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【刀のはなし】鑑定結果が届きました!

当然うちに転がり込んできた刀の話の続きです。前回、鑑定依頼を出して、その結果です。


鑑定 


倉敷刀剣美術館さんに刀を送って、お盆を挟んで30日後、鑑定結果が届きました。体感、研ぎに出してる期間より長かった。

立派なケースに入った、写真付きの鑑定書。かっこいい!裏側には登録証を入れられるスペースがあって便利。

さて、お待ちかねの鑑定結果です。突然うちに転がり込んで来た2振の刀。まずは大きい方から。

①刀


偽銘との極め!!!

ざんねん。最初に見た時から予感はしてたけど流石にざんねん。でも早い段階ではっきりしてもらえてよかった。残念ではあるけど、気持ちがずいぶんスッキリした。

偽銘がほぼ確定したので、心置きなくここに書こうと思います。関係各位のことがあるので全部は書けませんが、私以外の誰かにこの刀のことを知ってもらいたいので。

余談ですが私は「嘘から出た誠」という言葉が好きです。この刀の銘や逸話が偽りでも、この出会いでできた繋がりや観てきた景色は本物だと思っています。
それに、これまで私がオタクとして生きてきた中の、虚構が生んだあらゆる物語から得た感動も、吸血鬼というフィクションに魅せられてチェイチ城で観た美しい景色も、描かれた物語をきっかけに知った自分のルーツも、それは全部、私が得た本当で本物の、大切な宝物です。
元のきっかけが嘘や偽りでも、そこから得たものが本物なら、それは人が得ることのできるひとつの価値だと思っています。

この刀の価値がある程度わかった今、ある意味で私自身が逸話になるのもアリだと思います。というわけで、ここに残しておきます。

概要

偽銘でしたが、この刀に入っていた銘は「相模国住人 貞宗」。実際の極めは「備後 中三原系」。現在の広島県の刀工の作で、南北朝時代・延文頃(1356年〜1361年)との極めでした。火災に遭った形跡があり、やはり焼き直されて再刃となっているようです。

所持銘

この刀には、この銘に加え、所持者名として「脇坂中務少輔所持」と刻まれていました。


「脇坂中務少輔」とは、戦国時代の武将 脇坂安治公を差すと思われます。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで功績を挙げた「賤ヶ岳の七本槍」の1人で、淡路国洲本藩主、龍野藩脇坂家の初代。関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返ったうちの1人としても有名です。

私は戦国時代に全く詳しくなく、お恥ずかしながら脇坂安治公のこともこの刀を見るまで存じ上げませんでしたが、調べるうちにいろんな人による話が残っていることがわかりました。
あらゆる武将仲間や部下に慕われた人物であったこと。仲良しの武将に手紙で「人に好かれるタイプで羨ましい」と言われるような人柄であったこと。
関ヶ原の戦いで寝返った経緯があるにも関わらず、その手紙を書いた仲良しの武将による根回しで、寝返り組の中で唯一領土を安堵されたこと。
戦国武将の中で珍しく、直系の子孫が明治時代まで続いたこと。しかもその直系が途絶えた理由というのが、その例の仲良しの武将の子孫を養子に迎えたからというもの。すごい…将来永劫ズッ友じゃん…。
(ちなみに今回のこの刀が来たのもそのズッ友の武将の宗家からだと聞いているんですけど、この件は深く追求しないことにします。今の段階では)

また、後継の子孫が現在の兵庫県たつの市、龍野城の領地を収めていました。その地元の神社で、初代藩主 脇坂安治公が祀られています。


というわけでお参りに行きました。登録審査会に行く前に、ご挨拶に。龍野へ。

聖地巡礼


龍野神社
桜が満開!


予定を立てた時点では全く知らなかったんだけど、たまたま年に一回の武者行列のお祭り日に当たってしまい、完全に巻き込まれてしまいました。楽しかった。

戦国時代にタイムスリップしちゃったみたいだった

観光客向けの行事というわけでは全くなく、地元のお祭りという感じで、和気あいあいと楽しい雰囲気でした。

生誕地の滋賀県長浜市、脇坂甚内安治侯顕彰会の皆様
脇坂家の輪違いの家紋
たぶん「貂の皮の槍鞘」
龍野城の本丸御殿とスタッフの方
龍野城
桜が綺麗!
城下町
神社横の庭園



結局のところ偽銘だったので、この刀自体は脇坂公とは何の関係もないかもしれませんが、この所持銘のおかげで私はこれまで知ることのなかったたくさんの景色を見ることができました。龍野の桜はとても美しく、地元の方々はよそ者の私にも皆とても親切で、武者行列もとても楽しかった。


