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「とりあえず気になること2つ」 2年・平田周

死んだらどうなる。

天国もしくは地獄にいくのか。輪廻転生されるのか。それはまた人間へと転生するのか、はたまた別の生物か。もはや死んでいることにも気づけずに、生きているのかもしれない。死んでしまった瞬間に、死に気づかずに生きている自分が存在している世界と、自分が死んでしまった世界がパラレルに存在しているのかもしれない。誰かがいて誰かがいない。無数にあるうちの世界のひとつを私たちが自身の死に気づかず生きているだけで、パラレルに存在している他の世界ではいないはずの誰かが生きているのかもしれない。
これらのほかに奇妙奇天烈な案はまだあるが、いずれにせよ落ち着いていくのは
1.死というのもまた人間が考えたものである
2.死は死を以てしか分からない
の2つである。
この2つは表裏一体であると考えていて、「1.死というのもまた人間が考えたものである」ということは、所詮人間の創造の範疇を超えることはできないことを意味する。たとえ目の前の肉体が動かなくなってしまったとしても、それは私たちの目に映る光景でしかなくて、例えば魂といった(これまた人間が考えたものになるが)私たちの目では捉えぬことのできぬところで何かしらが起きているのかもしれない。
なぜこんなにも途方もない思索にふけるのかというと、「2.死を以てでしか死は分からない」からだ。いや、仮に死んだとしても死後どうなるかわかるという確証はない。ただそうだとしても、死んだところで死後どうなるかわからないということはわかる。あまりにも理不尽だが、それがまた良いのである。
勘違いしてほしくないのは、別に願望があるわけでもないし、そんな勇気もない。ここで、あるやつ(普段から互いにこんなしょうもない議論を繰り広げているやつ)の部員ブログの一説を思い出す。「それでも、あの時間、あの空間は大好きだった。楽しかった。おそらくもっとあった。殴り合いのけんかをしても、家まで追っかけられても、先生に怒られて泣いても、ある人間に火遊びをしながら呪われても、すぐに解決して、仲直りして、次の日また学校に行きたくなった。だからこそ死ぬのが怖かった。どうしても死ぬのが嫌だった。この楽しい時間が永遠に続いてほしいと思った。」 そう、私たちは未来に何らかの希望を持ち合わせているから死ということが怖い(もちろん死が私たちに何をもたらすのかわからないために恐怖を抱くことはあるが)。何か楽しいことが待ち受けているわけでもなく、むしろ今苦しい状況にいるかもしれない。それでも生きているということは、そういうことだと思う。むろん、私もその1人である。今ある生活になんかしらの希望を持ち合わせている。ただあまりにも未知すぎる死後の世界への興味が絶えない時間が突如としてやってくるのだ。


シャワーヘッドから滴り落ちる水滴の音で我に返る。だいぶのぼせてしまった。

いつものようにハト麦化粧水を顔に塗りたくる。ふと鏡を見たときに、そこには1人の顔が写っている。いつから自分という存在を認知し、これが自分だと確固として言えるようになったのだろうか。私は「実際の、生の」私自身の顔を見たことがない。見たことがあるのは鏡や写真に写っている私だと思われる顔だ。私自身の生の顔を見たことがない私はこれらを頼りにして、例えば学校のクラス集合写真を見ながらこれは誰で、これは誰で・・・というようにひとつずつ確かめていき、最後に残った者と私であろう顔を照合して初めてこれが自分なのだとわかったつもりになる。いや信じて疑わない。しかし私が私自身の生の顔を見たわけではなくて、考えてみると不確かな根拠しかない。ただ先程の例のように、私たちは他者との差異のなかで、わたしという存在を確立していくということは強く感じる。普通と異常、現実と非現実といったように、わたしとわたしでないものとを区別し、その差異でわたしを知る。わたしでない人を知ることを通して、わたしを知る。ただ考えれば考えるほど、両者は密に背中合わせになっていて、その境界が曖昧なことを痛感する。わたしは何をもって誰を「非わたし」と差異化することで「わたし」で在りえているのか。わたしという存在はいまだ不思議である。


鏡に写る自分を見て、「こいつはだれか」と考えていると、いつの間にかもう髪は乾いてしまっている。

わたしもあなたも時間を使いすぎたようだ。

早く寝よう。



平田周(ひらためぐる)
学年:2年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:國學院大學久我山高校


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