「5年で寝たきりになることも覚悟してください。」

母、若年性アルツハイマー型認知症になる

「最悪のケース、5年で寝たきりになることも覚悟してください。」

目の前にいるメガネの無愛想なおじさんが、これまた無愛想な物言いで
なんとも不思議なことを言っている。

私と、不愛想なおじさんと、看護師さんのいる狭い診察室。
そこから少し離れた待合いの椅子に、ちょっと痩せたおかげで昔よりも健康的に、なんだか小さく可愛らしくなったように見える母の姿。母は 付き添ってくれた叔母と一緒に座って、待合いにあるテレビを眺めて待っている。その辺りの中年女性と何ら変わりなく見える、むしろ歳のわりに若く見られることも多い母。
そこに、だれの手も借りることなく一人で座っている私の大好きな母。
その母が5年後、寝たきりになる?

私、当時25歳。仕事が忙しくも楽しくて仕方なかった時期だった。休みを使って東京から飛行機で地元に戻り、初めて私も母の通院に付き添った。母は、叔母が見つけてきたとある脳神経外科に通い始めていた。

認知症。
65歳以下で発症するものには、 ‟若年性” とつけられる。
母、当時52歳。

私とは初めて会うのに挨拶もそこそこに説明を始める不愛想なおじさん。

「若年性認知症の場合、高齢の人のそれと比べて症状の進行スピードが速いです。若年性の人のなかには、あっという間に進行して寝たきりになるケースも多くみられます。もちろん、すべての人がというわけではないですけど。」

加えて不愛想なおじさんは言う。

「ちょっと若すぎるね。」

残念ながら、父が言っていたことは 現実だったらしい。

非日常への入り口

「〇〇、今から話すこと、落ち着いて聞いてほしいんだけど。」

私の名前を呼ぶ声。地元にいる父から電話がかかってきた。

私の勝手な理想の?父親像だが、世の中の父というものは 娘が可愛くて可愛くてしょうがない生きものだと思っている。だけど、それとは遠くかけ離れているのがわが家の父。

「上京した娘が心配ではないのか!」とこちらから電話をかけそうになるくらい、普段 娘への連絡は一切なし。
父が東京に出張で来ていることを、何度母からの電話で知ったかな。出張があっても娘の顔を見ていく、電話をする、なんてことはしない。そんな暇もないくらい父の仕事が忙しかったというのも事実だけれど、「にしても!」と言いたくなるほど連絡をよこさない、そんな父。

「え? うん。…なに?」

仕事で疲れてぼんやりしていた私も、父からの珍しい電話になんだか嫌な予感がして、すぐに頭がぴりっとした。身構える。


「ママを連れて大学病院に行って、検査を受けたんだよね。

それで、病気が見つかって。

若年性アルツハイマー型認知症って、診断がついた。」


突然の単語に理解が追いつかない。けれど、ただとてつもなく悲しいことが起きたということだけは分かった。
電話口の父は、母が検査を受けることになった経緯を淡々と説明している。私はたらたらと涙が止まらない。

とにかく、「うん」と相槌を打つしかできないでいる私の気持ちを知ってか知らずか、父はさらに淡々と続けていく。

現代医学では、治療法は見つかっていないこと。
対処療法しかなく、進行がゆるやかになればラッキー程度なこと。
つまり、進行していく前提ということ。
母本人も診断結果は聞いていること。
母は、病気のことを自分の口から、娘たちの顔を見て伝えたいと思っていること。
来月予定している家族旅行で、私たちに話すつもりでいること。


じゃあなぜ母の意に反して今、父が伝えているのか。

母が当時勤めていた仕事を辞める上で、母の会社の人には早急に病気のことを伝えなければならないこと。
母の同僚の一部にも伝わること。その中に私たちとも直接交流があるお世話やきな人がいて、口止めをお願いしてはいるけれど、お世話やきさんの性格上 悪気なく私たちに病気のことをぽろっと…なんてことがあり得る。(過去にそういうことがあった。)
というわけで、母の病気のことを不本意な形で知ることがないように、父が先に伝えていること。

それから、

「あなた達が つらいのは分かる。パパもつらい。
でも、今一番つらくて、悲しくて、不安なのは、ママなんだよね。
だから、あなた達には、ママが自分で病気のことを伝えたときに
 ‟そうなんだ。そんなに心配しなくて大丈夫だよ。大したことではないよ。”って、どっしりと受け止めてあげて欲しい。大丈夫よってママを安心させてあげてほしい。そのための心の準備をしておいてもらいたい。」



「もう一つ、ママの病気のためにあなた達が何かを諦めるような選択はしないでほしい。それは、パパも望んでないし、何よりママが一番悲しむからね。自分のしたいことをしてほしい。」


私はなんて返事をしたのか、どうやって電話を切ったのか覚えてない。
でも、この電話が非日常への入り口だった。

どうして母が?
どうしてこんなことになった?
なにか防ぐ方法はなかったのか?もっと早く気づけていたら?
と、これから立ち向かうべき未来には大して役に立たないであろうことを考えては、泣いて悔やしがることをやめられなかった。

今を大切にするため、だれかと痛みを分かつため

私は診断がおりた翌々年、東京から地元の実家に帰ってきた。それから今日まで母と私、父の三人で一緒に暮らしている。

不愛想なおじさんに不思議なことを言われたあの日から、5年経った。
病気の進行には個人差がある。
幸いにも 母は最悪のケースにあてはまらなっかたようで、寝たきりにはなっていない。

でも、月日が経つにつれて、母の病の正体を知っていく。
そして、あのとき不愛想な医者が放った
「最悪のケース、5年で寝たきりになることも覚悟してください。」
という強烈な言葉が 単なる脅しではなかったことを知っていく。

母が確実に進行していく姿を見て、下手すれば数か月後、長くてもそんなに遠くない未来、この言葉が実現してしまうかもしれないことを今の私は理解できる。

母とのことを残そうと思った理由。
介護の時間はなかなかのしんどさで、どうしても苦しさに囚われてしまう。
苦しいことは正直に苦しいままでいい。でも、その苦しさも今しか過ごせない時間だと、もっと噛みしめて過ごせるように。
自分のために、母との時間を意識して残していきたいというのが一つ。

もう一つ。
母に診断がついた当時、[若年性アルツハイマー]だの「若年性認知症]だの[在宅介護]だのネット検索でヒットした記事を片っ端からチェックしていった私。少しでも備えておきたくて。これから母に寄り添っていくうえで参考になりそうなことを必死に拾って集めた。

特に、実際に身内を介護されている方の介護日記を見つけては、最初の投稿からさかのぼって一つも残らず読み漁った。最初から最後まで徹夜して読み切ったこともあった。

進行のスピードだけでなくて、進行の仕方も十人十色だったけれど、そこにあったのは介護のノウハウだけではなかった。
愛と優しさ、ゆえに生じる悲しさやつらさ、葛藤を読ませてもらうことで私自身の抱える痛みを分かち合ってもらっているような感覚になった。

私の記録も、もしかすると いつか どこかのだれかの目にとまり、同じように痛みを分かつことができるのかもしれない。もちろん、そうではないかもしれないけれど。これが二つ目。

そんなわけで、このnote、母のことだけを書くと決めているわけではないので雑多に書くうちの一つとしてではありますが
[母と私の備忘録]を残していこうと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?