きっかけがなかったら知ることもなく、出会うことのなかった景色に出会うことが、私はとても好きです。


あと、関ヶ原の陣地跡にも行きました。

異世界に繋がってそうで怖かったトンネル


思ったこと

出会った虚構に意味を見つけて、色を付けて行くことができるのが、我々オタクだと思っています。実在しない、手が届くことのない、自分には全く影響のないはずの存在を、自分の中に取り入れて大切にして生きていく。
それは古来で言うところの宗教の一種だと思うし、現代において形を変えた偶像的な崇拝なんだと思っています。それぞれの人の中に「神様仏様」のような大事な存在がいて、どんな形であれ、それを持つことは全ての人に対して自由です。それでその人が救われるなら、何であれ、それでいいんだと思います。ただし、誰にも迷惑かけないのを大前提として。

これから

銘こそ偽銘ではあったものの、この刀の何度も研がれてすり減った刀身、見たことのないくらいの使用感、切先にはっきりと残る誉疵。少し見ただけでも、「実用としてバリバリ使っていた」ことがわかります。加えて、この刀は焼き直されている。間違いなく、実用としてバリバリ使うことを望んだ人がいたんだと思います。

博物館で展示されている「綺麗な」刀ばかりを観てきた私にとって、この刀は初めて見るタイプの刀でした。今でこそ日本刀は美術品の扱いですが、本来は人が振るうための武器。実際に人を斬っていたであろう刃物。ただ、今私の目の前にあるものは人の命を奪うような恐ろしいものではなく、その時代を力強く経てきた美しいもので、後の時代にも残していきたいものだと感じました。芸術ってそういうもののような気がする。

これからは、偽銘であることを明らかにした上で、私の元で持ち続けていこうと思います。弊害があれば研師さんや刀屋さんにお願いすれば銘を消すこともできるし(めちゃくちゃ抵抗ありますが…)、何にせよ、私の次の代の主に迷惑かけないよう考えていきたいと思います。

余談ですが、作られた時代の推定が室町、しかも南北朝時代ということで、私が長年推してる「シャーマンキング 」の阿弥陀丸(生前)と同年代ということがわかって静かに興奮しました。しかも(偽銘だったけど)ズッ友武将ズの仲良しエピソードが関係している。長くオタクをしているとこういうこともあるのか…。

②脇差

こちらも一緒に鑑定に出していました。一緒にうちに来た、登録証も刀身も何も問題なかった小さい方の刀。

「定秀(末備前・小反り)」の極めでした!


こちらは切ってあった銘の通りの「定秀」で極められました。しかも小太刀じゃなくて、小太刀っぽい作風が特徴の刀工、末備前小反り系の作で、年代は室町時代後期(天正)との推定です。

概要

小太刀じゃなかったか〜〜〜とは正直思いましたが、室町時代の天正は1573年〜1592年、私が子どもの時からお世話になってて数年前にチェイテ城に聖地巡礼にも行ったエリザベート・バートリ夫人と同年代。同年代…!?!?全然ピンと来ないけどなんかすごい。阿弥陀丸はフィクションだけどこっちは実在した人物で、私は実際にスロヴァキアの居城にまで巡礼に行っている。あの美しい廃墟のお城の自然な残り方を見るに、人が守り続けていた鉄の塊である刀がこんな風に綺麗に残っているのも理解できる。

遠い昔話だと思っていた人物が、確かにあの地で生きていた450年ほど前というのは、意外と今と地続きの、思ったより遠いことではないのかもしれないと、この脇差を見て思いました。

あと、これも余談ですが、私がもともと持ってる脇差も室町時代の極めなので、私の所有している3振の真剣全てが室町時代の作ということになります。多くの刀が作られた時代とはいえ、自分でそう選んだわけではないので不思議とご縁を感じますね。そういえば先日から沼に落ちている能狂言も室町時代からのものだった。私にとっての何なんだ室町時代…!


最後に

これで、うちに転がり込んできた2振のことが概ねわかりました。やっぱりプロはすごい。
ひとまずこの2振の話はこれでひと段落となります。日本美術刀剣保存協会の鑑定に出すかは検討中。


ここまでお読みくださり誠にありがとうございました。また、記事読んだよ〜と言ってくださったり、「イイネ」もすごく励みになりました。ありがとうございました!!!

それでは、どなた様も良い推し活ライフを!

kw

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