「再認識」 4年・坂本寛之
学年としてやれるだけの準備をやったという自信と少しの不安抱えて迎えた1月のシーズン開幕。そこから2月に入り、なにやら怪しい危険な空気が漂い始めた。その頃の自分は世の中がこんなにも変化するとは思ってもいなかったうえに、感染が徐々に拡がり始めても、そこに対しての当事者意識(危機感)は正直持つことができなかった。そして、3月に入ってからは部活動の活動自粛、それに追い討ちをかけるように4月は緊急事態宣言と、サッカーどころではなくなった。そのため、寮に軟禁状態となったことで、静まり返った東伏見を眺めると、ここが早稲田の体育会生の殷賑をたよりに活気に満ちていたのだと改めて感じた。
今回のコロナウイルスを受けて、自分自身、幼い頃から常にサッカーを中心とした生活に身をおいてきた中でそれが奪われ、現実社会では街から人の姿がなくなり、私たちを取り巻く全てのものが止まったような錯覚を覚えた。しかし、毎日夕方を知らせる無機質なチャイムの音や、定時に開催される学年のオンラインミーティングが、「時間」は絶えず動き続けているということを感じさせてくれた。
それと同時に、これまで学校への通学や講義など他者に管理されるものであった時間から解放されたことをきっかけに、比較的自由の多い大学生であるが、24時間という限られた中での可処分時間(食事・睡眠・仕事・家事などを抜いた自分の意志で自由に使える時間)はわずかであったことに気づく。社会人になればその時間はほぼ皆無になってしまうのではないかと強く感じた。だからこそ、何も考えずに座り電車に揺られている間や、何気なくスマホをいじっている時間は本当に価値の無いもったいない時間だと改めて感じた。これだけ聞くと、余裕のない生き急いでいる人間のように思われるかもしれないが、YouTubeやSNSなどで息抜きする時間ももちろん大切である。要するに大事なのは、「常に何に時間を費やしているかを意識し、その時間を把握すること」だと自分は思う。
時間とは追われるものではなく、一人ひとりの中にあり、一人ひとりが刻んでいくものだから、主体的にかけがえのない時間を過ごしていきたいと再認識させられた自粛期間であった。
約2か月間の自粛期間が終わり、全体練習が開始された。次に待ち受けていたのは長い怪我との戦いであった。怪我の期間を一言で表すならば「元の木阿弥」という言葉がぴったりだと思う。長い時間をかけてリハビリを行った上で練習に合流しても、すぐに離脱を繰り返すことが続き正直苦しかった。復帰した今も、その恐怖心が消え去る気配は感じられない。
こういった経験をする中で今年に入り、外池さんがよく使う「感受性」という言葉は曖昧で難しいものだと感じるようになった。
前提として、自分自身の他者への共感力が低いというのも影響するだろうが、基本的に人間はコミュニケーションにおいてその場にふさわしい「役割」を認知し、その「役割」を演じることによって成立している場合がほとんどである。また、その人の思考は、その人の立場や状況、育った環境により必ず違ってくるからわかりづらい。つまり、いくら相手の気持ちを想像し慮ったとしても、本当の気持ちを読み取ること(感受性)は極めて困難であり、限界があると思う。実際に、自分が高校の時に体験した長期離脱と今回の長期離脱では感じるものも見える景色も大きく異った。それは、同期とやれる最後のシーズンだから、約17年間のサッカー人生に終止符を打つカウントダウンが始まっているという焦燥感から、様々な要因がそこにはあると思う。4ヶ月半ぶりに思いっきりボールを蹴った時の嬉しさはいつも以上であり、軽い感動を覚えた。この「引退」が普段の生活の前提にあるといった緊張した状態だったからこそ、いつも以上に憂鬱で苦しかったし、練習に部分合流した時は感じるものがあったのだと思う。この感覚は後輩たちには正直わからないと思うし、少なくとも自分が下級生の時には気づけなかった。なぜならば、その状況を体験・経験していないから。
「美しいものを見て美しいと感じる感受性は教えられるものではない、自分で体験しなければならない」という言葉を何かの本で読んだ記憶があるが、まさにそうだと自分は思う。(しかし、体験していないからといってはじめからそれを放棄することは思考停止であり絶対に違うと思う。その人に寄り添いコミュニケーションをとることでわかり合えることもあるし、本を読み、勉強をすることで今自分が持っている感受性の幅を広げることは十分に可能である。)
実際に、今回のコロナを通して多くの部員は初めて、外的要因によりサッカーをプレーできない状況に直面したはずだ。そして、サッカーができる環境に喜びと感謝の気持ちを心の底から噛みしめたに違いない。おそらく、それまでの自分を含めた多くの部員は「たくさんの方々に日々支えられていることに感謝の気持ちを持ちプレーする」と口では簡単に言うけれども、どこまで意識していたかと言われればたかが知れている。
サッカーができることが当たり前になりすぎていたうえに、できなくなる状況に陥ったことがないからだ。
話が自粛期間中に少し戻るが、自粛期間に読んだ本のひとつに小田実さんの「何でも見てやろう」という本がある。これはまさに今述べたようなことを強く感じさせる内容であった。あらゆる情報に対してインターネットを通じて簡単に得られるようになった現代社会だからこそ、実際に現場に足を運び、目で見て、体験することに大きな価値があると感じた。そして、そんな時代だからこそ、「何でも見てやろう」というメンタリティが重要だと再認識させられた。
いろいろと長々綴ってきたが、大事なことは「時間の使い方」「感受性は体験・経験からしか生まれない」という、考えればごくごく当たり前のことである。しかし、この当たり前を本当の意味で理解するには、何度でも言うが直接的に経験しないといけない。大袈裟かもしれないが、間接的に見て経験しているうちは人生の血となり肉になったとは言えないのではないかと思う。
途切れることのない時間という持続の中で、限られた一部分を生きている私たちは、人生を豊かにしようと勤しむ。そのためのヒントを今回、再認識できた気がする。
最後に、今年の1年間で学んだこと、ア式で4年間積み上げてきたもの。それを社会で生かしていくことが、今年のビジョン「日本をリードする存在になる」を体現できる近道だと自分は考えている。いや、そんなに世の中は甘くはない。それらをベースとした上でもっと貪欲に成長し、未来に向かって力強く進む必要があるはずだ。そんな気持ちをいつまでも大切にし忘れないためにも、自分の好きな言葉(ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」の1節より)で締めたいと思う。
ふもとの太った豚になるな、頂上で凍え死ぬ豹になれ
◇坂本寛之(さかもとひろゆき)◇
学年:4年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:横浜F・マリノスユース
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