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<ゴッホの手紙 上中下、硲 伊之助訳、岩波文庫> 素描にびっくり、 ゴッホの油彩は線描(素描)そのものだ! 点描延長説への疑問と私見 崩れたゴッホ像(その3)
(前の記事から続く)
謎3)の解答に至った理由
ゴッホが日本の絵画に傾倒したことはよく知られています。(その1)で述べたように、「ゴッホの手紙」の中で語られている日本への想いが教科書にも引用されているので、日本人には周知のことでしょう。
もう一度、謎3)を示します。
謎3)パリ時代以前の鉛筆、木炭による素描から、なぜペンによる素描になったのか? なぜ陰影を描かなくなったのか? 油彩画と関係があるのか?
その解答は以下になります。
ゴッホは、日本の画家が対象を素早くとらえて素描を描いたのだと考え、日本の絵画を目指した。そのため素描は葦ペンによるペン画に変化し、陰影を描かない日本の素描様式になった。その結果、謎1)および2)の解答で述べたように油彩画のタッチも素描の線を反映することになった。あるいは、素描を描くように油彩を描いた。
なお、なお謎1)および2)の解答については、記事(その2)をご覧ください。
それでは、「線スケッチ」の立場から、謎3)の解答の根拠となるゴッホの言葉を見ていきましょう。
なお、ゴッホ自身日本の絵画を600点以上蒐集していたといわれています。
どのような絵を所蔵していたか私の若い時代には知る由がなかったのですが、幸い近年ゴッホ美術館からコレクションが公開されました。
クリエーター別に検索できるようになっており、多い順に、歌川国貞(250)、蔦谷吉蔵(109)、歌川広重(88)、歌川国芳(56)、歌川国貞二世(31)、作者不明(31)となっています。
本問屋の蔦谷吉蔵を除いて、著名な浮世絵画家が並びます。手紙の中では頻繁に北斎の名前が出てきますが、収集品の中にはありません。すでにこの時代高額で手がでなかったのかもしれません。
何という収集量と作家の充実ぶり! この量と質を見ても尋常ではないゴッホの研究心の深さが分かります。
日本へのあこがれ
ゴッホが日本への思いを描いた個所はよく引用されるので、ここでは代表例にとどめます。
たとえ物価が高くても南仏に滞在したわけは、次の通りである。日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家たちにも共通なのに、日本へ行こうとしない―つまり、日本に似ている南仏に。結論として、新しい芸術の将来は南仏にあるようだ。
<前略>僕の仕事はみんな、多少とも日本画が基礎になっている。<中略>
自国では衰退したこの日本芸術は、フランスの印象派芸術家たちの間にその根を下ろしている。
これらの日本画は僕にとって技術面で、売買以上に興味があるし必要なのだ。<下略>
これだけ日本と日本の絵に傾倒すると、描き方も日本風を目指すことになります。次に技法についてのゴッホの言葉を探してみました。
日本の絵画とその技法について
日本の絵画と日本人画家の描法や彩色について述べた部分を引用します。
日本人は素描をするのが速い、まるで稲妻のようだ、それは神経が細かく、感覚が素直なためだ。
どこからこのような知識を得たのでしょうか? 手元に蒐集した日本の絵から受けた印象でしょうか? いずれにせよ、西洋の線の描き方と異なり、一気に筆で描く迷いのない線描に速度を見たに違いありません。
アルル以降描いた素描は、日本の絵画における筆の代わりに葦で作ったペンで素早く線描されていることは明らかです。
<前略>日本の住宅は装飾も何もなくはだかなのだ。このことが、別の時代の極端に単純化された素描に対する、僕の好奇心を呼び起こした。おそらくこの時代の素描とわれわれの言う版画との関係は、地味なミレーとモンチセリとの関係と同じだろう。<中略>
色刷りの版画だって、いくら人から「慣れっこにならないように」と言われても、僕はやはり駄目だ。
だが、今のわれわれの立場では、色のないミレーの画に匹敵する枯淡な性質のものを知ることが必要な気がする。
以上の文は読み取りにくいですが、色彩豊かな色刷り版画の前に、素描(水墨画か)を知る必要があると言っているように受け取れます。
君は北斎を見て、「この波は爪だ、船がその爪に捕らえられているのを感じる」と手紙に書いていたが、北斎もまた君におなじ叫びをあげさせたわけだ。もちろん北斎はその線と素描とによってだがね。
ここでも、色彩よりも素描の線に関心が向けられています。
僕はビングの複製の中では、一茎の草となでしこと北斎がすばらしいと思う。
誰が何といっても、平板な調子で彩色したどんなありふれた日本版画でも、僕にとってはルーベンスやヴェロネーズとおなじ理屈で素晴らしいのだ。それが原始芸術でないことも僕は充分心得ている。
最初の文は、西洋の絵画ではなかった、小さな草花や動物、昆虫などを主役として描いていること、またその絵の描写がすばらしいと言っています。
