ、1900年に来日したばかりのチェコの版画家エミール・オルニクから木版画を習う。
■彫師、摺師を雇い、彼女の監督のもと1900年から1901年にかけて木版画12、エッチング4を制作し100枚から250枚程度摺った。また、日本画でも1901年の第 10 回日本絵画協会展に出品、一等褒状を受賞。
■1901年 帰国。画廊を訪ね展覧会を開く。
■1902年 再来日。赤坂氷川町の日本家屋をアトリエにする。以後摺師村田Shohiroの協力のもと木版画製作に没頭する。
■1908年の「かたこと」(Baby talk, 図2左上)が1909年、シアトルの「アラスカ =ユコン=パシフィック」展金賞受賞。
■サンフランシスコ、シカゴなどでも販売も成功。国際的にも認められる。美術批評家からも好評を受ける。有力な画商を通じてコンスタントに販売収入が入り生活が安定する。
■1910年、癌にかかっていることが判明し帰国する。手術を受け、療養のためメキシコに滞在し、現地で人々の絵を描く。
■1912年、日本に戻り仕事を再開する。日本だけでなくメキシコを題材にした作品を制作する。
■1914年、帰国する。(日本滞在は14年間)
■妹家族と住み、1919年に亡くなる、享年51才。その間も展覧会への出品、個展を開く。

ニューメキシコ州立大学名誉教授のJoan M. Jensen氏、大野順子Rothwell氏およびwikipedia(英語版)の記事を参考に作成した

 以上が、ヘレン・ハイドの日本における活動歴になります。

 2009年の「江戸東京博物館の「よみがえる浮世絵 ーうるわしき大正新版画展」ヘレン・ハイドを知った時、明治の時代に若い女性が単身極東の日本に移り住んで長年版画家として活動したことに驚いたものです。

 明治の時代、西洋の女性が単身来日した例として最初に思い浮かぶのは、1878年(明治11年)に来日したイギリス人女性のイザベラ・バードです。
 バードの肩書が「探検家」となっているように、英国から極東の島に行って旅行することがどれだけ覚悟がいったか想像できると思います。事実来日前、英国では一人旅に反対を受けたようです。

 ヘレン・ハイドは旅行どころか長年日本に住み、版画家として母国でも名を成し、結婚することなく自立して生涯を終えました。

 現代とは違い、欧米でも女性の生き方がかなり制限されていた19世紀から20世紀初頭に自立して生きたヘレン・ハイドは、いったいどういう女性だったのか気になりませんか?

 幸い、ニューメキシコ州立大学名誉教授のJoan M. Jensen氏および大野順子Rothwell氏の資料に、ヘレン・ハイドの人となりを窺える内容がありますので以下に紹介してヘレン・ハイドの項を終わります。

■人となりについて

 まず冒頭にあげたヘレン・ハイドの肖像写真をあらためて見ると、こちらを見つめた目から彼女の強い意思や信念を私は感じます。そしてどこかでみたような・・。
 そう、思いだすのは、エドゥアール・マネが描いたベルト・モリゾの肖像画です。

Edouard Manet - Berthe Morisot With a Bouquet of Violets
出展:wikimedia commons、public domain

 このベルト・モリゾをはじめ、ヘレン・ハイドが目標としたメアリー・カサット、そしてヘレン・ハイドのほぼ同時代3人の画家に共通するのは、いずれも中・上流家庭の出身であることです。
 おそらく、この時代の中・上流階層の家庭では「女性はこうあらねばならぬ」という周囲からの強い圧力があったに違いありません。それを跳ね返すだけの自身の才能への自負と画家として生きるための強さを彼女たちは持っていたと思います。

 実際、ヘレン・ハイドについて云えば、年表だけからでも生きるための積極的な姿勢を感じます。
 社交的な性格からか、知り合った人々が彼女の生き方をアドバイスしたり助けたりしていること、母国では積極的に展覧会へに出品、個展の開催をおこない、有力な画商への販売活動を行っている様子が見えます。

