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「そこに私はいない」 4年・森本貴裕

こんにちは。
今回部員ブログを担当する4年の森本です。

まずブログっぽく近況でも書いてみましょう。
最近はもう4年生で卒業間近ということで、卒論とか研修課題とか諸々あるものの、ある程度自分のフリータイムを確保できているので、アマゾンプライムで映画を見たり、ニュースピックスをサーフィンしています。
映画は、最近見たのは「インターステラー」という作品なんですけど、非常に感慨深かったですね。なんか、今の自分が考えていることとかすべて馬鹿らしくなりましたね。感受性磨かれてます。
ニュースピックスだと宮台真司さんという方が出演されている対談番組があるんですけど、これを読んでくれているかつ、ニュースピックスに課金しているア式部員は是非あれを見てもらいたいです。ア式蹴球部にとって非常に参考になる思想を語ってくださっています。

こんな感じで、近況報告は終わりにして、本題に移りましょう。
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これまでの23年間、私は色々な決断を下してきた。今日は肉か寿司どっちを食べようかといった本当に些細なことから、進路のような人生を左右する決断まで幅広く。
そして、これまでの人生で下してきた決断の数々を振り返ると、ひとつの疑問が浮上してきた。
『これまでの決断に自分の意思はほとんど反映されていないのではないか。』
という疑問である。
これはどういうことか。具体的な事象を例に説明していく。

まずは中学から高校に上がるときの話をしよう。
私が中3の時、みんなと同じように進路に悩む1人の中学生だった。しかし、他の生徒たちと異なる点がひとつあった。それはサッカーをしているということである。高校でも選手権を目指せるようなハイレベルな環境でやりたい。この条件が非常に私を悩ませた。そんな時、ジュニアユースでお世話になっていたコーチの紹介もあり、新潟のとある学校へのサッカー推薦のお話をいただいた。当時の私にとっては、とても魅力的な選択肢だった。受験勉強しなくていいし、サッカーも強い。仲の良かったチームメイト数名もそこに行くと言っている。おまけに大学までの道も確保されている。最高じゃん。そんな風に思い、9割方自分の気持ちはそっちに決まっていた。そういうわけで、自分の進路を親に話した。「新潟に行きたいんだけど。」と。そうすると親は、「勉強はどうするつもり? サッカーだけやってればそれでいいと思ってる? 考えが甘いんじゃない?」と返してきた。当たり前だ。その学校は偏差値でいうとかなり低かった。大学まで道はあるといってもどんな大学かすらわかっていない。でも当時の私は「それでもいいじゃん、何とかなるでしょ。」と思っていた。この話をジュニアユースのコーチにすると、「親が納得していないなら、お前は行かせられない。納得させるほどの熱量がお前にはないのだろう。」といわれた。確かにそうだった。今ではその進路に決めた理由もかなり不純だったと思う。じゃあ、勉強もそこそこでサッカーも選手権を狙える実力のある県内の高校に行こうと決め、最終的に入学した浦和東高校を選んだ。
この浦和東高校に行こうと決断したとき、はたして私の意思はどれほど反映されていたのだろうか?
最初に進もうと決めた進路から、上記のような紆余曲折を経て最終的な決定をした。その中で、「これなら誰も文句言わないでしょ。」といわんばかりに、指摘された要素をつぶすように選択肢を絞り、最終的に当時の自分の学力との兼ね合いもあり、下した決断だ。つまり、限られた条件かつ、周りを納得させるような条件で選んだ進路なのだ。そのうえ、リスクヘッジをしているような側面がある。まるで、その決断が失敗だったとしても、周りの意見に従っただけで自分のせいじゃないといっているかのように。そこに私の思いは、意思は、考えはどれほど含まれていたのか、いや、含まれていないのかもしれない。
「最終的な決定はお前がしたのだから、お前の意思だろう。」と思う人もいるだろう。確かにそうかもしれない。周りの意見とかすべての条件をひっくるめて自分が良しとして下した決断だからだ。だが、自分の思いを伏せ、周りに忖度をし、狭まった選択肢の中で決めなければいけない時、それは本当の自分の決断だと胸を張って言えるだろうか。

就職活動においてもそうだった。
多くの人は就職先の名前を聞いたとき、大手か、それ以外かに着目すると思う。私はそれにひどく縛られた。とりわけやりたいこともない。これなら自分のスキルを活かせるといった分野もない。じゃあどうやって選択肢を絞るのか。そこでまた“間主観性”が現れる。この間主観性という言葉は、政治学などの学問において用いられる言葉なのだが、ざっくりとした意味は、他者の考えを踏まえた私の考えというものである。この間主観的な考えから導き出された答えは、大手に就職するということだ。「早稲田で体育会なんだから、大手に行くはずと思われているに違いない。」「社名を言えば誰もが知っていて、それに伴い好待遇の企業に入れば、みんなすごいと思うだろう。」そんな風に考えた。今思えば、クズのような考えだ。就職活動中に素晴らしいベンチャー企業に巡り合い、インターンにも参加し、非常にやりがいを感じた企業があった。しかし、先ほどの理由にそぐわずに、最終的な選択肢から外した。今年の5月ぐらいの時に、少し前までこんな考えをしていた自分に無性に腹が立った。自分の進路なのに、周りからの見え方ばかり気にしている。そんな自分に腹が立ったのだ。すでにエントリーは大方終了していたので、そこからは、自分の人生観や理想を体現できそうな企業に優先順位を付けた。
最終的に、巷では大手と呼ばれる企業に就職することになった。この結果には満足しているし、決断にも納得している。しかし、もしかすると、この根本には上記のような考えが根深く存在し、私の考えに見せかけた、周りからの視点を反映した結果なのかもしれない。そうだとすると、やはり私の決断には、私は存在していない。

人生の大事な決断を、このように間主観性に取りつかれて下してきた。
きっと心のどこかで背負うことから逃げてきたのだと思う。
もしその選択が間違っていたと気づいたとき、自分のせいじゃないと思い込むことができるように。
情けない。
しかし、これまでの決断を振り返って失敗したと思うことはほとんどない。
実際、上で挙げた例についても、その決断に今では非常に満足しているし、そうしてよかったと思っている。きっと、失敗だったとしても、自分は失敗だと気づいていないのだろう。振り返っても、大きな決断で失敗したなと思う節は見当たらない。
そんなものだ。結局。
決断は怖い。誰かのせいにしたくなる。しかし、どうせ失敗していても気づかないのだから、思い切って自分に正直に決断しよう。
だからこそ、これからの人生、また大きな決断に迫られたとき、常にこう自分に問いかけようと思う。

『そこにお前の意思はあるか?』



森本貴裕(もりもとたかひろ)
学年:4年
学部:教育学部
前所属チーム:浦和東高校


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