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【#Real Voice】 「試練」 1年・東廉

私は昔からついていない。

小5の県大会。1週間後に大事な初戦を控える中、インフルエンザにかかり試合に出られなかった。
小6のフットサルの全国大会。2週間前にインフルエンザにかかってコンディションを落として大会に臨んだ。
中3のクラブユース。ベスト16で累積警告が溜まり、出場停止になった。
高2の県選抜の大会。前日に捻挫をし、離脱した。
高3の最後のクラブユース。第5中足骨を骨折し、6年間共に歩んできた同期たちとの最後の試合に出られなかった。

圧倒的についていない。私は大事な試合や大会前には必ずと言っていいほど怪我や病気をしてきた。試合に負けるとかいう以前に、まず試合に出られなかったことの方がずっと多い。負けるよりもっと悔しい。みんなが必死で戦っている中、自分はただ見ているだけなのだから。チームのために何もできない自分が嫌になる。


「日頃の行いが悪い」

母は決まって私にそう言った。

「規則正しい生活はした?ストレッチは?ランニングは?努力してないからそうなるんや。神様は見てるで。」

落ち込んでいるときに投げかけられる母の言葉がとても鬱陶しかった。ただ冷静になって考えてみれば、もっとできることがあったのかもしれない、と思った。

神はいるのかもしれない。母のいう通り、私たちの日頃の行いを見て、行いの悪い人には罰を与えているのかもしれない。

だとしても、私には罰を与え過ぎている気がする。自分で言うのもなんだが、私以上に罰を与えられた人はあまりいないと思う。では、なぜ神は私にばかり罰を与えるのか。悔しい思いをしたときはずっとその疑問について考えていた。その結果、

神は私を成長させようとしている

という結論に辿り着いた。試合に出られないというこれ以上ない悔しさを味わうことで、次こそはという思いが本当に強かった。私はその思いをもとに誰よりも成長してこれたと思う。多分神はそれを狙っていたのだろう。そのために怪我や病気という「試練」を私に与えてきた。成長させようという思いがあるのなら、卓越した技術や、超人的な身体能力でもくれたらいいのにと思った。

だがそれはしないのだろう。神は暇だから、少しずつ成長していく私を見て楽しんでいるのだと思う。私のことをずっと見ていて、少しでも隙があれば、試練を与えてくる。そして私はこれからも試練を与えられるたびに成長していくのだろう。

だが本当にそれでいいのだろうか。隙を見せるたびに、怪我や病気をして、試合に出られなくなる。チームに迷惑がかかるし、何より自分自身が不甲斐なさすぎる。その悔しさが自分を成長させると言っても、これからもそんな思いを何度もしてもいいのか。

絶対に嫌だ。

このブログが上がる頃には、後期の関東リーグが開幕している。そして10月の末には早慶戦が控えている。私にとって今年一の目標の試合であり、世間的にも注目度は高く、「大事な試合」に位置づけされる。幸いにも私は今Aチームでプレーさせていただいている。練習後の体のケア、自主練、筋トレ等妥協せずに行う。そして自分にできる最善が尽くせたとき、私は早慶戦に出場しているはずだし、最高のパフォーマンスができるはずだ。

そしてその先も、試合に出られずに不甲斐ない思いはもうしない。大舞台で輝き続ける。
隙を見せないって覚悟を決めたから。



東廉(ひがしれん)
学年:1年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:清水エスパルスユース

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