次に平板な調子の彩色、いわば装飾的な彩色もすばらしいと言っているのですが、そこはゴッホの筆触を露わにする彩色法とは正反対なので、自身は西洋生まれの色彩分割を捨てるわけにはいかないのです(ただし記憶では、手紙の中で「全体を平板に塗る」とは言っています。おそらく陰影をつけないという意味でしょう)。
ゴッホの収集作品には、幕末から維新直後の浮世絵作家の花鳥画が含まれています。ここではそれではなく、パリで目にしたであろう北斎や広重の「一茎の草」の絵や花鳥画を例に挙げます。
![](https://assets.st-note.com/img/1660874007318-8h0tSb8UGR.jpg?width=800)
日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出会う。彼は歳月をどう過ごしているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。ビスマルクの制作を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。
ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、次には季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。
いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。
日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ。
少し長い引用になりました。しかし、前の引用文も含め、中巻、第五四二信では、かなりの熱量で日本の画家と絵について熱くテオに語りかけています。
アルルの風土が日本だと思い込んだのはご愛敬だとしても、「自然の中に生きる」というのは日本の絵の本質をとらえているのではないでしょうか。
これを受けて、自らはどうしたいか、実際に日本人のように描けるよう素描で試していることを書いています。その部分を長めですが引用します。
僕は、日本人がその作品のすべてのものにもっている極度の明確さを、羨ましく思う。それは決して厭な感じを与えもしないし、急いで描いたようにも見えない。彼らの仕事は呼吸のように単純で、まるで服のボタンでもかけるように簡単に、楽々と確かな数本の線で人物を描きあげる。
ああ、僕もわずかな線で人物が描けるようにならなければいけない。<中略>
この手紙を書いている間にも、僕は一ダースは素描した。僕は彼らの方法を見つけようとしているところなのだが、なかなか面倒な仕事だ。つまり僕が求めているのは、わずかな線で男の顔や、女や、子供や、馬や、犬などが、頭も、胴も、足も、腕もしっくりついてみえるようにしよう、というわけだからね。
それでは、実際にどのような試みをしたのか、素描と油彩の例を示します。
まず、昆虫類の素描です。
![](https://assets.st-note.com/img/1660874408008-L6XApmJJ5J.jpg?width=800)
次に「一茎の花」や花鳥画に対応する素描と油彩です。
![](https://assets.st-note.com/img/1660884549335-IksOBop2K0.jpg?width=800)
ゴッホの日本に関する油彩と言えば、浮世絵を背景に描いたり、広重の浮世絵をそのまま模写(翻案)したものが目に浮かびますが、アイリスの油彩を除き、花だけや昆虫を含む油彩は新しい発見でした。
以上、謎3)の解答の裏付けは、引用したゴッホの手紙の中の発言で十分示されたのではないでしょうか。
最後に
人となり、人物像
「ゴッホの手紙」の素描に驚いてこの記事を書くことになったのですが、素描とは別に、ゴッホの人となり、性格についても印象が変わりました。
私自身は、ゴッホを「炎の人」「情熱の画家」「天才画家」さらには「狂気の人」など一般に形容される姿でイメージしていましたが、本を読み込んでみると別の面も感じました。
例えば、母国語ではない英語やフランス語を当たり前のように使っています(ベルナールにはフランス語で手紙を書き、読書もフランス語の本を読みこなしています。テオ宛の手紙は何語か確認していません)。ですから語学だけでもかなり勉強したはずです。まとめると、以下になります。
勤勉家、努力家、働き者、研究家、挑戦者、思索者、哲学者、読書家など。
対人的には、情愛のある人、人物批評家、人生については楽観家、信念の人など・・。
少なくとも手紙を書いているときは、とても冷静で激情家ではありません。
今回の記事で実は書き残したことがあります。アルル移住以降のモティーフの選び方、日本式構図、余白についてです。
それらは、別の機会(注)に記事にすることにして、読書感想文は終わりにします。
(注)補遺の記事を作成しました。下記をご覧ください。
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