 年表では詳しく記しませんでしたが、具体的な展覧会の出品、個展の開催、受賞歴は以下のようです。

 1894年カリフォルニア中間国際博覧会、1896年メカニックス・インスティテュート(サンフランシスコ)、1897年セントルイス博覧会、1898年マーク・ホプキンス・インスティテュートに出展した。
  1909年シアトルのアラスカ・ユーコン博覧会(金メダル)、1911年から1919年のシカゴエッチング協会、1913年と1914年のパリサロン、1913年から18年カリフォルニアエッチング協会、1915年ペンシルバニア芸術アカデミーパナマパシフィック万国博覧会(銅メダル)、1916年シカゴ芸術協会、そして1920年には再びシカゴ芸術協会に出展(個展)。

引用元:Helen Hyde(1868-1919) Wayback Machine 2012
拙訳

   そして彼女は自ら積極的に販売活動を行っています。

 大人になってからは、芸術活動によって経済的な自立を果たしたと自負していた。彼女は サンフランシスコの画商や、ニューヨークの有名な画廊のオーナー、ウィリアム・マクベスを通じて、作品を売り込んだ。彼女は67枚の木版画を制作したがそれぞれ200枚以上摺ることはなく、1枚2ドルから15ドルで彼らに販売した。1914年までに 彼女は推定16,000枚の版画にサインした。これらの販売収入によって、彼女は快適な中流階級の生活を送ることができた。それは絶え間ない仕事によってのみ可能なことであった。

引用元:Helen Hyde, American Printmaker © Joan M. Jensen 1998
拙訳

 一方、 女性がどのように精神的、経済的自立をしていくか、J.M.Jensen氏の資料でハイド自身の言葉が語られています。

 ハイドは、1913年の夏を共に過ごした女医が語った言葉に賛同して次のように引用している。"私たちは男性が好きかもしれないけれど、彼らを必要としないし、...この世に子供を産むこと以外、私たち自身にできないことは何もない"。そして、冗談めかして続けた。女性は「男性に何かしてあげたい、何か価値があると思わせるために、自分が無力であっても無力なふりをする」と。しかしハイドは決して無力なふりをしたわけではない。ギャラリーオーナーのマクベスに宛てた彼女の手紙を読むと、時におしゃべりでありながら、常に彼女が自分のことなら何でもできるという印象を受ける。その手紙からは自信に満ちたビジネスウーマンの感覚がにじみ出ている。

引用元:Helen Hyde, American Printmaker © Joan M. Jensen 1998
拙訳

 1913年当時の日本の女医さんの先進的な言葉に驚かされますが、賛同したヘレン・ハイド自身の考えとも言えます。またあの積極的な売り込み姿勢はJensen氏が云うようにビジネスウーマンでもあったわけです。

 さて、ヘレン・ハイド自身の木版画ですが、今回の千葉市立美術館での特別展では43点の作品が展示されており、十分に鑑賞することができました。

 冒頭に紹介したように、描く対象は女性か子供で大半を占め、特に子供へのやさしいまなざしを感じます。洋装姿はなく、彼女がどれだけ伝統的な日本の美に魅力を感じていたかが伝わります。
 残念ながら、病気のために日本を去ることになるのですが、彼女自身日露戦争以後の急速な日本の西洋化に危惧をいだいていたようです。彼女のおかげで、江戸の名残を感じさせる人々の姿を見ることが出来ます。派手な色彩は使わず抑えたパステル調で、古めかしさは感じますが主題にあっていると思います。
 51才の若さで亡くなりましたが、生前に批評家やアメリカの版画会にも認められ精一杯生きたという実感を持つことができたのではないでしょうか。

(次回、その4.に続きます)

参考にした資料

(1)Helen Hyde, American Printmaker © Joan M. Jensen 1998
Professor Emerita, New Mexico State University

(2)Helen Hyde(1868-1919)  Wayback Machine, 2012

(3)ヘレン・ハイド (Helen Hyde)1868-1919 ―明治の浮世絵師となったアメリカ人女性― 大野順子Rothwell

(参考)これまでの記事リスト


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